2017年07月30日

record killer



ある意味、「iPodの死」はひとつの時代の終わりである。

音楽といって思い出す記憶は、人によってはレコード屋でLPのジャケットを次々に引き出しながら選んだことかもしれない。CDを黒いCase Logic製のバインダーに几帳面に整理したことかもしれない。それと同じように、iPodは記憶のなかに残っているのだ。


人によっては、iPodが「アルバム」をいう概念を“殺して”しまったのだと言うかもしれない。自分でつくったプレイリストを楽しんだり、「シャッフルモード」で聴いたりすることが、音楽を聴くという行為そのものになってしまったのだから。

それは確実に「有償の音楽」の死を加速させた。


iPodが姿を消しつつあるいま、ちょっとでもいいから思い出してほしい。iPodが世界に何をもたらしたのか。そう、音楽を“解放”したのである。



iPodは「音楽」に何をもたらしたか──その功績を、販売終了を機に振り返る
https://wired.jp/2017/07/28/say-goodbye-to-ipod/


「有償でしか聴けなかった音楽」を殺したツールが役目を終え、市場から姿を消すってのは、音楽のソフトとハードの歴史をさらえ考えてみると象徴的だな。
レコードやCDは、ただ「持ってること」だけで偉いと思われていた頃があったし、モノとして存在していたから物流の関係で、いかに早く手に入れるかみたいな競争みたいなのもあった。今は、検索ワードを入れれば数秒でほとんどのもののが聴けてしまうし、手にいれられる。これは音楽にかぎったことでもなく、コンテンツ作品全般に言えること。音質にこだわって、レコード一筋なファンもまだ沢山居るけれど、音質うんぬんは楽しむための要素の一つにすぎないし、聴きかたをわざわざ自分から狭める必要もないようにも思う。それよりも、再生機器の変遷によって、(ポピュラー)音楽のスタイルがどんなふうに変化していってきたのだろう? みたいな興味の方が僕にとっては面白く思える。


Home built mechanical sound recorder

CDをカッティングしてレコードにする機械を自作している人の動画。ユーチューブをみていると、海外ではこういうのをやってる人がけっこういる。
( 3'12" までがカッテイング工程。そのあとに音を再生している)






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2017年07月25日

安部公房「砂の女」の英訳を、日本語に再翻訳すると…


村上春樹のアメリカ滞在記「やがて哀しき外国語」を読んでいたとき、けっこう興味深い話が書いてあって、長らくそれが記憶の中に残っていた。ざっくり内容を書くとこんな感じだ。

1991年から1993年にかけての約2年半、アメリカはプリンストンでの滞在中、ひょんなことから、村上さんはプリンストン大学で現代日本文学のセミナーを受け持つことになる。その講義のテーマとして選んだのが吉行淳之介、庄野潤三、小島信夫など「第三の新人」と呼ばれる日本人作家たちだった。テーマにあう作家の小説を読みながら、学生同士ディスカッションし、その後レポートを提出して終えるという内容で、そのセミナーは順調に進んでいくが、あるとき、ひとりの学生が吉行淳之介「樹々は緑か("砂の上の植物群"に収録の短篇)」を題材に書いた論文を提出した。ところが、村上さんはこの短篇の内容を覚えていなかったため、大学の図書館所蔵の「吉行淳之介全集」を借りに行くも、貸し出し中になっていて手にすることができなかった。しかし学生のレポートを採点するからには、やっぱりストーリーを知っていなければならないわけで、困った挙げ句、その論文を書いた学生から本を借りることになった。ただ、その学生の持っていた本が日本語原文ではなく、英訳版だった為、村上さんはなんだか狐につままれたような感覚に陥ってしまう。日本文学を取り扱っているセミナーのはずなのに、なぜか全部英語を使ってやりとりをしている状況におかしみを感じつつ。そして日本語から英語に訳されたこの小説を読んでいくうちに、翻訳についてのあれこれを考えるようになり、こんな疑問がふと浮かぶ。



翻訳というものはそもそもひとつの言語で書かれたものを「やむを得ず、便宜的に」他の言語に置き換えるわけだから、いくら丁寧に巧くやったって、すっかりもとのままというわけにはいかない。翻訳においては、何かを取り何かを保つためには、何かを捨てなくてはならない。<取捨選択>というのが、翻訳作業の根幹にある概念である。この英訳を読んでいるうちに、僕はふと「たしかにこの翻訳はよくできている。でもこれをもう一度そのまま日本語に直してみたらいったいどうなるんだろう」という疑問に襲われた。

「やがて哀しき外国語」村上春樹、より。"さらばプリンストン"(講談社文庫 / p265-266)


本ではこのあと、村上さんの英語からの再翻訳文と吉行淳之介による原文を比較するために、小説の一部が交互に載っている。そして両者の簡単な違いを小説家の目線で記している。一度「英訳」のフィルターをかましたのち、日本文を復元させたことで、日本語がもっている特徴や特有さが浮き上がってきて、日本語再発見! みたいな面白さがあった。


まず原文では過去形と現在形が混合しているが、英文ではそれができないので、ぜんぶ過去形になっている。それから、これまたどうしようもないことなのだけど、漢字の醸しだす字ヅラの「気分」が出ていない。また文体の微妙なクセによって生じる不可思議なコリコリさも消えている。「靄(もや)の底にかすんでいる得体の知れぬ場所」は、英文では "the unfathomable, shadowy depths of the mist" となっている。これはなかなかよく練られた訳だとは思うが、この英文から逆方向にオリジナルの文章を見つけ出すのは――もちろんそれができるできないは翻訳の価値とは直接的には無関係なわけだが――やはりむずかしいだろう。

「やがて哀しき外国語」村上春樹、より。(講談社文庫 / p268)




海外英語圏で出版されている日本の小説(の英語訳)は、もちろん海外の読者向けに翻訳されたものだから、日本語で書かれた元の文章を知っていると、その翻訳具合がどうなのか、というのは英語が多少(あるいはある程度)わかっていれば、自分の中で比較できる。同じ物語が違った言語を通し、頭の中に並存しているっていうのは、ちょっと面白い感覚で、たとえば、上にあるような「日本語を英語に、そしてその英語を日本語に、さらにその日本語を英語に」といったプロセスを何度か繰り返していくと、オリジナルの話が最後に伝わった人に届く頃には、どんなふうな変化を遂げているんだろうか(あるいは大きく変わらないのか)? と、伝言ゲーム的な変換マジックの妙が楽しめそうな気がしないでもない。
村上さんのやっていたこの翻訳遊びを、今回、安部公房の代表作「砂の女」の冒頭部分でやってみようと思う。何で安部公房にしたのかというと、単に僕が好きな作家で、すでに彼の小説を何冊かを読んでいたこと。そして、海外でも人気ある日本人作家の一人で(ノーベル賞候補に挙がっていた位だから)、いくつかのタイトルが翻訳されていることもあって、英語版テキストが選びやすかったという理由が大きいし、「砂の女」のストーリーはちょうど今の時期とも重なっていることも少し考えた。もう一つは、この記事の下の方にあるが、安部公房作品の海外版ペーパーバックのカバー・デザインが素晴らしくいいので、それも合わせて紹介したかった。と、いたってシンプルなもので特別な意図はない。
無理やり関連付けるわけではないが、安部公房は晩年、ピジンやクレオール言語に興味を持っていて、それをテーマにした小説に取りくんでいた。彼は小説家。言葉を使って表現する生業だから、やっぱりその行き着く先というか、表現のあり方を突き詰めると、言葉あるいは言語というものが、人と人のコミュニケーションを媒介するものとして、どのような経路を経て変化していくんだろうか? といったようなことに関心を抱くことのは何ら不思議ではないなと思ったりする。しかし、執筆の途中で安部公房は亡くなってしまい、その小説は完成には至らなかった。もし出来上がっていたら、一体どんな物語になっていたのかは、興味あるところだけれども、言葉がメタモルフォースしていくような、こうした現象に絡めて、安部公房の小説を例にあげるのは何かうっすらとしたもので繋がりがあるようなないような感じもする。久しぶりに安部公房の文章を読んでみるとやっぱり新鮮で、論理的で緻密、思考性を強く感じる文体だった。こうした要素は、物語の非現実的世界をよりリアルにイメージさせ、それは多分英語にしたときにぴたりと合うような気がする。以前は、安部公房の比喩表現や発想の奇異さに目がいっていたが、今回は主語や動詞などの置き方、文章の流れ方などを少し意識して読む。安部公房が文章を書くとき、日本語で言葉を組み立てる際の構造や言葉の選び方が、わりと英語的(彼は幼少の頃、満州で育っているので、もしかすると中国語の文法が記憶の隅に残っていて、それが影響しているかも)なんじゃないかと思ったり。文章って、その人の生き様や生活の土台になっているものが現れてしまうようにも感じたり。

以下、「砂の女」の英語訳(青文字)。その次に「砂の女」の英語訳を僕が日本語訳したもの(茶文字)。最後に安部公房の「砂の女」原文(グレー文字)と続きます。ではどうぞ。


安部公房「砂の女」の英語訳 "The Woman in the Dune":
Translated by E. Dale Saunders (Original text to English) / from Vintage International

One day in August a man disappeared. He had simply set out for the seashore on a holiday, scarcely half a day away by train, and nothing more was ever heard of him. Investigation by the police and inquiries in the newspapers had both proved fruitless.
 Of course, missing persons are not really uncommon. According at the statistics, several hundred disappearances are reported every year. Moreover, the proportion of those found again is unexpectedly small. Murders or accidents always leave some clear piece of evidence, and the motives for kidnapping are normally ascertainable. But if the instance does not come under some such heading, clues − and this is especially true in the case of missing persons − are extremely difficult to come by. Many disappearances, for example, may be described as simple escape.
 In the case of this man, also, the clues were negligible. Though his general destination was known, there had been no report from the area that a body had been discovered. By its very nature, it was inconceivable that his work involved some secret for which he might have been abducted. His quite normal behavior had not given the slightest hint that he intended to vanish. By its very nature, it was inconceivable that his work involved some secret for which he might have been abducted. His quite normal behavior had not given the slightest hint that he intended to vanish.



安部公房「砂の女」の英語訳を再度日本語に
Translated by Tagong Boy (English to Japanese)
 
 八月のある日、一人の男が姿を消した。男はただ休日に、列車で半日ほどの海辺へ出かけただけで、これ以上、彼の噂(消息)を聞くことは全くなかった。警察による捜査と新聞での照会は、共に無駄だと判明した。
 もちろん、失踪者は稀ではない。統計によれば、毎年、数百の失踪者が報告されている。さらに、こうした場合に再発見される割合は意外と低い。殺人や事故というものは常に、あるはっきりとした証拠を残すものだ。そして、誘拐の動機は通常突きとめることができる。しかし、もし事例が何かこのような項目に該当しなければ、手がかり(このことは失踪者の場合に特にあてはまる)を得るのは極めて難しい。例えば、失踪者の多くはありふれた逃亡だと言われるだろう。
 この男の場合、さらに、手がかりは極わずかしかなかった。彼の行きそうな場所は知れていたにもかかわらず、その地域から身柄(遺体)が発見されたという報告は全くなかった。この事例の本質からして、彼の仕事が誘拐されるようなある秘密に関与していたとは考えられなかった。彼の普段のふるまいからして、突然姿を消してしまうといった気配は少しもなかった。



*) E.デイル・ソーンダースさんによる「砂の女」の英語翻訳を日本語に訳した。「砂の女」は何度か読んだことのある作品で、だいたいのストーリーは覚えてはいるが、どんな文章だったか等細かなディテールはさっぱりと記憶になく、訳す際は原文を見ないままで翻訳している。安部公房が小説で使っていそうなフレーズや言い回し(や文体)を若干想像し意識しながら、なるべくそれとは違ってそうな日本語の表現を使うようにした。訳したあとに、安部公房の原文を見て比べると、やっぱり言い回しなどは全然違ったものになっていたが、全体の意味はさほど変わってないのが分かる。



「砂の女」安部公房(第一章 / 新潮文庫・p5-6)、より
Original text by Abe Kobo (Japanese)

 八月のある日、男が一人、行方不明になった。休暇を利用して、汽車で半日ばかりの海岸に出掛けたきり、消息をたってしまったのだ。捜索願も、新聞広告も、すべて無駄におわった。
 むろん、人間の失踪はそれほど珍しいことではない。統計のうえでも、年間数百件からの失踪届が出されているという。しかも、発見される率は、意外にすくなくないのだ。殺人や事故であれば、はっきりとした証拠が残ってくれるし、誘拐のような場合でも、関係者には、一応その動機が明示されるものである。しかし、そのどちらにも属さないとなると、失踪は、ひどく手掛かりのつかみにくいものになってしまうのだ。仮に、それを純粋な逃亡と呼ぶとすれば、多くの失踪が、どうやらその純粋な逃亡のケースに該当しているらしいのである。
 彼の場合も、手掛りのなさという点では、例外でなかった。行先の見当だけは、一応ついていたものの、その方面からそれらしい変死体が発見されたという報告はまるでなかったし、仕事の性質上、誘拐されるような秘密にタッチしていたとは、ちょっと考えられない。また日頃、逃亡をほのめかす言動など、すこしもなかったと言う。




安部公房の英語版ペーパーバックのカバー (Vintage International)

AbeKobo-RuinedMap-Rendezvous.jpg
原題「燃えつきた地図」の英語訳は "The Ruined Map"、「密会」は "Secret Rendevous"に。
「密会」は英語でもそのままだ。"The Ruined Map" を再度日本語に戻すと「棄てられた地図」という感じになると思うが、タイトルとしての語感や印象強さでは、はまっている感じがする。

AbeKobo-BoxMan-WomanInDunes.jpg
「箱男」の英語訳はそのまんまの "The Box Man"。

Kobo Abe (Penguin Random House) / *上画像は下記リンク先より
http://www.penguinrandomhouse.com/authors/31/kobo-abe


コラージュ作家、Ned Drew(ネッド・ドリュー)

Graphic-Collage-NedDrew.jpg
画像は右リンクより:http://tagong-boy.tumblr.com/post/162748972926/
http://www.johngalldesign.com/Kobo-Abe-1

安部公房のヴィンテージ・インターナショナル版ペーパーバックのブックカバーは、 Ned Drew(ネッド・ドリュー)というコラージュ作家の作品をベースに John Gall(ジョン・ガル)というグラフィック・デザイナーがディレクションをしている。はじめ見たときは、オリヴィア・パーカーの写真だったり、ジョゼフ・コーネルの箱庭的世界をうまく二次元に置き換えたようなクラシカルなコラージュだなと思い、もしかすると誰か名の知れたコラージュ・アート作品を使ってデザインしたんじゃないかと感じたが、この企画に合わせ作成されたオリジナル・コラージュのようだ。西洋の人からみたオリエンタリズム、東洋の人からすると無国籍感のあるいいバランスをしている。ネッド・ドリューさんの作品はネット上でいくつか見ることができる。コラージュといっても、わりとかっちりとしたもので、感覚でやっているというよりも構成力・ヴィジョンを持って制作しているのが分かる。


OliviaParker-WeighingThePlanets.jpg
Olivia Parker "Weighing the Planets"
https://www.amazon.com/Weighing-Planets-Untitled-Olivia-Parker/dp/093328649X
1980年代後半から1990年代ごろにかけてオリヴィア・パーカーという写真家が人気あった。彼女は立体コラージュに光や影要素を組み込んだ写真作品を制作している。どこか内省的な世界があり、日本人には懐かしさを感じるスタイルだと思う。上画像はパーカーの写真集。柴田元幸さん編訳による「どこにもない国・現代アメリカ幻想小説集」(松柏社)の表紙カバーにも彼女の写真が使われている。



海外で読まれている日本の小説いくつか

探してみると、海外(主に英語圏)で翻訳されている日本の小説は意外とあって驚くが、それでも全体の総数からするとまだまだごく一部だけでしかなかったりする。新しい古典でいえば、夏目漱石や川端康成の英訳本はときどき見かけるから、やっぱりこの辺りが海外の読者がイメージしやすい代表的な「日本の文学」になるんだろうな。そして、多分日本の作家で一番知られているのはやはり、刊行数の多い村上春樹になると思う。村上さんの小説はほぼ全タイトルと言っていいくらいの英語翻訳があって、さらに英語圏以外の各国語版にも訳されている。ほか、僕の大好きな倉橋由美子も数タイトルの翻訳本があったり、Amazonのレビューなんかを見てみると、女性作家では川上弘美や小川洋子の小説も(海外の)若い世代には人気があるみたいだ。

M.Haruki-K.Hiromi-O.Yoko-paperback.jpg
*画像はAmazon.jpより。

"Blind Willow, Sleeping Woman" (Murakami Haruki) :
米国クノップフ社独自編集による短篇集のペーパーバック版。この海外版と同じセレクション(収録順も)で作品を構成した日本版も新潮社から出ている。村上さんのバックタイトル・ペーパーバック・シリーズはわりと短いスパンでカバー・デザインが変わっていて(新作が加わるごとに変えているのかもしれない)、最新のものは彩度の高い抽象的な画像をバックに文字や記号を載せたものになった。このシリーズをひと通り揃え、ジグソー・パズルを組むように本を並べていくと、大きな「村上作品の相関図風」マップが出来上がるという仕掛けになっている。カバー・デザインは上の安部公房と同じジョン・ガルが担当している。
Haruki Murakami Series Design : http://www.johngalldesign.com/Murakami-Redesign-2015

"Strange Weather in Tokyo" (Kawakami Hiromi) :
「センセイの鞄」のイギリス版。アメリカ版はタイトルが異なり「The Briefcase」となっている(翻訳者は同じ)。アメリカ版の方が先に出版されている。「The Briefcase」の方がオリジナル・タイトルに近いけれども、物語の雰囲気に近いタイトルになっているのはイギリス版かも。それぞれの国の読者層に合わせたのだろうリタイトルは、日本で公開される洋画の邦題みたいな感じがあって、もっと数を集めて比べていくとその国らしさみたいなのが見えてきそうだ。川上さんの文体は、シンプルだけど独特の(日本語の)リズムがあって、英語に訳すのはきっと難しいんじゃないかと思う。

"Revenge" (Ogawa Yoko) :
英国 Picador版。ヴィンテージ版とはカバー・デザインが異なっている。原書は「寡黙な死骸 みだらな弔い」。小川さんの(日本での)小説の表紙の多くは、わりとファンタジー要素のあるふんわりとしたモチーフや色使いで柔らかな印象があるが、海外版ではゴスホラーっぽいややハードでシャープなカバーになっているものが多い。僕は「薬指の標本」という短篇しか読んだことがないが、ちょっと不思議かつダークな世界観があって、S.ミルハウザーっぽい感じもした。「ザ・ニュー・ヨーカー」には短篇集「妊娠カレンダー」からの2つの短篇が掲載されていて、今もweb上で読める。下リンクは、2004年9月に掲載された「夕暮れの給食室と雨のプール」の英語訳。

"The Cafeteria in the Evening and a Pool in the Rain" Ogawa Yoko
http://www.newyorker.com/magazine/2004/09/06/the-cafeteria-in-the-evening-and-a-pool-in-the-rain

2017年07月21日

才能は見えない香りで引き寄せ合う。


Perfume Genius - 'Queen' (Official Video)

なんだか不思議なMV。「Perfume Genius」というのは、マイク・ハドレアスというシンガーのソロプロジェクト名だそう。見た瞬間、あ、そっち系の人だなと分かるんで、若干怖いものみたさ的な目線で映像を見ていたんだけど、こういうシュールな世界ってイメージがいろんなところに飛んでいくから面白い。クラウス・ノミの終末悲壮観とキューブリック的な暴力性、デヴィッド・リンチの断片的夢世界がごっちゃになったような感じは、アメリカのパラノイアというか、そういう人たちの内面世界とうまく符号しているような。

最近、クラリッセ・リスペクトールという作家を知って、彼女のことを調べているうちにパフューム・ジーニアスに流れ着いた。多分、海外の文学に詳しい人でもリスペクトールを知ってる人は相当少ないように思う(少なくとも日本では、長編1冊しか邦訳本がなく、それも二十年くらい前のもので現在は絶版)。まず、日本語では情報が全くないんで、結局英語圏のサイトに飛んでいくことになるんだけれども、それでもやっぱり情報としては少ない。彼女は経歴が面白く、ウクライナ生まれだけど、第一次大戦とロシア内戦の影響で、幼少のころに親とともに南米ブラジルに移住している。カフカ以来の重要なユダヤ人作家だとも評されていたり、一方ジョイスやウルフばりの「意識の流れ」を多用した作風でとっつきにくという意見もちらほらとみかける。まぁ、これは代表作「The Passion According to G.H.」についてのものだから、デビュー作「Neat to the Wild Heart」はまた違うのかも、読んでみてのお楽しみ。ちなみに原書はポルトガル語だがペンギンから英語訳が出ている。

で、その調べているときに日本語のサイトで引っかかったのが、ネットフリックス系のドラマ「The OA」の
記事だった。去年末にスタートし、少女失踪から謎に満ちた展開が話題になっているそうで、確かに面白そう。このドラマを制作し、また主演もしているブリット・マーリングが役作りの際に参考にしたのが、リスペクトールの小説とパフューム・ジーニアスのMVだったという。これで3つがつながった。そして、リスペクトールに関する話題は今のところこうした間接的なものくらいしかない。

GIF-PerfumeGenius-Queen.gif
http://tagong-boy.tumblr.com/post/163211556576/


『The OA』謎に満ちたヒロインを演じるブリット・マーリング、
役作りはジブリ映画のあのキャラを参考に?

http://dramanavi.net/news/2016/12/the-oa.php

ClariceLispectorNearToTheWildHeart.jpg
クラリッセ・リスペクトール「Neat to the Wild Heart」
ジョイスの「若い芸術家の肖像」の一節から引用したタイトル。彼女は処女作を出版後、ナポリでブラジル軍看護婦として働いていたりし、イタリア滞在中に詩人を介しデ・キリコと交流があって、キリコ作による肖像画も残っている(なので彼女のブック・カバーにはキリコの絵が使われている)。これこそまさに「若き小説家の肖像」だな。


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