2012年10月16日

バンコクから成田へ(ホーチミン経由)-1- 2010

Bangkok-R0067613.jpg

Suvarnabhumi-R0099609.jpg

■ スワンナプーム空港へ
タイから日本へ戻るため、バンコク・スワンナプーム空港へと向かった。ペッブリー通りでピンクラメのタクシーを拾う。乱暴にドアを開けたあと、ジェントルな顔をして乗り込んだ。運転手は小柄な男で、ややちぢれ気味の短髪、そして大豆のような丸顔。とうもろこし並みに整った大きな歯がひときわ目立つ。シルバーのリングピアスが左耳に食らいついている。制服なのか私服なのかわからない仕立てのいいブルーグレーのシャツがいい風合いだ。袖には紺色の刺繍がワンポイントで入っていて、一周遅れのセンスの良さがある。少しうらやましく思った。
「(荷物を見て)空港かい?」
「そう、スワンナプームへ。ドンムアンじゃない」
運転手は返事をするかわりに、すぐさま車を出した。しかし目と鼻の先にある交差点ですぐに停まった。信号待ちの間、運転手はいくつかある空港までのルートの中からひとつを選んでいる様子で、車線の先をじっと見つめ静止していた、かのように見えたが、視線の先にあったのは道路沿いにある古式マッサージ屋の女がコンビニへ向かう姿だった。黄色のホットパンツと小ぶりな尻を揺らしている。けだるそうにガラスドアを開け、店の中へと入っていった。
「何見てんの?」
「ん、見たかさっきの?いい形だった」と、唇をひねりS曲線をなぞるような手振りのジェスチャー。その手首のスナップ、あんた、左官屋になった方がいい。
信号が変わると、運転手は再びハンドルを握り勢い良く車を走らせた。車はスピードに乗り、走行が安定する。指一本でハンドルさばきをするようになると、運転手はゴムが伸びきったようなトーンのタイ語で次々と話しかけてくるようになった。何を言っているのかはさっぱりとわからない。これはきっとこの男の口癖のようなもんで、後ろに誰が乗ってようといまいと関係ないのだろう。下手に返事をうつと倍返しになってかえってくるだろうから、一切をスルー。タクシードライバーと散髪屋は口数が少ないのに限る。クーラーの温度をもう少し上げてくれとだけ言ってシートに埋まった。窓に顔を寄せ、スモークガラス越しに流れる景色をぼんやりと眺める。ひんやりとした合皮のシートが背中をまんべんなく冷やしてくる。高架からはビルの上に掲げられた大きな看板が流れていく。ひときわ大きい保険屋の看板が目に止まる。スーツを着た若い男が白い歯を輝かせ、その中で微笑んでいた。
"あなたの確かな未来を、私たちはお約束します"

そのうち運転手はラジオに向かって話すようになっていた。やはり話し相手は何でもよかったのだ。タクシーは踏み切りを渡り、ラーマ9世通りを走り、渋滞を抜け、約45分で空港へ到着した。メーターは234B、渋滞につかまったわりにまずまずだ。車を降りると空港特有のザラッとした風が最初に僕を出迎えた。

BKK-Suvarnabhumi-R0067630.jpg

BKK-Suvarnabhumi-R0067639.jpg

BKK-Suvarnabhumi-R0067642.jpg

BKK-Suvarnabhumi-R0067658.jpg

■ ギブとクワン
昼間の出発ロビーは太陽の光がさんさんと注ぎ込み、まぶしく床が輝いている。紆余曲折を知らないだろう光線は、空港を囲う巨大で分厚いガラスには目もくれず、まさに一直線にふりそそぐ。チェックインカウンター前で女の子が二人、荷物カートに乗ったり降りたりして楽しそうにはしゃいでいた。小鳥の鳴き声のような甲高い声が周囲に響いている。「何してるの?」と彼女たちにたずねると、お互いに撮りあいっこをしているの、という返事がかえってきた(まぁ、端から見ててわかるんやけど)。彼女らはギブとクワンという名で、チェンマイに住んでいるタイ人の姉妹。これから一週間、日本へ旅行に行くのだといって、そのせいでやたらとテンションが高い。彼女ら二人とお母さんをあわせた女性三人での海外旅行だそう。原宿で買い物するのが楽しみなんだ、と二人は嬉しそうに言っていた。ギブはカラーコンタクトを付けていて淡いブルーの目をしている。見た目としぐさは、日本の女の子といわれてもわからないくらいで、すらりとした足のラインがとてもきれい。カートの上でパタパタと跳ねる細い足にちょっと見とれてしまった。彼女はホテルのレセプションの仕事をしているとのこと。そのせいか振る舞いの端々に大人びた色気がある。仕事は夜が遅くて朝が早いので、なかなか自分の時間が持てないのだそう。このときだけ、少しだけ声のトーンが下がった。クワンはまだ学生で、お嬢さまっぽい控えめな雰囲気をもっている。快活な姉とおっとりとした妹という組み合わせ。お母さんは隣で見送りに来たお父さんと、しばしの別れの挨拶をしていた。互いに手をとりながら、見つめ合いしんみりと話し込んでいる。彼女らは、偶然にも僕と同じベトナム航空の便(ホーチミン経由の成田行き)だった。「あとでまた会うかもしれないね」と彼女たちに言って、僕は先にチェックインを済ませ搭乗ゲートへ向かった。

BKK-SGN-R0067706-46-66-800.jpg
バンコクからホーチミン行きの飛行機。

HoChiMinh-R0067859.jpg
タクシーでホーチミン市内からタンソンニャット空港へ戻るところ。
ベトナムはどこへいってもバイクだらけ。

■ 3時間のホーチミン滞在
バンコクからホーチミンまでの約1時間半のフライト。15時にスワンナプーム空港を発ち、無事タンソンニャット空港に到着した。時刻は16時半。ここでホーチミンから成田行きの便に乗り換える、のだけれども、成田便の出発は午前0時なので、7時間ほど待たなければならない。搭乗手続きなどの2時間弱を除いても約5時間ほどの余裕がある。特に何があるというわけでもないこの空港の中で、これだけの時間を潰すにはさすがに厳しい。ボーディングブリッジを抜け、廊下を歩きながら、空港からホーチミン市内まで出ることを考えた。空港とホーチミン市内への移動、往復約2時間を差し引いても、3時間ほどの自由な時間は十分にある。出入国の手続きが少々面倒だけれども、ここで待っているだけよりかは幾分かは新鮮だろう。3時間という短い時間の使い道を、瞬くほどの間で考える。ここで退屈なときを過ごすか、外に出てあわただしく過ごすか。単純な振り子が頭の中で揺れる。結局、ホーチミン市内へ出ることにし、イミグレの列に並んだ。すでに時間のカウントは始まっている。こんなことなら、バンコクでキッチンタイマーを買っておけばよかった。チクタク。ようやく前の列がはけ自分の番がやってきた。ベトナムの入国手続き。係員は無表情な顔で、帰りの航空チケットを見せろと言い、つまらない漫画を見るかのように僕の手から取り上げたパスポートをめくる。ここでは彼に逆らえない。胸元で輝く金色のバッジが、この男に小さな権威があることを示している。僕は成田までの航空券をポケットから取り出し、末等の当たりくじを差し出すようにして男に見せた。無事に入国。これで、乗り継ぎまでのわずか数時間のベトナム滞在となった。イミグレのフロアをさっと見渡すがギブとクワンの姿はなかった。一階へと降りる。出口付近には銀行の両替所がいくつか並んでいる。その中のドンガ・バンクの女の子がにっこりと笑みを浮かべ寄ってきた。ショートカットで小柄な身体。都会育ちの洗練された顔つき。真っ青なアオザイにライスペーパーのように薄い白のパンツ姿。外から入ってくる甘い光で、彼女の身体のラインがくっきりと影になって浮かび A GIRL。未完成の曲線を目で追い、繋いだ。
「両替なら、」
「もう済ませたよ」先回りして答える。
その女の子のはぷりっとほっぺを膨らませ、ちょっと悔しげに顔を背けた。
顔が少し赤らんで、青白赤の組み合わせ。フランスの国旗みたいだ。
ガラス戸を押して外へと出る。生温かい風が肌にからまる。ほこりっぽさと、人の出すにおいがした。空港を出て、すぐ目の前にあるロータリーでバスに乗った。152番のベンタイン行き。バスはほどなくして発車し市内へ向かった。ベンタイン市場の手前、ファングラーオで降りる。ホーチミン名物というべき、夕方のひどい渋滞があり一時間近くかかった。バスを降りたときには小雨がパラついていた。もう空に色彩はなかったが、しっとりと濡れたアスファルトに鮮やかなネオンが写りこんでいた。真っ先に、軽食レストラン「Che My-2」へ向かった。ホーチミンにいる間は、この店によく食べにいっていたので、店員の女の子は僕のことを覚えていてくれた。顔を見るなり「バインフランはまだ残ってるよ」といってにっこりと微笑み二本の指を立てる。ここではいつも2皿を頼んでいたので、その確認に。「今日は一皿でいいよ」といって一番奥のテーブルについた。すぐに、氷をまぶしたバインフランの皿がやってきた。この日のバインフランはエメンタールチーズのお手本のごとく気泡が多く見栄えが良くない、おまけに少し硬かった。ゴイクンとチェーを追加し平らげる。店を出て、残りの時間をハイランドコーヒーでゆっくりと過ごした。濃厚なベトナム式のドリップ・コーヒーがボクシング・グラブでパンチを受けているように、胃壁に滴り落ちる。21時、ミニバンタイプの白いタクシーに乗り空港へ向かった。何十台というバイクが道路を埋め、うねるように方々に走っている。真っ赤に光る無数のテールランプは蛍の群れのようだ。21時40分に空港へ到着した。運賃は85,000ドン。手元に15,000ドンが残った。

■ ホーチミンから成田へ(ボーディング)
チェックインと出国の手続きを済ませ、搭乗ゲートへ向かった。途中降機の際は手荷物しか持っていなかったので、荷物検査はスムーズだった。タンソンニャット空港の国際線ターミナルはまだ新しく、廊下の白タイルの床には蛍光灯の冷たい光が注いでいる。まだ人の臭いが染み付いてない無機的な空港がより無機的にみえる。ホーチミン発成田行きの便は20番ゲート。ロビーのプラスティックの椅子に見覚えのある服が見えた。ギブとクワンがぐったりと横になっていた。ギブはクワンの上に重なるようにもたれかかっている、華奢なギブがクワンに寄り添う格好で。ギブの顔に振り落ちた髪の隙間から、寝入った顔が覗く。はじめ二人の顔は、姉妹のわりにあまり似てないと思ったのだけれど、寝顔を見ると双子のようにそっくりだった。ギブの履いていたシルバーのとがったヒールは、ペンシルキャップのように床に転がっていた。くの字に折れた彼女の足は、白と黒のボーダー柄のワンピースを大きく広げ、そこから無防備に突き出ていた。蛍光灯の下、力なく崩れた長い足があらわになり、雪を描いた日本画のような白さでさらされている。桃の皮を剥いだときのような瑞々しい肌。無垢でやわらかそうな太ももにドキリとした。蛍光灯の硬く青白い光は、立体感のない陰影をつくるかわりに、張りのある若い肌を透きとおるように照らす。静かに。そして二人の寝息までも消しているかのよう。しばらくの間、彼女らが起きる気配はなさそうだった。彼女たちの占拠していたシートとは反対側の席に移り、荷物を下ろした。リュックにもたれかかりながら、搭乗の時間までを待つ。ほんの少し前に飲んだハイランドコーヒーの濃いコーヒーが効いているせいか、目がずいぶんと冴えているような感じだった。ぽつりぽつりと乗客が集まり始め、椅子が埋まってゆく。すっと気配なく隣に誰かが座った。日本人のおっちゃんだった。しっかりとした体格で背はそれほど高くはない。くたびれくすんだ上着をはおっているが、顔には艶がある。乗り継ぎ便待ちで疲れ、眠そうな人が多いこのフロアの中でひとり元気そうだった。少し世間話をする。おっちゃんは今は年金暮らしで、日本ではなくフランスに住んでいるのだそう。前の奥さんがタイ人で、その彼女に会いに行った帰りに少し日本に里帰りするところなのだと。曰く、これまでをほとんど海外で暮らし、世界中の女性と付き合ってきたけれど、日本の女性が一番だときっぱり。見えないところで優しさを感じるのだそうだ。「大和撫子といわれる所以は確かにあるとは思うよ、まぁ、あくまで自分が経験したかぎりだけどね」と付け加えた。中国、韓国、タイ、ベトナム、ラオス、フランス、ドイツ、南アフリカ、アメリカ、メキシコ、そしてブラジルと過去の女性の遍歴を諳んじた。よくもこんなにいるもんだと思った。どこまでが本当か確かめることはできないけど、本人がそういっているんだから、そういうことにしておいて。ブラジルの女の子が平均的にスタイルが良くてかわいかっただの、そういう話。そして、話の流れからふと何かを思い出し、そうそうといいながら、おっちゃんはシャツをまくり上げて上着の隙間からわき腹を見せた。はっきりとは見えなかったが、おっちゃんが「ほら」と指さしていた箇所には、縫い痕のような茶けた筋があった。当時、付き合っていた女の子(どこの国籍だったかは聞いていたけど忘れた)に刺されたんだよと。「まぁ、ボクが悪いんだけどね」と言ってすぐにシャツを下ろし、しまった。
「よく無事でしたね、へたすれば・・・」
「激昂してたけど、彼女は本気で刺すつもりじゃなかったと思うよ。深くもなかったし急所は外してたから、、まぁ、たまたま外れただけなのかもしれないけど」
おっちゃんは僕が渋そうな顔をしたので、ま、こんなこともときにはあるさ、とさほど気にする風でもなかった。僕はどういうわけか「血の海でしたか?」とさらに聞いてしまった。おっちゃんは服の上から傷のある場所をさすりながら「不思議と痛みはなかったんだよね」と、そのときの状況を思い返したようだった。「そのときは彼女が何をするのか全部スローモーションで見えたんだ。でも、自分の身体がただの抜け殻になったようになって、全く動かなかった。声は出なかった、耳が聞こえてなかったのかもしれない。何の音もしなかったから。血がそんなに出たかどうかはさっぱり記憶にないなぁ」
続けて「今考えてみれば、自分の女に刺されたってことで、そのときの記憶やら感情やらが逆転したり分離したりしてるんだろうよ。断片でしか覚えてないから。身体の傷は医者に縫ってもらったけど、心の傷は自分でつないで縫ったんだ」
「それだけ愛されてたってことじゃないですか、ちょっと激しいけれど」
「さぁ、どうだろうね、」それ以上の言葉はなかった。単純に愛憎だけじゃない、二人にしかわからないことがきっとあるようだ。さらに目が冴えるような話だった。

ロビーにいた人たちが動きはじめた。
23時半、搭乗開始。

■ ホーチミンから成田へ(機内へ)
入口で日経新聞とニューズウィークを手に取り、機内へ乗りこんだ。旅中は日本語の文字にあまり触れることがなかったせいで、目が日本語の書物を欲している。読み物は(大きな見出しが躍るだけの)スポーツ新聞以外であれば何でもよかった。荷物を上の棚にしまったあと自分の席に座った。夜のフライトは空や雲を見て楽しめないので、チェックインの際に窓側でなく通路側の座席にしてもらっていた。跳馬をするように両足を通路に向けピンと伸ばした。機内が落ち着くまでの間を、シートにもたれ軽く目を閉じ静かに待つ。ふと、気配を感じて目を開けると、ギブが右斜め前の背もたれから身を乗せ、顔をのぞかせていた。うさぎちゃん現る。
驚いた僕の顔を見て、彼女の目が細まった。その表情見届けたり、な笑みが浮かんだ。
「ふふ、寝てたの?」
僕は手を目にあてながら、首を振った。
「成田まで一緒だね、だんだん日本に近づいてる」艶のあるブラウンの前髪がはらっとほどけ顔にかかる。彼女の目はさらに細まった。そして、日本に降り立った自分の姿を想像する夢想家の顔つきになった。
「もうすぐだよ」手の平で飛行機の形をつくり、びゅんと飛ばして見せた。二つの目がそれを追う。続けて、ギブとも近くなったね、と言いかけたが止めた。
「TOKYOかぁ」ぽつりとつぶやき、彼女は僕の目をじっと見つめた。僕の瞳の中にひそむ東京の破片を探しているようだった。なんだか目の奥がざわざわした。

0:05、機体はボーディング・ブリッジから離れ、ゆっくりと旋回し滑走路へと動き始めた。機内のアナウンスがあり、救命具の説明などが始まる。ギブも自分の席に腰を落とし、前を向きシートベルトを締めた。離陸するまでの間はいつも緊張する。エンジンが着火し、翼が風を切る音と、車輪から伝わる低い振動が機体を包む。トンネルの中を走り抜けているような感覚の後にふわっと身体が軽くなり、飛行機は問題なく飛び立った。ホーチミンの街灯りが小さな窓の外で瞬いている。大きな主翼はもげそうなほどにしなっている。ぐんぐんと高度が上がる。街並みを型取った光の筋が漆黒の闇に浮かぶ星雲のように見える。それも、あっという間に遠ざかり消えてしまった。前方にあるモニタには、ベトナムの地図の上に荒いドットの飛行機のアイコンが映っていて、日本にむけて矢印が飛んでいた。

前席の網にかかっていたヘッドフォンをビニールから剥いて取りだし、プラグを肘掛のジャックにつないで適当な音楽チャンネルに合わせた。モダンジャズ、クラシック、オールドロック、ポピュラー、アンビエントなどのチャンネルがあり、嬉しいことにその中にNew Wave専門のチャンネルがあった。成田までの約6時間のフライト、しばらくはこれを聴いて時間が過ごせる。ちょうどThe Cureの"Inbetween Days"がかかっていた。唇が動かない程度に、歌に合わせて口ずさむ。アッパーなメロディが、あと数時間で「現実に収監」されるのを待つしかない、僕のわびしい気持ちを払拭してくれる。

ギブとクワンはさっきから前の席ではしゃいでいて、シートの隙間からちょくちょくこっちを覗き見したりしてからかってきた。にぎやかな姉妹だ。修学旅行に来ているような気分になった。飛行高度が安定すると、CAがトレイを片手にスナックを配りに来た。目の覚めるようなエンジ色のアオザイを着ている。腰のあたりにまでスリットがはいっていてセクシーだ。真新しい制服はスリムな身体と細い腕を強調している。天女のようなスタイルのCAから、銀色の小さな袋を受け取る。彼女の制服についつい見とれ横目を流していると、突然バタンとシートが倒れギブがさえぎってきた。とっさに彼女の方を向く。
「何ー聴いてるの?」甘く問いかける声に、若干の悪意を感じる。
「機内の音楽放送だよ」少しぶっきらぼうに答え、ヘッドフォンをはずして首にかけた。
「ふうん」
ギブは頭を右と左にかわいらしく振って、ヘッドフォンを耳に音楽を聴いているような仕草をした。長い髪がしなやかに跳ね、静電気で吸い上げられたように乱れた。
そして「あたしも聴こうっと」
とリスが巣穴に帰るようにして身体を反転し、自分のシートにあっけなく戻った。特に話すことがあったわけじゃなかった。
僕はヘッドフォンをかけ直した。機内誌を手にとってパラパラとめくる。めぼしい記事は特になく、入口で手にしたニューズウィークを開いた。南オセチア紛争後のグルジアが大きく特集されていた。ロシア軍によって都市インフラが破壊され、不便な生活を強いられる市民の様子が語られている。

再び、右前のシートがゆっくりと倒れてきた。目の前には、もたれて横向けになったギブの顔がある。目をぱちぱちとさせていた。
「どうしたの?」
彼女は口を閉じたまま、こっちを見ている。
聞こえてなかったのかなと思い、僕は首をかしげてみせた。
それを真似るようにギブも首を傾けた。
「Phhh…」お互い同時に吹き出した。
「ね、そっち行っていい?」隣席を指さして言った。
僕は驚いて、彼女の指先にある右隣の席をちらりと見る。突然何を言い出すんだろう。隣の二席は誰も座っておらず、空いたままだ。ブランケットがきれいに置かれている。僕はもう少し経ってから隣の二列を広げて、横になろうと思っていた。
「かまわないけど」
「よかった、少し横になりたいの」
ギブはさっと身を返し、妹とお母さんに二言三言をいって、こっちへやってきた。僕をまたぐように大きく足を広げ、空き席に飛び込んだ。すっかりとよれた横縞のワンピースが彼女のお尻のラインをくっきりと描いている。二つのふくらみが、僕の目の前をすり抜けたとき、少し「よこしま」な気分になった。

posted by J at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月21日

チッタゴンからダッカへ、そしてkanchpur -2011-

R2N-R0127157-Kanchpur.jpg
花売りの青年。胸いっぱいの薔薇を。

R2N-R0127162-Kanchpur.jpg
カンチプールのバザール。

R2N-1068.jpg
カンチプールの橋から、Sitolakh River(シトラク川)の川上を望む。

R2N-1077.jpg
チタゴンジ(ダッカ - チッタゴン・ロード上にあるので、便宜的にそう呼んでいる地名かもしれない)の陸橋から、ダッカ方面の眺め。この陸橋を中心にバザールが広がっている。ダッカの中心部へとまっすぐに伸びた道路には、バスやトラックがひしめきあっている。小さな灯りが連なり、ちらちらと瞬く渋滞の様子は顕微鏡の中でうごめく微生物のように見えた。The Smithsの"There Is A Light That Never Goes Out"の美しい歌詞が思い浮かぶ。涙で滲む街灯りの歌。(この歌詞にある「Light」はいくつかの意味が重なっていて、日本訳が難しい。人の放つ小さな灯し火、という感じが近いと思います。)
http://rayleah.blog102.fc2.com/blog-entry-60.html

R2N-1075.jpg

R2N-R0127220.jpg
Chittagonjの陸橋からダッカ方面を望む。

R2N-R0127224.jpg
チタゴンジ・ロードからサエダバッドまでのローカルバス、運賃10タカ。運賃を集めに来る助手は、乗客がどれほど乗りこんできても、瞬時に未徴収の乗客を見分ける特殊な能力を持っている。
(以下写真も同じバスにて)

R2N-R0127229.jpg
女性が乗り込んでくると、座っていた男の子はさっと立ち上がり席を譲った。

R2N-R0127230.jpg
バスが停車すると、軽食の物売りがやってきて腕を窓に突き出す。1袋5タカ。
窓からカメラを出して車窓景を撮っていたら、後ろ席の誰かが僕の背中を叩いて、それを仕舞うようにと言う。ちょっとした楽しみを削がれたような気になり、少しけげんな顔で振り向くと、男が首を横に振りながら「良くないからやめておけ」という仕草を改めて示した。僕は、理由が分からなかったのでその男に尋ねた。最初は、この辺りが撮ってはいけない場所だったのか? と思ったがそうじゃなかった。「あんた、カメラなんて危ないぞ。窓からそんなものを出していると、あっという間に盗られてしまうよ。このあたりじゃ、悪いやつが常に眼を光らせているから、金目の目立つもの(といって自分のしていた腕時計を指す)なんか、むやみに見せてはいけない。ひどい連中になると、ナタで手首ごと切り落としてまでして奪っていくんだから、十分に注意しておくれ」とのことだった。親切に声をかけてくれたこの男に礼を言って、僕はカメラをカバンの中に仕舞った。窓から入る風がひやりと冷たくなった。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 今旅の最初の計画では、前回(2008年)のルートと同じく、タイのバンコクからチッタゴンへと飛び、そこをスタート地点にしてそのまま北上し、バングラデシュをぐるりと一周するつもりでいた。そうすれば、後戻りする事なくバングラデシュ各地をうまく移動できるからだ。

 しかし、いざ航空券を手配する段になって、タイ航空のバンコクーチッタゴン間の路線がなくなっているという情報を耳にした。前回からまだ3年も経っていないのに、就航がなくなっているなんて、よほど人気のない路線だったのだろうか?念のため航空会社に直接問い合わせたところ、やはり聞いた情報のとおり廃路になったとの事だった。曰く、元々この路線は季節運行だったもので、それが取り止めになったという事だ(廃止になった理由までは聞かなかったが、きっとそれほどの需要がなかったからだろう)。電話の向こうの担当女性はエレガントな声の持ち主で、きっとタイトな白シャツの制服に、鮮やかなシルクのスカーフを巻ているんだろうなと思わせた。最後に運行再開の予定はないと、きっぱりと言われ電話を切った。声のわりに電話の切り方は粗雑でやや残念。飛行機に乗る前の段階で、旅の行く先を案ずるような暗雲が現れはじめていた。むむ、これは困ったぞ。バングラデシュへ飛ばしている国際線はそう多くはない。首都ダッカならまだしも、チッタゴンともなれば片手で数える程度だ。改めてフライトを調べ直すと、GMGエアラインというあまり耳慣れない、バングラデシュの航空会社がバンコクーチッタゴン間を飛ばしている事が分かった。ただ、この便は運賃がやや割高で、予算を超えていた為に今旅での選択からは外れてしまった。

 バングラデシュ入りは、チッタゴンからが理想的だったのだけれども、その手がないのならば別のルート、ダッカからの入国で一から練り直さなければならなくなった。当初ダッカ入りを全く考えてなかったのは、ダッカを基点にした場合、チッタゴンへと南下した後にバングラデシュの北部、西部へ移動するのなら、一度ダッカへと戻らなければならず、それが嫌だったからだ。片道一時間ほどの距離ならともかく、ダッカからチッタゴンまでは約270キロとけっこう離れているので、この片道移動だけでも半日がつぶれてしまう。加えて、ダッカはあまり好きな街ではなかった。だから旅の始まりがダッカになるというのは、全く想像すらしなかった事で、考えただけでもとても憂鬱な気分になるのダッカ(いや、、だった)。

 傍からすると、ダッカだろうがチッタゴンだろうが、同じバングラデシュの街なんだから、どっちでもいいじゃないか、いちいち気にする事でもないだろう、なのだろうけれど、僕は「旅の始まる場所(そして終わる場所)」というのは、とても大事だと考えていて重きを置いている。旅の始まる場所で、(大げさに言うと)その旅の所信表明を声高に、しっかりと宣言できるかどうかで、かの地で送る日々の実り方がずいぶんと違ってくるのだと思う。そういったわけで、今旅の始まりがどこか馴染みのあるチッタゴンではなく、ダッカになってしまった事は若干の不安材料だった。ただ、行ってしまえば、結局のところ結果オーライでなんてことはなかったのだけれども。

(無事にバングラデシュ到着)

 ダッカに一週間と少し滞在したあと、南東にある地方都市、クミッラとチャンプールを訪れ、その後さらに南にあるチッタゴンへと向かった。チッタゴンはダッカの南約270kmに位置するバングラデシュ第2の都市だ。人口は約250万人(2011-*1)。首都ダッカに負けずとおとらない大きな街で、また混沌としている。ダッカよりも緯度が低い分、太陽の日差しは強く空が広々としている。そして、ダッカに漂う粘り気のある、どこか陰を含んだ空気というものはこの街ではあまり感じられない。要は、空も街も陽気で居心地がいいということだ。そのチッタゴンで4日ほどを過ごし、再びダッカへと戻ることになった。同時に、この後のバングラデシュ北部と西部を周るルートを大まかに描いた。

(そして、チッタゴン滞在も終わりをむかえる)

 チッタゴンからダッカへと戻る日の朝は、いつになく目覚めが良かった。ダッカへと再び戻る・という、なんとも新鮮味のない、ただ長いだけの移動が今から数時間後に待っているのかと考えると気が重くなるのだけれど、身体はそうではなかった。気持ちの上では、もう2、3日ここチッタゴンにいてもいいんじゃないかとも思っていた。ただもうバスのチケットは購入しているし、ずれ込むほどに今後の旅程の圧縮作業が必要になってくるので、ここは名残惜しむ気持ちを小さく折り畳み、ハンカチの間に挟んでポケットにそっとしまう。そして、何ごともなかったように思い浮かんだメロディを口ずさんだ。目覚めの良さが示していたように、身体はダッカのある北の方向をぴたりと指していた。もしも今、目の前にプールがあり、水の中で身体を浮かしたのなら、方位磁石よりも正確に北の方角を示せたんじゃないかと思う。何でこんな心身分離状態になっていたのか、自分でも不思議に思っていたのだけれど、後になって、ダッカ・モティジールのお気に入りレストラン「カフェ・バグダッド (*2)」の熱々のナンが恋しくなっていただけだったのが分かった。気が付かないうちに、胃袋が身体にチッタゴン撤退の指令を出していたのだ。

 バスの出発時刻に間に合うよう朝食をとり、荷物をまとめたあと、バス会社の集まっているエリアへと向かった。CDA Ave.から伸びたマザール通りの一角に、ダッカ行きバスを出しているバス会社が5、6軒集まっている。7時すぎにこの一角に到着した。僕が乗るのは「SOUDIA社」のバスで、チケットは前日に予約しておいた。運賃は300タカ、7時半発。この会社のバスは冷房が付いてないので、周り他社のエアコン付きバスの半値ほどの運賃だった。窓を開けていれば、車内にはいい風が入ってくるので、わざわざ倍の料金を払ってまで、冷房付きのバスに乗る必要はない。多少の埃っぽさを我慢しさえすれば。

  SOUDIA社の事務所前でバスが来るのを待っていると、新聞売りの少年が現れる。ベンガル語の大きな見出しの付いた新聞、2、3紙を僕の前で広げて見せるがいらないと首を振る。少年が去ると間もなくして、バスがゆっくりと姿を見せた。くすんだ紫の車体バスは朝のシャワーを浴びてきたばかりで、デート前のおめかしをしたように、こざっぱりとしていた。しかし、荷物を積むために車体側面のトランクを開けると、中は水浸しだった。やれやれ、これぞバングラ・でス。これを見るや、僕の背負っていたバックパックは、この中に入るのを相当嫌がりぐずった。でもね、車内のわずかな荷物棚には入らないし、ほんのしばらくの辛抱だからと何とかなだめ、なるべく濡れてなさそうな場所を指さして、荷物係に行儀良く積めてもらった。肩紐には厚紙のタグがくくりつけられ、その半券を到着までなくさないようにと荷物係から渡される。

 バスに乗り込み発車を待つ。窓席だった。自分の座席に座り、鉄サビの臭いのする窓枠にひじをかけ、続々と乗り込んでくる乗客の顔を順番に眺めていた。座席が半分ほど埋まった頃、忘れ物を取りにきたかのように、助手が車内に乗り込んできて、蚊除けのスプレーを撒きはじめた。車内には薬品の臭いが立ちこめ、乗客らは身近にある布で顔を押さえている。人が乗っているというのに、まったく。バスは定刻どおり7時半きっかりに発車した。合図らしき合図もなく突然動き始めた。走り出してしばらくのうちは、チッタゴン市内にある所定の停留所で乗客を拾い、やがてダッカ・チッタゴン・ロードへと出て北上する。見憶えのある道と記憶にない道が交互に現れ、そのうちに、うとうととしはじめた。ダッカに到着するまでの間、出来るなら目覚めることのないようにと、薄れる意識の中で願い、心地の良い眠りにつく。窓にかかった古びたカーテンのはためく音が、徐々に耳から遠のいていった。

 チッタゴンを発ってから約6時間後の13時半、バスはダッカのサエダバッド・バスターミナルに到着した。バスを降り、預けていた荷物をトランクから引き上げる。トランクの中は室内乾燥機のドラムよろしく、すっかりと乾いていたが、大事な僕のバックパックは見事に泥だらけで、掘りおこしたばかりのジャガイモのようになっていた。荒っぽかったバスの運転から考えても、マッシュポテトになっていなかっただけでも良かったのかもしれない。バックパックをすくい上げ泥をはらい、そのまま背負った。そして、街の片隅にある電話屋(各通信会社ごとのケータイ電話を机の上に並べ、客の依頼する番号に繋いでくれる商売。通話料・1分=2タカ)を探した。電話屋はすぐに見つかった。そこの小さな机の上にあるノートに「ホテルNY」の電話番号を記す。電話屋の男は、何台かあるケータイのうち一台を選び、ノートに新しく書かれた電話番号を見ながらケータイのキーを慎重に確認し、電話を繋ぐ。コール音を確認した後にケータイを手渡され、耳にあてるとフロントの女性が電話口に出た。僕は「部屋が空いてないか?」と尋ねると、その女性は「一部屋なら空きがある」と答えた。僕は、「今、サエダバッドにいて、その部屋の予約をしたいんだけれどもいいだろうか?」と言うと、一間おいて「ノープロブレム、待っているわ」という返事が返ってきた。もしも、Sorryとう答えだったらどうしようと、短い沈黙の間、きゅいっと胃が縮む思いだったが、早々とこの日の宿が押さえられたことに安心し、肩の力がふいっと抜けた。すぐにリキシャを見つけ、ホテルNYのあるモティジールへと向かった。(サエダバッドからモティジールまでのリキシャ=30タカ)

(ちょっと前後しますが、ダッカへ向かうバスの様子)
 エジプトで「緩やかな軍事クーデター(*3)」が起きた次の日、僕はチッタゴンからダッカへと戻るバスの中にいた。世界のある国で、長きに渡ってその国を治めてきた政権が、あっけなくひっくり返ってしまった、世界的にみても一大事な最中。独裁的な政治を行っていたその国の主、ムバラクが、自国を追われどこかの国へと逃亡していただろう、その時に、僕はバスの車窓に広がる一面緑の水田を、うとうとと薄ら目で眺めていた。眼前の瞬くような新緑の流れに、ぼんやりと記憶に残っていた昨晩のニュース映像が滲んでくる。昨日の夜遅くに見たBBCのニュースでは、カイロのどこかの広場に大勢の市民が集まり、興奮し大騒ぎをしている映像が繰り返し、繰り返し流されていた。薄暗いオレンジ色の街灯の中で歓喜を上げ、うごめいている群衆の映像は、イラクのフセイン政権が崩壊したときのものと重なった。エジプトはバングラデシュと同じくイスラムの国だからか、バングラデシュでのこのニュースの関心はとても高いように感じた。あるいは、自国もエジプトのように政権ががらっと変わってほしいとの願望が混じって受け止められているような気配だった。翌朝の新聞の見出しと、朝のニュースがそれを明確に示していた。

 エジプトの政権転覆という世界的な大ニュースがあり、それは一晩のうちに地球をかけめぐったが、バスに揺られていた僕にはそれとはほぼ真逆の、ひとつ解決しなければいけない小さな問題がすぐそばにあった。まさに目の前、数十センチの距離。それは、となり席のベンガル人のおしゃべりを止めさせること。この隣人との様子はBBCやロイターでは決して報道される事はないのだけれど、極めて深刻な問題だった。チッタゴンを発ち、間もなく眠りについたまでは良かったのだけれど、途中目が覚めてしまってからが大変だった。いつのまにか、どこかで乗り込んできたその男は僕が起きるのを待ち構えていたかのように、僕の目が開いたとたんに話しかけてくる。「どこから来たの?名前は?これからどこへ行くんだ?」とお決まりの質問に始まり、次いで自分の家族の話、田舎の話と続いていく。僕が話疲れたような顔を見せると、話題を変えて「日本製品はスバラシイ」と持ち上げ、うまい具合に小休止をはさむ。そして、その後は自分の生い立ちや思いつきの話が延々と続くのだ。もしも車内販売で「沈黙」というものが売られていたなら、僕はいくらでも払ってやるぞ、という気持ちになっていた。出来るならありったけ買い占めたいくらいだ。今後の事も考えて。このまま続くと、日孟会話摩擦という新たなる国際問題が起きるんじゃないか、という位になったところで、男はフェニという街であっさりと降りていった。蝉の鳴き声がいっせいに鳴り止んだ夏の日の午後。おしゃべりな男が去り、しばらくはそんな感じだった。

(話戻って、サエダバッドからリキシャに乗る)
 サエダバッド・バスターミナルを後に、リキシャは混み合う道路を上手くすり抜けながら、ホテルNYのあるモティジール地区へと走る。左に2回、右に1回、そしてロータリーを大きく左に旋回すると、見覚えのある通りに出た。途中、料理鍋やジュースのロゴ、セメント袋にシリンダーの手描き広告が、ずらずらと続く長ったらしいレンガ壁の横を通り過ぎる。レンガのブロックは崩れ、中の鉄骨が剥き出しになっている。遠景には、3階までが空洞になった建設途中のビル、紫色のガラスで全面覆われた建物、設計意図の全く分からない平行四辺形に傾いたビルや、赤血球の形をした給水塔、さらに失敗したソフトクリームのようなドームを持った塔が、フリップブックをパラパラとめくっているかのように次々と流れてゆく。ペダルがひと回転する度に、ダッカに渦巻く喧騒の中心へ近づいていくようだ。しばらくの間忘れていたこの街の混沌が甦ってくる。

車のクラクション・・・刺さるような耳鳴り
ベビーから吐き出される排ガス・・・鈍い頭痛
ペンキ塗りたての看板から放たれるシンナー臭・・・喉が焼け、張り付くような渇き
車と車のぶつかる金属音・・・眼球裏に走る電流

引き出しの一番奥に仕舞った箱の中の、さらなる小箱の中に、痛々しいダッカの記憶を詰め込んで封じたはずなのに、いつの間にかそれがパカリと開いていた。

 カラフルなヴィニールときらびやかなスパンコールで飾られたリキシャの幌は、街にあふれる騒音をこそぎとる。この乗り物の鮮やかな幌の中にすっぽりと収まっていると、どんな小さなうわさ話まで聞こえてくるような気がした。ダッカにいると、身体を巡る血液が2、3度上昇するような感覚になる(実際のところ、確かに体温そのものが上がっているのだろうけれども)。身体が街から受け取るざわめきのようなものと、細胞の中で静かなまま過ごしたい核とが、せめぎあって熱を帯びさせるのだ。もしも、このまま身体の血が沸点にでも達したのなら一体どうなるんだろう?と考えたりしながら、懸命にペダルを漕ぐリキシャワラの背中をじっと見つめていた。1、2、1、2と、右足と左足が均等なリズムで交互に動き、クランクギアがルーレットのようにカラカラと回り続ける。楕円になった前輪の影がアスファルトに落ちる。その影は糸車で糸を紡いでいるようにも見える。1、2、1、2。相変わらず規則正しいリズムでペダルは回転しているが、次第にその速度は緩やかになった。そして、左手にバイタル・ムカラムが見えた。
   
 バイタル・ムカラムを少し過ぎたあたりでリキシャを降りる。すぐそばの陸橋を渡り反対側の歩道へと移った。陸橋には無数の黒い電線が絡まるように巻きつけられていて、静電気を帯びたくせっ毛のような具合で、その切り口を四方八方に向けている。銅線の芯はシールドから剥き出しになっていて危険だ。突き刺さらないよう、気を使いながら階段を昇り降りしなければならない。下手をすると、目や顔に当たりそうな場所にまで電線が垂れ下がっている。プラナパルタンの交差点を横断したあと、トプカナ通りを少し進み、名前のない路地を右に折れる。路地の入り口角には奥に長細い食堂があり、そこを目印にしていた。この大通りから伸びたいくつもの路地は、どこも良く似ていて分かりにくいのだ。

 食堂の入り口では、少年がいつもプーリーを揚げている、こんがりとキツネ色に輝くヤツを。突っきたくなるほど見事にぷっくりと膨れ、つやつやで美味しそうだ。ダッカにいたときは、毎日この前を通ってはいたのだけれど、この食堂には一度も入ったことがなかった。だから、この前を通る度に言われるんだ、「ねぇ、いつ食べにきてくれるんだよ」と。耳が痛い。「今日はどうなの?待ってるよ」という少年のセリフを背中で聞いて、手の平を振って返す。そのまま路地を進む。雑貨屋、紙くずを集める店、電話屋、古い雑居ビルにある安宿を通り過ぎるとホテルNYにたどり着く。門をくぐって、入り口ロビーの奥にあるレセプション・カウンターに向かった。ピカピカに輝くタイル貼りの床には、ボストンバッグや、大きな荷袋が山のように積まれてあった。最初は一瞬、間違えてクリーニング店に入ってしまったのかと思った。到着したばかりの団体客の荷物だそうだ。どうりで、部屋が埋まっていたわけだ。カウンターの中にいた受付の女性が「気にしないで」という風に肩をすくめる。長い黒髪とブラウンの瞳、ベテランCAのような堅固そうな顔立ちで、以前泊まっていた時に見かけた見覚えのある顔だった。僕は荷物を床に降ろし、カウンターにひじを乗せ、バーでソーダ割りを注文するように、名前と電話で予約を入れた旨を彼女に伝えた。
「ああ、さっきの電話はあなただったのね。電話を取ったのは私よ。えっ、と、あなたの部屋は用意してあるわ。まず、これに記入して」と言って、コースターのように厚みのある受付シートをすっと差し出した。ひと通り記入し、それと引き換えるように部屋のキーを受け取った。女性はロビーにいた紺のスーツの男に声をかけ、「案内してあげて」と指示を出す。男は客室へと続く扉を静かに開け、首をひねってついてくるようにと奥に進む。

 用意されていたのはグランドフロア(1階)のファミリータイプの部屋だった。大きなWサイズのベッドが2つ、向かい合うように並べられている。蛍光灯の光で、まっさらな白いシーツが冷たく輝いていた。一人でここを使うには広すぎる。しかし、今日のところはこの部屋しか空いてないのだから、文句は言えない。明日は客が引き、前に泊まっていたシングルの部屋も空くから、そっちへ移動してくれとの事だった。続けて「今日は本当に全部埋まってしまったんだよ」と、従業員らが蟻の巣の中のようにせわしく働いている様子を、扉越しから気にするように言った。部屋の間取りが大きい分、料金も当然比例する、のだけれども、以前の滞在を贔屓目で見てくれサービスしてもらった。通常900タカのところを、今回に限ってはシングルの料金に100タカを上乗せした600タカで使わせてもらえることになった。

 荷物を置いて一服した後、浴室に向かった。汗とホコリにまみれた身体では、どうも落ち着かない。街で浴びた余熱のようなものも、早く洗い流したかった。シャワーの蛇口をひねると流れ出たのは、温かいお湯ではなくひんやりとした水だった。ざぁざぁざぁ。夕方にさしかかったこの時間に、湯が出るなんて期待はしてなかったものの、まぁ、こんなものだ。バングラデシュの安宿で、お湯が出るところはまずないと言っていい。ただ、このホテルNYは、いわゆる一般的な安宿の部類よりかは少しランクが上のホテルになる。なので、わずかだけれども安宿、との違いがあったりする。そう、ささやかではあるけれどお湯(いい響き)が使えるのだ。ただし時間帯が限られている。ホテルの人が言うには、午前中の9時から10時の間はお湯が出るよ、との事だ。これは一日の総時間のたった1/24時間という非常な短さで、あってないようなものだし、もちろん、その時間が正確だった試しは一度もない。過去1週間の滞在では、日によっては出ない事もあったし、たった10分しか出なかった時もあった。初めから湯が出ないのなら、こちらもその心構えになるのだけれど、「んん〜、その気がないわけじゃないのよ」とばかりに、ちょっぴり思わせぶる態度は、淡い期待を抱いてしまうので余計に始末が悪い。だからこの宿では、蛇口をひねった時にお湯が出たらラッキーと思うぐらいで、挑まないとやってられない。そして、いつも見事に期待は外されるのだ。先週も、今日も、そしてきっと明日も。

(5回は塗り直されているだろう、浴室の白い配水管を見ながら、冷たいシャワーを浴び、足を丁寧に揉みほぐした)

 髪が乾くまでの間、ベッドに横たわり、のっぺりとしたグレーの天井を焦点なくぼんやりと見つめる。窓のない1階中央の部屋だけに、建物中の冷気が集まっていてひんやりとした空気が満ちている。しんと静まった室内は閉塞感があり、どこか病室を思わせる。長距離移動の疲労はあったものの、今日の残りをこの部屋で過ごすのは、何か違うと思った。ここでじっとしていれば、余計に精神を消耗する感じがあった。時刻は16時目前。夕食にするには早く、どこか遠出するにはもう遅い。周辺のバザールはもう十分に行きつくした感があるので、足を向ける気にはならない。ふと、ずいぶんと昔の話だけれども、大阪から東京に引っ越したばかりの頃によくやっていたバス・ゲームのことを思い出した。

 まだ今ほどにネットが普及してなかった時代、東京の各街々で走っているバスがどんなルートを通っているかなんて、それを日常的に利用している近所の人ぐらいしか分かっていなかった。バスの運転手たちは煙草臭く、おまけにせっかちで、要領を得ない客が乗ってこようものなら怒鳴りつけるような人たちがけっこういた(もちろん中には親切な人もいたけれど、数はほんと少ない)。行き先を聞いただけでも睨まれたり、教えるのも面倒だといわんばかり露骨に顔をそむけたり、今では信じられないようなサービスのバスが都内を沢山回っていた(今は今で、サービスの過剰さに異常なものを感じる)。僕の中では「東京のバス=不愉快」という図式がすっかりと出来ていて、なんで大阪みたいに陽気に出来ないんだろうと思っていた。まぁ、こういった不親切なバスばかりだったのだけれども、僕はこれを利用して楽しむ方法を編み出していった。それが、バス・ゲームというもので、僕はこれを「バス・サーフィン」と呼んでいた。

 行き先不明のバスに乗ってトコトコと終点まで行く。当時は、これが週末の楽しみのひとつだった。毎週、どこか適当な駅で降りて、適当なバスに乗って終点で降りる。片道小一時間のちょっとしたミステリー・トリップ、それがバス・サーフィン。バスの大まかなルートは車内のどこかに小さく書いてあったかもしれないが、不慣れな土地ではその名前を知ったところで、たいした意味を持たないし、あったとしても見ないようにしていた。本当はこれだけで済む話なのだけれど、このバス・サーフィンをより完璧なものにするためには、最後の決め手-不親切な運転手-の協力?が必要だった。行き先がただ分からないくらいだと、もし終点に着くまでの間に、ここからこう行くとあの場所に出るんですよー、なんてうっかり言われてしまったり、今このあたりを走っててうんたら〜と教えられたりしたら、せっかくのミステリー感が台無しになってしまう。このバス・サーフィンの-程よい未知感-をうまく仕上げる為には、なるべく感じの悪いバス運転手が欠かせなかった(ついついおしゃべりして話が盛り上がる大阪のバスでは決して出来ない)。今だと、ケータイのナビなんかがあって自分がどこにいるのかすぐに分かってしまうので、このゲームの面白さは分からないだろうけれど、ちょっと前まではそれほど遠くない場所へ行くだけでも十分に楽しめたのだ。なんだかんだで一年半くらいはこんな事をしていたので、随分と東京の近郊を回り、いろんな町を見れた。ぱっと思い出すと、金町、流山、鎌ヶ谷、十日市場、赤羽、蕨、石神井、光が丘、あと板橋や練馬あたりの町が印象深かった。畑ばかりの中に出来た造成地、あるいは新興住宅地のようなものが不自然に浮かんでいるような土地、そして駅前にぽつんと地味な商店街があるような場所にどことなく惹かれた。それは、あんまし住みたいとは思わないような場所なんだけれど(住んでいる人がいたらすみません、今はもう変わっているかと)。

 時計を見る。まださっきから10分も経ってない。往復で2、3時間なら無尽にバスが走っているこのダッカでこのバス・サーフィンが出来るじゃないか。そう思うと、中途半端に思えた今日の残り時間が有意義なものに見えてきた。小さなリュックに荷物を詰め替え、仕度をした。部屋を出ると、フロントにいたスーツの男が、またどこか行くのか?というような驚いた目をする。ホテルを出て、日のあたらない薄暗い路地を抜けると、トプカナ通りのアスファルトが黄昏色にまばゆく輝いていた。「よーう、今ちょうど新しいのが揚がったとこだよ」と、プーリーを鍋からすくい上げていた食堂の少年が声をかけてきた。小さく首を振って後にする。そして、大通りを歩きながら適当なリキシャを見つけ、適当なバスを探した。

(この後、やって来たバスに乗る。終点までは行かず、カンチプールという町でバスを降りた)

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
(*1)"Bangladesh Population 2011"
http://exploredia.com/bangladesh-population-2011/

(*3)極東ブログさん、より
「エジプト軍部クーデターから半年」
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/10/post-85d8.html
「エジプト軍部クーデターの背景」
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2011/02/post-a4b5.html
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

孟加拉国 | 達卡 (达卡)
バングラデシュ、ダッカ
Dhaka (Dacca), Bangladesh
map-bangladesh-dhaka.jpg
posted by J at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月12日

生活模様の見える車窓景・ダッカ〜ナラヤンガンジ

R2N-R0124852.jpg
ダッカ・コムラプルからナラヤンガンジ行きの列車内。運賃は6タカで所要約50分。ホームに客車が到着して間もないうちはけっこう空いているが、発車間際になる頃には座れないほどの満席になる。ものすごく硬い青のクッションの敷かれた座席は、靴跡がついていたり砂埃の膜がかかっていて、座るとよけいに汚れそうなほど。座る前に一度砂をはらい落とさないといけない。車内の照明は、自転車の前輪にある発電機と同じで、走ると徐々に点灯してくる。ただ、駅に停車すると消えてしまうので、夜に乗ると真っ暗でけっこう怖い。夕方以降に乗る場合は懐中電灯を忘れずに。
新聞を読んでいる青年はシャビンと言って、車中で話し相手になってくれた。日用雑貨のバイヤーをしている。

R2N-R0124877.jpg
行楽日和。

R2N-R0124867.jpg
水たまりで立ち往生のトラック。

R2N-R0124875.jpg
踏み切り待ち。踏み切りは街の一端が垣間見えるので楽しい。

R2N-R0124879.jpg
列車の通過を見に来ていた近所の子。

R2N-R0124890.jpg
何の話し合いでしょうか?「弟よ、聞いてくれ。昨日、あいつからなぁ、、」

R2N-R0124896.jpg
停車駅のプラットーホーム。息を飲むほどに美しい赤いブルカの女性。

R2N-R0124899.jpg
配給の列?

R2N-R0124880.jpg
少年たちの大事な会話。「モハン、そんなに急いでどこ行くんだい?」「おう、ルフィーク!ちょっと秘密基地行ってくるよ。お前、あの場所、誰かに喋った?」

R2N-R0124881.jpg
何もない一日。

R2N-R0124887.jpg
プラットホームにて。ムスリムのじいさん。

R2N-R0124888.jpg
三者三様。

R2N-R0124902.jpg
終点ナラヤンガンジ駅に近くなると、線路沿いには衣料品の倉庫などが増えてくる。

R2N-R0124914.jpg
ナラヤンガンジからダッカへ向かう列車。タダ乗り発見。
posted by J at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月01日

Cambodian Gates

R2N-Cambodian-Gate.jpg
*Click for Large (p1-2)

「Cambodian Gates」
< Bavet - Phnom Penh - Battambang >
ベトナムとの国境バベットから、首都プノンペンを経てバッタンバンまでの国道1号線と5号線を走る。
車窓から撮った、道路沿いに建つ不思議な門たち。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

カンボジアの国道沿いを走っていると、一定の間隔で集落ごとの門が現れる。それぞれ、形が違っていて面白いので、まとめてみました。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


東埔寨 | カンボジア | Cambodia
posted by J at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

シンガポールから成田へ。

0318R0130403.JPG
早朝五時、MRTリトル・インディア駅の南西を走る「Bukit Timach Rd.」

0318R0130407.JPG
チャンギ国際空港第3ターミナル、出発ロビー。

0318R0130422.JPG
「08ゲート」へ

0318R0130424.JPG
「08ゲート」のロビー。

0318R0130433.JPG


朝7時55分発のユナイッテド航空シンガポール発成田行きの便に乗るため4時に起きる。日本の東北地方の大地震(東北地方太平洋沖大地震)からちょうど一週間。地震直後の交通の混乱や不安定な電力供給はひとまず収まっていると、前日に滞在していたクアラルンプールの宿で日本人旅行者から聞いていた。しかしまだ異常な状態が続いている原発のことが気になっていて、もしかすると成田行きの便は飛んでないんじゃないか、突如欠航になるんじゃないかと心配だった。もしかすると成田で足止めをくらって空港で泊まる事になるのかもしれないとも考えたりした。ただ、今回の旅でバングラデシュやインドで泊まってきた宿よりも成田空港での野宿の方が断然快適だから、成田への飛行機さえ飛んでいてくれればと願いチャンギ国際空港へと向かう。

早朝5時すぎ、MRTリトル・インディア駅前を走る「Bukit Timach Rd.」でタクシーを拾う。まだ空は暗いがタクシーは2、3分もかからずにつかまる程度に走っている。停車したタクシーのドアを開け「空港までいくらくらい?」と運転手にたずねると、「25(シンガポール)ドル位かな」と運転手。「じゃ、頼むよ」と言ってトランクに荷物を放り込み後部席に乗り込んだ。

ドアを閉めシートにもたれると運転手との会話。中華系で中国語会話も出来るよとは運転手。
「(空港の)何番ターミナルか分かるかい?」
「第3ターミナルに行ってちょうだい。」
「(飛行機は)どこに向かうんだい?」と聞かれ、「東京に戻るよ。」と答える。
「そうかい、津波は大丈夫だった?家族は無事かい?今、日本は危険じゃないのか?皆、東京から避難してるって新聞で見たよ」と運転手は続けた。「原発は危ない状態だろうけど、新しい情報を知らないんだ」と答える。「そうか。日本は今回の災害で大きな問題を抱えることになりそうだね。東京はアジアで最も発展している都市だから大丈夫であってほしいよ。」と運転手。「有難う。シンガポールも東京と変わらないよ。あまりにも綺麗で驚いた。」と返すと、「いや、経済的にはそれほどいい状態じゃないんだよ。」と意外な答えが返ってきた。シンガポールは東南アジアの最先端の金融国家として成功していると思っていた。「そうなの?昨日行ったショッピング・モールは若い子たちで溢れていて活気あったよ」と、ブギス駅近くの繁華街を思い出しながら運転手に言った。このあたりは日本で言えば丸の内の再開発地域のような賑わいがあった。

窓外には高層マンション群が緑の中、整然と立ち並んでいるのが見える。「シンガポールは一周約60km位と小さい国なんだ。車を走らせればすぐに一周できるよ。日本はずいぶんと大きいだろ。」運転手は控えめな口調で話す。「まぁ、確かにシンガポールの国土は小さいけどね。」と言ったあたりで空港に着いた。5時18分。MRTリトル・インディア駅からは約15分程だった。料金は深夜早朝増しで23.6シンガポール・ドル。

空港の第三ターミナルへと入り発着ボードを見るが、「7:55発成田行きUA876便」の表示がない。5時半、ユナイテッドのカウンターに向かいたずねると、UA876便は延滞しているとの事。後でその理由を知ったのだけれども、日本の地震災害・原発の報道を見てスチュワーデスが成田へ行くのを嫌がり、必要人数を揃えるのに時間がかかったのだそうだ。まぁ、遅れても飛んでくれるだけありがたい。乗客はキャンセルが多く、2-3割程しか乗っておらず機内はガラガラだった。。日本人乗客以外のわずかな外人乗客は、シカゴ行きの乗り継ぎのため渋々この成田行きの便に乗っているだけだった。

チェックインを済ませ、地階にある食堂へと向かった。
「Butter Sugar Toast Set」を頼む。食パンに塗ったバターに砂糖をまぶしたトーストと温泉卵二つ、「KOPI(コピ)」と呼ばれる練乳入りの甘ったるいコーヒーがセットになっている。温泉卵を割り皿に落とし醤油をちびりと掛ける。そしてトーストをこれに浸して食べるとすごく美味しい。

元階に戻り、出国手続き。搭乗ゲートへ向かう。チャンギ空港には、インターネットが15分だけ無料で使える場所があり気が利いている。日本のニュースなどを見て搭乗までの時間を過ごす。他にもこの空港は入出国の手続き、荷物の受け取りなどが非常にスムーズで、利用客の導線に無駄がないようしっかりと考えられていて快適だった。イミグレのカウンターははまるでホテルのレセプションのようでリラックスして手続きを済ませる事が出来る。世界一の空港と言われているだけの事はあるなと感じた。

飛行機は9時10分に離陸。成田へと飛び立った。
Bye, Singapore!


"goodbye" by The Sundays
http://www.youtube.com/watch?v=zepAKMKdC_g



Changi Airport, Singapore
http://www.changiairport.com/



新加坡 (新嘉坡) - 成田
シンガポールから成田へ
Singapore to Narita
posted by J at 02:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月20日

It's not True!

0311R0130129.JPG
プラチュアプ・キリカーンのカフェで流れていたニュース。ここで初めて今回の地震・津波のことを知る。

0311R0130145.JPG
プラチュアプ・キリカーンの食堂にて。

0312R0130146.JPG
地震翌日の新聞。一面トップ。

0312R0130157.JPG
地震翌日の新聞。

0313R0130187.JPG
地震翌々日の朝刊。

0313R0130205.JPG
チューンポーンにて。

0314R0130237.JPG
ハジャイにて。この新聞を買おうとレジに持っていくと70Bもすると言われ買うのをやめた。

0317R0130381.JPG
見出しは名ばかりに、どう見ても極普通の新幹線の列。KLにて。


3月11日の夕方、タイのプラチュアプ・キリカーンにいる時に日本の東北地方で巨大な地震(東北地方太平洋沖大地震)が起こったとのニュースを知りました。帰国までの一週間、シンガポールまでの移動の中で見聞きした現地でのニュース・新聞報道等を記します。

●2011.03.11 (fri) / プラチュアプ・キリカーン(タイ)
たまたま入ったカフェの奥のテレビから「日本が何とか・・」という声が聞こえ、振り向くと地球儀で日本の場所を示しながら解説者が話をしていたので、カフェの若い店主に「何言ってるの?」とたずねると「日本で大きな地震が起こったみたいだよ」と教えてくれた。驚いて「日本のどこで?」とまた聞き返すと、「こっち来て見てみて」と店奥に椅子を揃えてくれしばらく一緒に見る。間もなくして津波が街を襲う衝撃的な映像が写され唖然としてしまった。

タイは2004年に起きたスマトラ沖地震で、南部地域に津波による大きな被害が出ているので、津波に関する報道には非常に敏感だ。カフェの若い店主も、プーケットやピピ島に押し寄せた津波の記憶がよみがえったのか、食い入るようにテレビの映像を見つめている。タイ語での解説はわからないので、日本のどの場所で起こっているのかは全く見当がつかなかったが、時折画面はじに日本の報道番組から使われているのだと思われる日本語の地名が映りこんでいて東北地方で起こっているものだと判った。礼を言って静かに店を出る。

屋台広場での夕食を終えた後、帰り道に通りがかった食堂のテレビでも地震の報道が流されていた。テーブルをすり抜け見させてもらう。僕が日本人だと知ると食堂のおやじさんは「大変な事になってるね。まぁ、ゆっくり見ていきな。」とテレビ前の席を空けてくれた。


●プラチュアプ・キリカーン(タイ)
泊まっていたホテルの部屋のテレビでニュースを見る。地震の規模、被害の大きさが分かってきた。


●プラチュアプ・キリカーンからチュンポーンへ移動(タイ)
アットホームなGHに宿泊。GHの兄ちゃんは心配げに「日本の地震のこと知っているかい?」とたずねてくる。街へ出て、挨拶交わしてくる人は「どこから来たの?」「日本からだけど」と答えると、同じように神妙な表情になり「気を落とさずにね。」と励ましてくれる。


●チュンポーンからハジャイへ移動(タイ)
日本の友人から何度か電話あり。この日から戻りの日程がタイトになり長距離移動が続く事になるので、情報を得る余裕がなくなる。


●ハジャイから国境を越えバタワースへ移動(タイ→マレーシア)
国境で出国手続きの列で待っていると、後ろにいたタイ人の女の子が「あなた、どこから来たの?」と声をかけてきた。「日本からだけど。」と答えると、「どこの都市?」「東京だよ。」「あら、そう。家族は大丈夫?」「うん、西の方だから。」と返すと「そう、良かった。日本の人はとても強いわね。あんなに大きな地震があったのに、皆パニックにならずに落ち着いて毅然としていてとても感銘を受けたわ。」と言われ、こっちが逆にじーんときてしまう。
バタワースへ到着するもこの街での安い宿を探すのは面倒そうなので、フェリーでペナン島へ渡る。ペナン島は観光客が多いので、宿探しには苦労しなかった。ペナン島で泊まった宿のフロントで、宿泊客のオーストラリア人が今朝のニュースで原子力発電所が非常に危険な状態になっていると教えてくれた。


●ペナン島からバタワース、そしてクアラルンプールへ移動(マレーシア)
クアラルンプールのGHで、ようやく日本人旅行者と話をする事ができた。これまでは現地での報道、地元の人との短い話、ネットのニュース、友人からの連絡&メールと受け取るだけの情報しか得れてなかったので、ようやく会話での情報交換が出来る事に一安心。関東地方では食料品が店先から無くなっている等、今まで知らなかった新しい情報を知った。


●クアラルンプールからジョホールバル、国境を越えシンガポールへ移動
(マレーシア→シンガポール)
リトル・インディアの近くで両替所を探していたら、一人の白人男性が目の前を通りかかったので近くに両替所がないかをたずねてみると丁寧に教えてくれた。すかさず、「君は日本人かい?」「うん。」と答えると、ため息まじりに「そうか、僕は仕事で良く日本に行っているんだ。とてもすばらしい国で大好きなんだ。今回の地震で僕は何にもしてあげられなくて申し訳ない。早く復興する事を心から望んでるよ。」と早口で言う。「ありがとう。その気持ちだけで十分に嬉しいよ。」と返し、続けて「どこから来たの?」と聞くと「イギリスだよ」と流れるようにさらりと答えて去っていった。なるほどコレがイギリス人紳士というやつかと関心。
夕食後、リトル・インディアにあるコーヒー屋でコーヒーを頼むとおばちゃんがにっこりと聞いてくる。「あなた、どこから来たの?」「日本だよ。」「あらそうなの?てっきり、インドネシア人かと思ったわ。」「・・・・・。(きっと日焼けしていたのと、現地で買ったトんだ柄のTシャツを着ていたせいだと思われます。)」「日本のおうちと家族は大丈夫?地震の被害は受けてない?私の友人が一人仙台に住んでいて心配なの。」とおばちゃん。

地震直後からシンガポールへ着くまでに沢山の人から日本での地震のことを気にかけて声をかけてもらっていた。ただ、友人からのメールや日本のネットのニュースとこちらでの報道を比べるとかなり開きがあるように思えた。、最後にリトル・インディアにある調理用具の店に入るとおっさんが僕が日本から来た事を知ると「日本は今非常に危険だ。皆、日本から脱出しはじめているぞ。」とおそらくこの日の新聞を見て言ったんだろうけど、僕はこっちの新聞に載っていた過度な見出し記事の写真を思い出し、友人からのメール内容とを比較しどうも日本での状況と違った報道が進んでいるように思え、反射的に「It's not True!」と大声を出しておっさんの言った事を否定した。棚に並んだステンレス製のコップや皿に映った自分の顔を覗き見ながら「こんなことで日本人は誰も逃げたりしないよ。」と独り言のようにつぶやいて店を出た。
posted by J at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月19日

プノンペンからクラティエへ -Cambodia, 2010-

R2N-R0097604.jpg

R2N-R0097611.jpg

R2N-R0097616.jpg

R2N-R0097618.jpg

プノンペンでは以前にも泊まった事のある悪趣味なピンク塗りの宿「グッドラック・ゲストハウス」に再び部屋を取った。「グッドラック・ゲストハウス」のある通りをひとつへだてたSt.141 (キューバ大使館の裏側辺り) には「Chan Trea GH」と「Sundy GH」の二軒の古い宿が向かい合い並んでいる。そのうちのひとつ「Chan Trea GH」では「SORYA TRANSPORT」のバスのブッキング代行も行っていて、ここで「クラティエ」行きのバスの予約をした。ここでバスの予約をするとセントラル・マーケット前にある「SORYA TRANSPORT」のバスターミナルまでの送迎が付く。この場所は僕の泊まっている「グッドラック・ゲストハウス」からはとても近く、少し歩いて行かなければならない「SORYA TRANSPORT」のバスターミナルへ行く手間が省けるので便利だ。宿泊客でなくてもバスの予約は出来る。英語も話せる娘さんの対応が良い。

・プノンペンからクラティエまでは6ドル。(カンボジア通貨の)リエル払いにしてもらい25,000Rを支払う。クラティエ発のバスは8時にバスターミナルを発車するので、7時45分にはここへ来てくれれば送っていくよとの事。

翌日、6時半に起き身支度をして7時半にチェックアウト。部屋の窓から見えるプノンペンの空は水彩絵の具を溶いたような柔らかな水色をしていた。砂利道を踏みしめ「Chan Trea GH」前へ行くと、ちょうど送迎のバンが到着していた。予定の時刻よりも5分ほど早くに来ていたので驚いた。すぐにバンに乗り込んで出発した。途中別のホテルで、中国人の客を拾いバス・ターミナルへと向かった。この時、すでに出発予定時刻の8時を過ぎている。8時15分、遅れて到着したバンを降りクラティエ行きのバスへと乗り込んだ。間もなくしてバスは発車した。

R2N-R0097630.jpg

R2N-R0097637.jpg

R2N-R0097624.jpg

R2N-R0097625.jpg

R2N-R0097628.jpg

R2N-R0097627.jpg

R2N-R0097632.jpg

「昼食休憩」
8時20分、プノンペン・セントラルマーケット前にある「SORYA TRANSPORT」のバスターミナルを発車したクラティエ行きのバスは国道7号線を北上する。11時25分、コンポンチャム停着、11時半に再び発車。メコン川に架かる橋を越える。車窓の左手、対岸の橋のふもとにはピンク色の見張り塔が見える。錆び色をした赤土にブッシュが茂る大地が彼方まで続いている。道路はまだ新しいアスファルト舗装で快適だ。13時半「Kratie Privince」の標識が見え、クラティエ地区へと入った。ゴムのプランテーションが続く。

13時45分、昼食の休憩の為、バスは食堂前で停まった。映画「イージーライダー」のようなレザーとサングラスの風貌をした大柄な男たちがハーレーに乗って南下してきてたところで、ちょうど腹ごしらえをしていた。バスの乗客も混じりにぎやかになる。ごはんと野菜の汁物を注文、5,000R。食堂の向かいにある広い空き地には色とりどりのビニールが散乱している。この一帯は帽子が飛ばされそうなほど風が強く、大地にネジを巻かんと小さなつむじ風がくるくると舞っている。砂埃がひどい。


R2N-R0097672.jpg

R2N-R0097673.jpg

R2N-R0097674.jpg

8時20分、プノンペンを発車したクラティエ行きのバスは途中コンポンチャム等、何箇所かの町を通り、13 時45分、荒野の中にある食堂で昼食休憩のため30分弱程停車した。昼食を取った後、14時10分すぎにバスはクラティエに向けて再び走り出す。窓ガラスに吹き付けられた細かな砂埃が、外の景色をにごらせる。食後でまぶたが半分閉じていたせいもあったかもしれない。西に傾きはじめた太陽を追うように走る。その軌道下にある一筋の道が銀色に輝きだした。少しづつ荒野から町並みへと変わっていく。町のはずれにあるロータリー地球の掲げられたモニュメントを通りすぎ、バスの正面にメコン川が横たわっているのが見えた。

バスはそのまま川沿いに走りやがて停車。15時半、クラティエへと到着した。

バスを降りると、宿の客引きの洗礼が待っていた。こうなった場合は、いつもしている通りに寄ってきた連中の合唱が終わるのをひとまず待ち、根気良く最後まで言いよってくる男の売り文句に耳を傾ける。最後に残ったくじの男は「Sunset Bar and Inn」という宿の従業員でフィットと言う名。自分の宿のセールスポイントを熱弁する。ホットシャワーで5ドル。宿まではバイクに乗せてくれるというので、一度見てみることにした。

バスを降りた場所から、男のバイクに乗りメコン川沿を南の方角に200メートルほどを走って当の宿へと到着した。入口にはテーブルが置いてあり軽い食事が取れる様子。アットホームな雰囲気だ。少しぼろいが特に気になるところもなかったのでここに決めた。荷物を置いて、ここまで案内してくれたフィットのバイクに再び乗って町の中心部へと向かった。ストゥン・トゥレン行きのバスの時刻を見ておくために。ストゥン・トゥレン行きのバスを運行しているバス会社はSORYA、RITH MONYをはじめ何社かあった。

SORYA社のクラティエ発ストゥン・トゥレン行きは、13時と14時にあるとの事。
運賃は4〜4.5ドル。


東埔寨 | 金邉 - 枯井
カンボジア、プノンペンからクラティエへ
Phnom Penh to Kratie, Cambodia
Route map-2010.jpg
posted by J at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月25日

Transported in Vietnam "Mekong Delta" (3) -2010-

■ カマウからラックザーへ
R2N-R0095907.jpg
Phan Ngoc Hien通りのかわいらしい壁。

R2N-R0095933.jpg
黄金色に輝く稲穂が広がる畑。

R2N-R0095942.jpg
パステル調のカラフルな墓が並ぶ墓地。

R2N-R0095967.jpg
乗合いのフロントガラスから。

カマウでは高熱が出た為、ずっとホテルの部屋で安静にしていた。丸一日も寝ていれば少しは具合も良くなるもので、朝目覚めると、前日までは身体を横にする事すらままならなかったのがベッドから起き上がれるくらいにまで復調していた。まだ頭の奥がぼんやりとして、身体には鈍い痛みが残っているが、少しでも国境の町ハティエンへと近づいておきたかったので、この日ラックザーへと移動する事にした。荷物をまとめチェックアウト。フロントでラックザーへの行き方をたずねると、ラックザーのあるキエンザン省方面へ行くにはホーチミン方面の大きなバスターミナルではなく別のバスターミナルがあると教えてくれた。そこは「フーン・チン」と呼ばれていて、約2kmほど離れた場所にあるそうだ。病み上がりで覇気のない顔をしていたせいか、僕の受け答えがぼんやりとしたせいだったのか、フロントの兄ちゃんは親切にもバスターミナルの住所を走り書きしたメモを手渡してくれた。「Phuong Chin-Ben Xe, in Nguyen Trai Street」
(*バスターミナルの門に記されている住所を見ると「Phuong 9」とあり、ベトナム語で「9」は「Chin」と言う事から、「フーン・チン」は番地のことを指していた。日本で言えば、3丁目のバス停といった感じだろうか。)


フロントの兄ちゃんはホテル前で待機しているセーオム (バイクタクシー) の運転手を手招きして呼び、これに乗っていきなと言う。そして、呼ばれた運転手からヘルメットを受け取った。運転手の言い値1.5万ドンを1万ドンで交渉。バスターミナルへと向かう。カマウ・ホテルから5分ほど走ってキエンザン方面のバスターミナルへと到着した。バスターミナルというよりはミニバンが並ぶ駐車場といった感じで、こじんまりとしている。バスターミナルの周辺は空き地しかないが、そんな不便な立地の中ホテルが何軒かあった。ラックソイ行きの乗合いバンがちょうど停まっていたので、それに乗り込んだ。
・カマウからラックソイまで50,000ドン。
10時50分に乗合いは発車した。

R2N-R0095980.jpg
Xeo RoとTac Cauの間を流れる川「Song Cai Lon」。

R2N-R0095995.jpg
フェリーの船尾から、Xeo Ro側景。

R2N-R0096005.jpg
錆び錆びで泥だらけの自転車。大事に使ってるね。

R2N-R0095990.jpg

R2N-R0096000.jpg
猛スピードで突進してきた運搬船。

R2N-R0096007.jpg
ぷかりと浮かぶホテイアオイ。

R2N-R0096012.jpg
Tac Cau側の船着場。

R2N-R0095974.jpg
Xeo Roの船着場にあったフェリーの運賃表。

「Xeo Ro / Tac Cauの渡し」
ラックザーへと向かうため、カマウ市内から約2km離れたバスターミナル「Ben Xe Ca Mau - Kien Giang」でラック・ソイ行きの乗合いバンに乗った。10時50分にバスターミナルを発車。車は畑がすぐにも迫る二車線の道路をただひたすらに走る。車窓景は緑が豊かでとてもいい。道路のすぐ脇には、ビニールシートの上に収穫した稲を広げ天日干しにしている光景が目に入ってくる。このあたりはメコン・デルタの深部だけあって、水路や運河が毛細血管のように張りめぐらされていてやたらと橋が多い。車は5、10分の間隔で橋を越えては降りを繰り返す。はじめのうちは小さな橋にもちゃんと名前が付いているのが面白くて、車窓から橋名が読み取れたものはメモしていたが、あまりの多さに途中であきらめ止めてしまった。一部を列挙してみると、Cau Tu My / Vinh Thai / Cau Cong Su / Cau Bon Thuoc / Cau Moung Chua / Cau Ba Ngan / Cau Thu Sau / Cau Xeo Boom / Cau Thu Tu / Cau Thu Hai...といった具合に続く。

13時30分、少しづつ建物の密集度が増してくる。コンクリートの建物が並び、商店が店をかまえ「町」らしいたたずまいの中を走る。13時40分「Xeo Ro」という町に着き車は止まった。船着場があるようだ。目の前を「Song Cai Lon」という大きな川が流れている。まもなくしてフェリーに乗り込んだ。10分程の乗船。対岸の「Tac Cau」に渡り、再びラックソイへと向け走り出す。「Tac Cau」を後にするとラックソイまではわずかだった。14時半、ラックソイのバスターミナルへと到着した。

R2N-R0096017.jpg

「ラックソイからラックザーへ」
10時50分にカマウを出発したラックソイ (迪秋) 行きの乗合いバンは、13時40分に「Xeo Ro」「Tac Cau」間に流れる川「Song Cai Lon」をフェリーで渡り、14時半にラックソイのバスターミナルへと到着した。荷物をかついで車から降りるとセーオム (バイクタクシー) の運転手たちに囲まれる。毎度のことでうっとおしいのだけれど、全く来ないとこれはまた寂しいもので、彼らとのやり取りは新しい町へとやってきた時に気を引き締める為のちょっとしたクラッチになっている。僕の意向をよそに、運転手たちの言い値が飛び交う。
「(行き先は) どこだ?」
「ラックザーだけど。」
「なら4万!」
「俺は3.5万だ!」
と威勢がいい。でも連中の相手はせずに輪の中からかき分けてバスターミナルを背にし、大通りへと向かうと最後の一声「2万!」にまで下がった。しかし、ここラックソイは大きな道路 (QL-80) が走っていて、交通量も多いのできっとラックザーまでのバスはあるはずだから少し様子をみることにした。しばらく道路脇に荷物を下ろしてバスがやってくるのを待った。

5分もたたないうちに一台のバスがやってきた。入口の階段そばにいた助手の男にラックザーまでの運賃を尋ねると手を広げ「5」を示す、「5,000ドンか。まぁ、そんなもんか。」とそのままバスに乗りこんだ。バスは大きなロータリーを抜けて「Cau Rach Soi」という橋を渡る。橋を越えたあたりで、さっきの助手の男が料金の徴収をしにやってきた。5,000ドンを支払おうとするが首を振る。「ん、なんで?」と返すとなんと「5万ドン」だと言う。「あほか、5万ドンもあればカントーまで行けるだろ!」と答えると、手を出したまま「5万ドン」だと引かない。しばらく問答が続くがらちがあかないので、バスの扉をこぶしでガンガン叩いて「降りる!」と運転手に向かって叫びバスを停めてもらった。助手の男は無表情な顔のまま、床に置いていた僕のリュックとカメラバッグを足で蹴り転がし、さらに段差のある出入り口から道路へと放り投げたので、とっさのお返しにとこいつの胸をガンと突き返してバスを降りた。気分の悪い野郎だ。瞬間的に熱くなった頭をバスを降りた場所でしばらく冷やす。そしてさっきのバスが走っていった方向に向かってゆっくりと歩きだし、別のバスがやってくるのを待つ。歩き始めてそれほど経たないうちに再びバスがやってきた。「ラックザー行き」を確認して乗り込んだ。ふと、さっきの出来事がよぎるが今度は大丈夫だった。検札係はおとなしそうな風貌で、劇団ひとりにそっくりだった。青いシャツにグレーのズボン、そしてすっかりとくたびれた黒い皮かばんをさげている。黒かばんの中には回収した運賃と切符が入っているので大事そうに抱えている。ラックザーまでの運賃は4,000ドンだった。

彼は一通り自分の仕事を終えると、揺れる車内をゆっくりと移動し僕の前にやってきて色々話しかけてきた。ベトナム語で喋っているので何を言ってるのかさっぱり分からず「わからないよ」と首をかしげていると、後ろに座っていた女性が英語に訳した紙を手渡してくれた。紙には「どこから来たの?何してるの?」と書いてあったので、返答すると今度はその女性も首を振る。ん?どういうことかと思ったが、この女の人は英語の読み書きは出来るけれど話せないとの事だった。で、ベトナム語で話してくる男に、隣の女性がそれを英語に訳した紙をくれる、で、僕もまた紙に書いて手渡すという変なコミュニケーションとなっていた。そうこうしているうちに大きな市内へと近づいてきた。「どこで降りたいの?」と聞かれ、古くからあるらしい「Hong Nam Hotelの近くで」と答えると、「ここがそうよ。」とちょうどのタイミングで降ろしてもらった。降りた道路の場所には「ディエンビエンフー通り」の標識が傾いて立っていた。

R2N-R0096019.jpg

「ラックザーでの宿探し」
ラックソイからラックザー行きのバスに乗り、「ディエンビエンフー通り」前で降ろしてもらった。時刻は15時。日中のいい時間帯に着いたので宿を探すにもずい分と余裕がもてる。日の落ちた夜に宿を探す事ほど気分の滅入ることはない。ただ昼時は昼時で炎天下の中を歩き回らなければいけないのでこれまた別に体力を使ってしまう。どの時間帯であれ苦手なことをするのはどんな場所でも慣れないものだ。ディエンビエンフー通りに沿ってホテルが何軒かあったのでのぞいてみるが、値段との折り合いがつかずで他をあたることにした。上空でじっと動かない太陽ののん気さがうらやましい。バスターミナルのある方向に向かいながら周辺をうろついていると、白人のおっさんが「宿探してるの?」と声をかけてきた。「このあたりにHong Nam Hotelがあると思うんだけど。」と答えると、おっさんは左手に持っていたロンプラをめくりながら「あぁ、あそこはね、あんまし良くないよ。」と言って、ラックザーのページを開いて指し「ほらここ、-Aging- (ボロい) ってあるだろ。」となんだかうれしそうに教えてくれた。そして「この先に僕の泊まってるホテルがあって、そこは安くて綺麗だから案内するよ。」と話が進んだ。「フーコックは行った?これからどこへ行くの?」と、宿までの道を歩きながらの短い会話。「フーコックへは行かずに、ハティエンからカンボジアに抜ける予定だよ。」と答えているうちに、おっさんお勧めの宿へと到着した。「Hotel Thu Van」という。わりと最近出来た様子で、フロントにはカウンターがある程度で簡素なたたずまいだ。部屋へと戻る途中のおっさんに礼を言う。値段を聞いて部屋を見せてもらい、ここに泊まることに決めた。

Hotel Thu Van
・シングル:10万ドン、エアコン、ホットシャワー付。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
■ ラックザーからハティンへ
R2N-R0096680.jpg
バスの上窓の青いカーテン。

R2N-R0096682.jpg
電線と教会。

R2N-R0096688.jpg
モダンな色使いの教会。

R2N-R0096698.jpg
セメント工場。

R2N-R0096702.jpg
桜海老を天日干しにしているところ。香ばしい海老の香りがバスの中いっぱいに漂う。

正午少し前、ラックザーでの宿「Hotel Thu Van」をチェックアウト。ここのフロントの兄ちゃんは、どことなく日本人のリアクションに似ていて親近感がある。宿前の通りを東に200メートル程歩くとローカルバスや、ハティン行きのバスのが発着するバスターミナルがある。「Hotel Thu Van」からバスターミナルへと向かうこの短い間にも数軒の宿がある事に気づいた。セーオム (バイクタクシー) の運転手が目ざとく近寄ってきて「どこ行くんだ?」と聞いてくる。「ハティンだ。」と返すと、「それなら、少し離れた所からVIPバスが出てるから連れてってやる。さぁ、乗りな。」とバイクをぴたりと寄せるので、「いや、そこのローカルバスでいいんだ。」と言ってそのまま歩き続けた。

バスターミナルは縦に長細い敷地をしていて、敷地の隅にはバス会社の事務所が何軒か並んでいる。乗客のいない閑散とした場所に構える洒落た内装と洗練された看板の掲げられた新しい事務所のミスマッチが面白い。バスターミナルには数台のバスが停車していて、その中の真黄色の車体のバスを前に女性の乗務員が「ハティン」行きの呼び込みをしていた。古い韓国製の車「Dewoo」だった。運賃は3万ドン。そのままバスに乗り込んで座席に座る。乗客は僕を合わせて2、3人。乗って待つ間もなくバスは発車した。時刻は12時すぎ。ラックザーの市内で乗客を拾いながらバスはラックザーをあとにする。市内を離れると道路は細い田舎道へと変わる。車窓からは小さな村や運河が定期的に現れては、緑の茂みが続くという繰り返し。とある家では、赤いハンガーに真っ白のアオザイを干していたのが印象的だった。

小さな市場や、バスターミナルの建物がいくつか見える。
12:30、Cho My Lan
12:45、Cho Soc Xoai
13:00、Ben Xe Tri Ton
13:15、Cho Binh Gian (市場周辺は殺風景でがらんとした町並み)
13:20、Ben Xe Tau Huyen - Kieng Luong
13:35-40、バスは途中休憩。ここで半分近くの乗客が降りていく。
13:45、右手に大きなセメント工場が岩山を背に見える。このあたりからゴツゴツした岩山が田園景の中に現れ始め、面白い景色になる。
13:50、バスの中にぷーんと香ばしい海老の匂いが広がる。道端には乾燥させるために海老が敷き詰められ、綺麗なサーモンピンクに染まっている。

R2N-R0096728.jpg

R2N-R0096742.jpg

R2N-R0096745.jpg

R2N-R0096749.jpg

13時45分、右手に大きなセメント工場が見えたあたりから岩山が現れはじめ、それまで続いていた田園景や運河の単調な風景とはがらりと景色が変わり始めた。そして、少し走った14時過ぎには左手に海が見えてくる。そして海岸沿いの道を走り続ける。途中の道路でセーオム (バイクタクシー) の運転手がたむろしていて、その中のひとりがバスに乗客が乗っているのを瞬時に見分けると (一瞬目が合った) 即座に自分のバイクにまたがって後を追ってくる。

14時20分、大きな橋 (トーチャウ橋) を渡る。
14時25分、「Ben Xe Ha Tien」へとバスは到着した。バスターミナルと言っても地がコンクリート打ちされた駐車場のようで、あたりには民家らしきものも何もない。

バスを降りるなり数人のセーオムの運転手が寄ってきた。その中の一人の男にどこか見覚えがあったので思い返しハッと気づいた。先ほどバスを追いかけてきたセーオムの運転手だった。自分の客になるのかも分からないのに、ずいぶんな距離を走ってまで仕事を取ってやろうとするその勢いに驚いた。
「カンボジアのボーダーか?」とたずねてくる。
「いや、ハティンの市内へ行きたいんだ。」と返す。
「なら、いい宿があるから連れてくよ。」と言って、ポケットから二つ折りのリーフレットを取り出し見せる。「ANH VAN」というホテルで、赤と白のモダンでお洒落な外観でまだ新しいという。15万ドンだと言うので、まずそこまで案内してもらうことにした。市内までを1万ドンで。しかし、あっ!と拍子抜けするほど短い時間で町へと着いた。


越南 | 金甌 - 迪石 - 河仙 (建江省)
ベトナム・カマウからラックザー、そしてハティンへ(キエンザン省)へ
Ca Mau to Rach Gia, Ha Tien, Vietnam
*キエンザン (ラックザー) はクメール名で「クラムオンサル (白いろうそくの意)」、ハティンのクメール名は「ペアム」という。
Route map-2010.jpg
posted by J at 03:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月06日

Transported in Vietnam "Mekong Delta" (2) -2010-

■ ヴィンロンからソックチャンへ
R0095107.jpg

R0095120.jpg

R0095127.jpg

R0095133.jpg

サデークからヴィンロンへとやってきた翌日。6時過ぎに目覚め、身仕度をし7時半すぎに朝の散歩へと出かけた。朝食を済ませた後、運河沿いの市場をぐるりと巡ってから宿 (Phung Houng) へと戻る。健康的な一日の始まりだ。日本にいる時にはこんな朝を迎えることはめったにない。シャワーを浴びた後、荷物をまとめ一階の受付へ降りた。受付でソックチャンまでの行き方を尋ねると「ヴィンロンからソックチャン行きのバスは少ないので、ローカルバスでカントーまで行ってそこでソックチャン行きのバスの乗り換えるといいよ」と教えてくれた。礼を言ってチェックアウト。宿を出てCho Vinh Long前のローカルバスターミナルへ向った。

バスターミナルに着き、先の受付で聞いたのと同じように「ソックチャンへ行きたいんだけれど」と運転手のおっちゃんに尋ねると「このバスターミナルからソックチャン行きのバスは出てないので、ここから5km離れた大きなバスターミナルでソックチャン行きのバスに乗りな」との事。セーオム (バイクタクシー) に乗っていけばすぐだよと勧めてくるが、朝っぱらからセーオムの運賃交渉も面倒なので「カントー行きのバスは出てる?」と改めて聞くと、目の前に停まっていた白地に青いペイントの入ったバスを指し「コイツだよ。」と返ってきた。値段を聞いてバスに乗り込む。ソックチャンからカントーまでは20,000ドン。この値段ならセーオムに乗って、大きなバスターミナルに行く料金と変わらんぞ!と内心思った。

バスは10時に発車。乗客はまばらだ。ローカルバスなので、しょっちゅう停まっては乗客を拾いの繰り返しでしばらくの間はあまり距離が進まない。走っている道路は通学路になっているのか、小学生の団体が良く乗り降りしてせわしない。隣に座った少年と少し話をし「これからソックチャンに行くんだよ」と言うと、何か図を描いて説明してくれた。しかし、何の事やらさっぱり判らずで、しきりに「Pha-, Pha-」と言ってるのが耳に残った。11時10分すぎ、バスターミナルらしき空地に着きバスが停まった。どうやらここが終点のようだ。ここがカントーだと運転手は言うが、カントーはヴィンロンよりも大きな街なので、ただの空地にすぎないこのバスターミナルバスを見て「そんなわけないやろ、きっとどこか外れの街だろう」と思いながらバスを降りる。降りた途端、セーオムの運転手が待ちかまえていたかのように一斉に寄ってくる。「ソックチャンに行きたいんだ。」と運転手たちに告げると、皆、「オレのバイクに乗れ!オレのに!」と口々に叫び、マルチ・チャンネルのステレオ状態だ。「いや、バイクじゃなくてバスで行きたいんだよ。」と言ってみたものの全く意味は通じずで、とにかく客を捕えることしか頭の中にはない様子。輪を振りほどいて、この騒がしい連中を背にバスターミナルを出た。

「まず、ここがどこなのかを知らないといかんなぁ」とあたりを見渡していると、先程沢山いたセーオムの運転手の一人が「こっちへ来い!!」と大きな身ぶりで僕を呼んでいる。「ソックチャン!、ソックチャン!」とバスを指して叫んでいるので、「ああ、これがソックチャン行きのバスか!」と分かった。そして、ようやく状況も呑み込めた。ヴィンロンから乗って来たローカルバスはカントー手前のこのバスターミナルが終点で、カントーはフェリーで対岸に渡った先にある。カントー行き (経由) のバスはフェリーに乗る為にここを通っていくので、5分も待っていればすぐに一台くらいは現れる。呼んでいたセーオムの運転手がその中からソックチャンへ行くバスをあたってくれている。「僕は客でもないのに、何て親切なんだろう」と嬉しくなった。

セーオムの運転手は何台かやって来たバスを見送りながら「ソックチャン行きのバス」を見つけてくれた。「ありがとう。」と礼を言ってバスに乗り込んだ。バスはフェリーに乗る為に船着場の前で順番を待つ。バスの助手に運賃を尋ね支払いを済ませる。カントーからソックチャンまで、3万ドン。あっと言う間に、バスはフェリーへ乗り込んで川を渡る。大きな川だ。少し先には白い大きな橋が見える。約15分程フェリーに乗って川を渡り対岸へと着いた。こちら側は道路や建物が整備されていて、大きな街の気配を感じる。窓の外に眼をこらし「Can Tho」の文字がどこかに見えないかと探したけれども、良く判らずじまいでバスはさっさとここを通り過ぎてしまった。座席に座り落ち着くと、さきほどのバスの中で男の子が「Pha-」と言っていたのが何なのかが分かった。メモ帳に描いてくれた絵を見返すと「Pha」というのは「船」の事だったんだ。きっとあの時「このバスを降りたら、フェリーに乗っていけばいいんだよ。」って言ってたんだろうな。メコン・デルタというだけあって、やたらと川や橋が多いのもうなずける。

R0095147.jpg

R0095161.jpg

R0095149.jpg

ヴィンロンでローカル・バスに乗り、カントー手前のバスターミナルで下車。フェリー乗り場で順番を待って停車していたソックチャン行きのバスに乗り換える。15分ほどフェリーに乗って対岸のカントーへ渡り、そのまま国道1号線 (QL1) を走る。運転手の助手の青年3人が運転を囲いおしゃべりに興じている。カントーを過ぎると運河と田園風景の広がるのどかな景色が続き、しばらくは運河と平行した道を走る。青い空と畑の緑、時折カラフルな寺院や変わった形をした教会が目に飛び込んでくるので、車窓からの眺めはなかなか楽しい。特に教会はひとつひとつが違っているので面白い。景色は何が変わるわけでもなく小さな変化をひたすら提供していてくれたが、突然にそれが打ち切られた。ソックチャンへと到着したのだ。時刻は13時10分。ヴィンロンから約3時間と少しの移動だった。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
■ ソックチャンからカマウへ
R2N-R0095605.jpg
車が停まると宝くじ売りの子供たちが一斉に駆け寄ってくる。
くじを買ってくれないので男の子はふてくされ顔。

R2N-R0095643.jpg
ベトナムの教会はユニークなものが多い。

R2N-R0095589.jpg
橋を渡り、緩やかな下り坂。

R2N-R0095658.jpg
気持ちいい風が吹く。

12:00前、ソックチャンのバスターミナル「Ben Xe Tra Men」へと向かう。カマウ行きの乗り合いバンはすぐにやってきて、呼び込みがはじまる。乗客はすぐに集まり、10分も経たないうちにカマウへと向けて車は発車した。
・ソックチャンからカマウまでの乗り合い運賃、5万ドン。13時15分、バックリュー着。カマウまで67kmの表示。バスターミナルに並ぶバス会社の料金表を見ると、以下の表示があった。
Bac Lieu - Ho Chi Minh : 105,000ドン。
Bac Lieu - Can Tho : 45,000ドン。
Bac Lieu - Ca Mau : 25,000ドン。
(Jan. 2010)

バックリューを出てしばらく走ると、車の調子がおかしいのかのろのろ運転になりガソリンスタンドを見つけるとそこへ入り停車した。空気圧か何かを計る機器を持ち出して調べている。10分ほど応急処置をして再び車は走り出したものの、また具合が悪くなり今度は路肩に車を止めた。嘆く運ちゃんは大きなため息をし、乗っていた客全員に荷物をまとめ車から降りるように申し出た。そして、道路に出て他のカマウ行きの車を探し始める。自分たちの乗客を何組かに分け、座席の空いている車にお願いして乗せてもらうよう交渉していた。もちろん料金は受け取っていたお金から相手の運転手に支払っていたので、この日は赤字だっただろう。でも、運ちゃんはとても陽気で、乗客全員の手配を済ませると車のことなど忘れたかのように近くの食堂に駆け込んでいった。僕を含め他の乗客達は車を乗り換え、再びカマウへと向かう。

Ben Xe Tra Men
http://tavola-world.seesaa.net/article/161796013.html

R2N-R0095637.jpg

R2N-R0095655.jpg

R2N-R0095630.jpg

■ 雲の生まれる場所
正午前、ソックチャンのバスターミナルでカマウ行きの乗り合いに乗ってカマウへと向かった。バックリューを過ぎ、しばらく走ったところで車が故障し別の車に乗り換える。バックリューからカマウまでの間の空はとても青い。そして、手の届きそうなほどの距離に雲が迫り迫力がある。大きな、大きな雲が流れている。カマウはベトナムの最南端にあり、南シナ海に大きな爪を立てるように半島が突き出ている。海から蒸発した水蒸気が集まり、雲となって大陸へと北上するはじまりの地点。生まれたばかりのまっさらな雲は、羊飼いに追われる羊のように青い海原を漂う。15時20分、カマウのバスターミナルへと到着した。出入り口には緑のカラーが目立つマイリン社はじめ、バス会社のオフィスがいくつか並んでいる。


■ カマウでの高熱
ソックチャンからカマウへと到着した翌日。6時半に目覚めるが、少し熱っぽい。まぁ、寝起き直後だから身体を動かしているうちに治るだろうと、ゆっくりと身支度をし8時前に街へと出た。
フンヒエップ運河沿いに広がる市場を歩いていたところ、突然に足がふらついて進めなくなった。体中に熱っぽさが増していて、手で腕や額を触ると外の空気よりも暑いのが分かる。太陽はさんさんと輝いて陽気だ。道から照り返す光がつらくあたる。路肩で休み休みしながら、ホテルの部屋へとたどり着く。なんとか、足の動く間に戻ることができた。ベッドにバタンと倒れこむと、全く動けなくなってしまった。重い頭はまるで台座に備え付けられているかのようでベッドに埋もれていく。腕すらも上がらなくなり、なんとかシーツの下にもぐりこみそのまま寝込んでしまう。熱と寒気が同時にやってくる。せっかくのエアコンの付いた快適な部屋だったけれども、寒気がするのでエアコンを使うことはなかった。再度、起き上がる事も出来なかったので照明はつけたまま横になっていた。カマウで一番よく見ていたものは、カマウ・ホテルの真白い天井だった。「こんなにもしんどいのに、誰も僕に"カマウ"人なんかいないよなぁ」とかどうでもいいことを頭に浮かべながら眠りについた。それも、きっとこの熱のせいだろう。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
今から約40年も前、この美しい空の上からアメリカは枯葉剤という化学兵器をばら撒いた。これによって、カマウの北に広がる「ウーミンの森」という熱帯雨林とマングローブの森の70%が消滅したという。アメリカはインドシナ半島が「赤に染まる (共産化) 」のを阻止したいがために「緑」を消してしまった。枯葉剤で被害にあったのは自然だけでなく人体にも影響があった。日本では「ベトちゃん、ドクちゃん」がその象徴として良く報道されていた。そして、この枯葉剤 (エージェント・オレンジ) を開発・製造したのが「モンサント社」という会社で、現在は「遺伝子組み換え植物」の種子を供給しているので知られている。その作物 (大豆やとうもろこし等) は日本にも輸入され私たちの毎日の食卓にものぼっている。ベトナム戦争で使用された枯葉剤から進化?した「ラウンドアップ」と呼ばれる除草剤は、ほぼ全ての植物を枯らす効能を持つが、「-遺伝子組み換え-によって改造された植物」だけはこの影響を全く受けずに育つという恐ろしい性質を持っている。これを植物といっていいんだろうか?「モンサント社」は、これら「種子」「除草剤」「化学肥料」とセットにして途上国などに販売するビジネスを手がけている大企業だ。「遺伝子組み換え植物」は色々種類があり、除草剤に耐性があるものだけでなく、「第二世代=子供 (種) 」が出来ないF1種というものもある。これは収穫した次の年にも「農家の人に自社の種を買ってもらう為」で「種が採取できるような本来の植物である自然な品種」だと翌年に種子を買う農家がおらず売り上げが減ってしまうからだ。一企業の合理性・売り上げ増加という目的のためだけに食の安全が奪われている。野菜は毎日食すものだけに、青果はもちろんのこと加工食品の原材料の表示などは非常に気になる。ただ、家畜の飼料に関してはこの遺伝子組み換えの作物がどれほど使われているのかは不明。おそらくほぼ100%だろう。日本では中国産の農薬問題ばかりが取り上げられているが、もっと根本の「(改造) 植物」が本当に安全なのか?にも関心を持たなければならない。

「世界金融戦争」広瀬 隆 (NHK出版)
「コメほど汚い世界はない」吾妻博勝 (宝島社)
「極上トマトをベランダで作る」永田照喜治 (光文社)他
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

越南 | 永隆 - 蓄臻 (朔庄) - 金甌 (金甌省)
ベトナム・ヴィンロンからソックチャン、そしてカマウへ
Vinh Long to Soc Trang, Ca Mau, Vietnam
Route map-2010.jpg
posted by J at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月25日

Transported in Vietnam "Mekong Delta" (1) -2010-

■ ホーチミンからサデークへ
0102R0093561.jpg
ミエンタイ・バスターミナル(Ben Xe Mien Tay )のマイリン社のミニバン乗り場。

「羽田からホーチミンへ(8) 南寧からホーチミンへ」からの続き


6時半、タンソンニャット国際空港から「152番」のベンタイン行きバスに乗りホーチミンの市内へと向かう。7時前、ファングーラオ通りにさしかかり、ここでバスを降りた。Kさんは宿探し、僕はベトナム通貨ドンへの両替をする為に銀行が開くのを待つ。Kさんとはここで別れる。まだ7時だというのに、この周辺は旅行者であふれかえってにぎやかだ。旅行代理店の並ぶデタム通りには、プノンペン行きの大型バスなどが連なっている。近くでマイリン社の事務所が出来ていた。この会社のコーポレートカラーである緑の看板が目立っている。ファングーラオ通り沿いにある「Donga Bank」は7時半に開くのであと15分ほど時間があり、この合間に、ここマイリン社の事務所で今日のサデーク行きのバスをブッキングした。10時半発のロンスェン行きの便。料金は90,000ドン。この事務所では電話での予約受付だけなので、9時半までに「マイリン・エクスプレス」本社に行って運賃を支払ってくれとの事だ。

マイリンの事務所を出て「Donga Bank」へと向かう。
ここでベトナム滞在分の両替を一気にする。
レート (Jan. 2010):
JPY (100yen) = 19,910VND
US Dollar = 18,479VND
Euro =26,450VND

両替の後、デタム通り角にある「ハイランドコーヒー」へと入り「トラディショナル・ブレンド」を1パック購入。ベトナム式で煎れたここのコーヒーは奥行きある味とトースティな香りが官能的でとても美味しい。豆をリュックの隙間に詰め込む。会計を済ませると、店員の女の子が「日本人?」と尋ねてきて「兄が名古屋に住んでいるの、すごくキレイな街なんだよって言ってたわ。」と嬉しそうに話してくれた。店を出て少し腹ごしらえ。牛テール?入りのフォー、20,000ドン。デザートを、と思ったが時間があまりないのでMAI LINH EXPRESS本社に行く事にした。チャンフンダオ通りでバイクタク(セーオム)を探す。何人かに聞いて歩く。マイリン・エクスプレス本社まで言い値30,000ドンですぐに20,000ドンまでは下がるが10,000ドンは無理だった。でも、もう一声欲しかったので歩き続けてると、ひとりじいさんの運転手がずっと後ろを着いて来る。待っているよりも客をつかまえたい様子で「15,000ドンでいいよ」と渋い顔をしながらヘルメットを渡すので、すぐに飛び乗った。10分ほど走ってマイリン・エクスプレスの本社前へ到着した。建物の中へ入り、カウンターでさっき予約したとの旨を伝え料金9万ドンを支払う。本社前には10分おきぐらいに「98番」と番号のふられたバスがやってきて、ミエンタイ・バスターミナル(Ben Xe Mien Tay )へと乗せてってくれる。マイリン・エクスプレスのミニバスはミこの本社前からではなく、エンタイ・バスターミナルから出ている。

9時半すぎにこの「98番」バスに乗りミエンタイ・バスターミナルへと向かった。30分ほど走り、10時前にミエンタイ・バスターミナルへと到着した。10時半の出発まで、少し時間があるのでバスターミナルの周辺をぶらりと見て回る。

0102R0093583.jpg

0102R0093595.jpg

10時半すぎ、緑色のマイリン社*のミニバス「9005番」のロンスエン行きは発車した。「サデーク」は「ロンスエン」の約30kmほど手前にあるので途中下車をする。バスの運賃はロンスエンまでと変わらない、9万ドン。12時半、「Cai Be」の休憩所に停車。
http://tavola-world.seesaa.net/article/141362940.html

ここで昼食をとる人が多く30分程の休憩となる。食堂のメニューを見て、Ban Thit Nuongという料理を頼む。22,000ドン。メニューがベトナム語だけの表記なので当てずっぽうだ。何が出てくるか?と思って楽しみに待つ。やって来たのは汁無しの米麺に照焼き風の豚肉が乗ったものだった。
0102R0093576.jpg

■ サデーク・ホテル、再訪
13時10分、バスは再び発車。とても良い天気。メコン川に架かる大きな橋を渡り、13時50分サデークへと到着した。運転手にサデークで降りる事を言い忘れていたので、あわててその事を告げる。少し通りすぎた場所で降車した。走ってきた国道80号線を少し戻って、交差する「Hung Vuong通り」を北に曲がる。角にある郵便局が目印だ。「Hung Vuong通り」をまっすぐに歩き、運河を渡ってしばらく行くと「サデーク・ホテル」へと突き当たる。門をくぐりフロントへ向かった。古びたカウンターの中には、前回 (2009年の5月) 訪れた時にいた受付の女の人が座っていた。にっこりと笑顔で迎えてくれる。あまりにもこっちを見てるもんだから何だろうなと思っていると、
「あなた、前にもここへ来た事あるよね?」と尋ねてきた。
僕の事を覚えてくれていた。
「うん、去年の5月に来たよ。」と答えると、「ああ、やっぱり!」と大きな声。
思い出そうとしていた記憶と合致したようで喜んでいた。

まだこないだここへ来た時からは1年も経ってないけれど、覚えていてくれた事にまず驚き僕も嬉しくなる。サデーク、やっぱりいいね!来てよかった。空いている部屋へと案内してもらい、荷を解いたあとベッドに埋もれた。そして、そのまますぅっと寝てしまう。どれくらい寝ただろうか?身体が少し冷えてきたので目が覚めた。カーテンから覗く窓外の光はオレンジ色になっている。時計を見ると、16時半になっていた。半眠りの身体を起こす為、シャワーを浴びる。火傷しそうな程の熱いお湯が出て、一気に目が覚めた。バスタオルを巻きながら身体の予熱がとれるまで、天井に取付けられた大きなファンの回る部屋でぼんやりと過ごし、ここへ到着するまでの道のりを順を追ってたどる。あたりが暗くなった頃にようやく食事へと出かける事にした。

0102R0093668.jpg
夜のサデーク・ホテル


*)MAI LINH CORPORATION
-MAI LINH Express in Ho Chi Minh-
400A Le Hong Phong, P.1, Q10 (tel. 08-39-29-2929)
http://www.mailinh.vn/

■ サデークからヴィンロンへ
R0094688.jpg
通路まで荷物がぎっしりと詰め込まれた満席の車内は熱気ムンムン。

サデーク・ホテルのフロントでヴィンロンへの行き方を尋ねると「CHO SA DEC」前を走る道路 (QL80) のバスの停留所にバスがやって来る、と予想通りの答えで「それだけ?他にはないの?」と返すと「んー」とフロントの女性は首をかしげる。これ以上はわからないようなので、ひとまず荷物を担いでQL80までを歩く。

CHO SA DEC前のQL80へたどり着き、ヴィンロン方面へ向うバスを待つ。QL80前ではホーチミン行きや反対方面のロンスェン、チャウドック行きのバスは頻繁に走っている。はずだけども、いざ待ちかまえると望む行き先のバスはなかなか現れないもんだ。

10分ほど経つと何台かのバスが連続してやって来るが、満席の為、目の前で風をきって通り過ぎてしまう。こうやって道路前でモタついていると親切な地元のおっさんが「どこ行きたいんだ?」と声をかけてきて、「ヴィンロンなんだけど」と言うと、次に現れたバスをささっと止め、「おーい、ヴィンロンまで一人!」と半ば強制的にバスに押し込む。

バスの昇降口にいた助手に値段を聞くと、7万ドンだと言う。おそらく彼はHCMまでの値段を言ったのだろう。「そんなにするわけないやろ!(しかも途中乗車やし)」「ヴィンロンまでいくら?サデークのバスターミナルでは1万ドンだったけど。*」と少々値段のやりとりが続き、最終的には運転手の一声で15,000ドンに落ち着いた。

*サデークのバスターミナル (Ben Xe Sa Dec)
http://tavola-world.seesaa.net/article/141507010.html

しかも、このバスはホーチミン行きなのでヴィンロンには行かない(ハズ)。まさか、ヴィンロンを経由してホーチミンへ行くなんて事は考えられないので、きっと途中で降ろされるんだろうなと思っていたら、、やっぱり降ろされた、見事に。。他にも4人がここでバスを降りていた。この地点はティエン (メコン) 川に架かる大きなミートゥアン橋 (Cau My Thuan) のふもとで、ホーチミンとヴィンロンの分岐点になっている。東にある橋を渡ればホーチミン、そのまま南方向に直進すればヴィンロンへと続く。

そんな場所だから、道路脇にはバスからこぼれ落ちてくる客を待つセーオム (バイクタクシー) の溜まり場がある。で、また面倒な交渉をはじめるハメになった。セーオム・ドオライバーの自己アピールと言い値がバシバシ飛び交う中、引き返してサデークのバスターミナルから乗り直そうかなと思っていると、幸いにも英語の通じるおっさんが現れて、ここの位置がどんなもんかを教えてくれた。

「一度、サデークまで引き返そうかと思ってるんだけど。」と言う僕に、「アホかお前は!ここからサデークまでは20km、ヴィンロンまでは10km。ここでバイクに乗っていくのが一番だ。ヴィンロンまではそのセーオムで3ドル、ドンなら4万ドンだ。安いもんだろ。」と言ってさっさと去ってしまった。

こんな事なら、素直にバスターミナルへ行ってバスに乗れば良かったと後悔しつつ、セーオムの兄ちゃんにヴィンロンまでを頼んだ。「飛ばさなくていいから安全に行ってくれ」と付け加えて荷物を乗せ、後ろの座席に座る。約20分程を走りヴィンロンへと到着した。時刻は13時20分、これから一番暑くなる時間帯だ。宿は即決で決める事にする。

R0094696.jpg

R0094695.jpg
Phung Houngの屋上から眺めたヴィンロンの街。

■ ヴィンロン着、そして宿探し
サデークでホーチミン行きのバスに乗り国道80号線 (QL80) を南東に走り約20分程を走ると、ホーチミン方面とヴィンロン方面の分岐点になっているティエン (メコン) 川に架かる大きなミートゥアン橋 (Cau My Thuan) が見えてくる。ここでバスを降り、セーオム (バイクタクシー) に乗り換えて国道1号線 (QL1) を走ってヴィンロンへと向う。約20分程を走り、13時20分ヴィンロンのフンヴォン通りでバイクを停めてもらった。(*ミートゥアン橋からヴィンロンまでセーオムで40,000ドン。)

ちょうど太陽の陽射しが厳しくなる時間帯だ。ヴィンロンに長居するつもりはなく翌日にはソックチャンへ行く予定なので、宿は横になれるベッドさえあればいい。フンヴォン通りに並ぶ宿のひとつをあたった。「Phung Houng」という宿で、ファンの部屋が10万ドン。ほぼ垂直に近い段差の狭い階段を昇り、屋上にある離れのような部屋に案内される。立て付けの悪いアルミの扉がきちんと閉まるのかは不安だったが、部屋はきれいだったので即決した。直射日光が当たるので部屋の中はまるでサウナのよう。

荷を降ろしベッドに横たわる。サデークの市場で買ったシャカトウがちょうどいい具合に熟していたので外皮をぼろりとはぎ取り頬張った。シャカトウは、スポンジケーキを蜂蜜にひたしたような食感の果物で市場で見かけるとついつい買ってしまう。脳にひたひたと甘味が染み込んで来たので少しばかり眠りについた。

シャカトウ / マンカウ
http://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/menu_sweetsop.html


越南 | 胡志明市(西貢・柴棍)- 沙瀝 - 永隆 (永隆省)
ベトナム、ホーチミン(サイゴン)からサデーク、そしてヴィンロン (ビンロン)へ
Ho Chi Minh to Sa Dec, Vinh Long, Vietnam
Route map-2010.jpg
posted by J at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Transport | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする