2013年08月31日

「海の向こうで戦争が始まる」村上龍

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「愛と幻想のファシズム(1983年12月から連載が始まり、後に書籍化)」をきっかけに、少し遡って村上龍の初期の作品をいくつか読むようになった。「海の向こうで戦争が始まる」は1977年に発表された作品で、デビュー作「限りなく透明に近いブルー」に続く第2作目。彼の最高傑作と言われている「コインロッカー・ベイビーズ(1980)」のひとつ前に書かれたもの。
もう単純に「カッコイイ」、そのひとことに尽きる。"ザ・村上龍" のイメージが十分に味わえる一冊だった。ヒリヒリと痛くなるような、感性むき出しの文章で埋めつくされているのが魅力的だった。ナイーブさの裏返しだと思わせる、この研ぎ澄まされた表現は次作「コインロッカー・ベイビーズ」にも、しっかり引き継がれている。物語を描くというよりは、文章の表現力に挑んでるようなところがあって、「コインロッカー〜」へ到る実験作と思えるような印象を受けた。きれいなのか、ぐちゃぐちゃに溶けているのか、なんだかよくわからないまま、そのぎらぎらと輝く液体の中にすっぽりっと引きずりこまれてしまう、読んでいるとそんな奇妙な感覚に陥る。ローリング・ストーンズの「サタニック・マジェスティーズ(Their Satanic Majesties Request)」を聴いたときにも感じたサイケデリックな感触と似たところがあった。夢の中の世界をそのまま文章に書きおこしたかのように、めまぐるしくストーリーが展開してゆく。その描写は、とても映像的で一文一文が濃いため、読み手の状態がいいときでないと、かなり疲れるかもしれない。変な例えかもしれないが、こってりとした焼肉をたらふく食べたあとのように、胃ではなく"頭"がもたれてくるような感じ。

この小説では、全体的に無国籍かつ夢とも現実ともつかない世界が描かれていて、本を綴じてもその不可思議な世界の残像がしばらくの間残る。具体的にどこのどの場所をイメージして書かれたのかは、まったく想像がつかないがちょっとした断片から、少しだけイメージの源泉が見えてくる。現実世界とのリンクを想像しながら読み直すと、また別の楽しさがある。
冒頭部分、高級ホテルの建つ海辺のリゾート地とその向こうにある巨大なゴミ山が交互に描かれるシーンがあり、二つの対比する世界がとても印象的だった。このゴミ山は、フィリピンのスモーキー・マウンテンを彷彿させるところがあった。ここでの臭気漂う描写は、想像だけではとても描けるものではないと思う。
「ライオンの夢を見るのよ、ライオンがね、昼寝しているの、今のあたし達みたいに、お腹がいっぱいで、動く気がしなくて、インパラのお肉をどっさり食べて眠くてたまらないって顔してるの、そんな夢見るのよ。(P57-58)」というセリフからは、アフリカの地を連想する。巻末に氏の年譜なるものが掲載されていて、それを見ると、この作品を書く前の年に、村上氏はケニア、タンザニアへ旅行に行っていると記されていたので、東部アフリカの沿岸部が舞台になっているのだろうなと思った。


核兵器や生物化学兵器が蔓延する中で暮らす21世紀の住人からすると、「海の向こうで戦争が始まる」なんていうのは想像の中だけであってほしい。
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2013年08月28日

「妹ジョディ・フォスターの秘密」バディ・フォスター&L.ワーグナー

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"Foster Child - A Biography of Jodie Foster"
ジョディの生い立ちにはじまり、母とその恋人(なんと女性)に育てられた奇妙な幼少期、子役時代、女優としての方向性を決定づけたといってもいい「タクシ・ドライバー」にまつわるエピソードとその後の低迷期、そして「羊たちの沈黙」での成功に至るまでの努力と苦労が、近親者(実兄)のまなざしで描かれている。この本には、レーガン大統領暗殺未遂事件のあとジョディ・フォスターと周りの環境がどんな様子だったかが書かれていたので、読んでみたくなった。この事件は、その後のジョディの女優活動にも大きく影響を及ぼしたこともあり、書の中ではひとつのハイライトになっていて全16章中の2章分がこのことで割かれている。

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1981年3月30日、アメリカ合衆国第40代大統領のレーガンが報道陣の前で銃撃を受ける事件が起こった。レーガンは一命を取り留め(*)、結果大統領の暗殺は未遂に終わったが、このとき偶然にも取材用のテレビカメラが回っていた為に、ことの一部始終がしっかりと記録されていて、即時全世界のメディアに配信された。当時、僕はまだ幼かったけれど、トップニュースとして流されたこの恐ろしく生々しい映像をぼんやりとだが覚えている。特にテレビ媒体では、この短い銃撃時の映像が毎日のように繰り返し繰り返し流されていたので、刷りこまれてしまったのかもしれない。いま改めてYou Tubeでこの時の映像を見ても、突然の発砲に驚き逃げ惑う人々の影、現場の混乱した様子は事件当時に見た僕の記憶とほとんど変わらなかった。ブレとフォーカスの合ってない粗い映像がより現場の緊迫感を生んでいる。街中で要人に向け拳銃がぶっ放されるなんて、自分の住んでいた日本ではとうてい考えられない世界なので、漠然とだが外国って怖いんだなと思ったりもした。この大統領暗殺未遂事件の犯行動機に、ハリウッド女優のジョディ・フォスターが間接的に関係していた、という事を知ったのは随分あとになってからだった。

レーガンを撃ったのはジョン・ヒンクリーという男だった。彼は、映画「タクシードライバー」に影響を受け、デニーロ演じる主役の「トラヴィス」と自分自身をダブらせる。さらに、ジョディが演じていたコールガール役の「アイリス」とジョディ本人を重ね合わせ、彼女に対し異常な愛情と妄想を抱くようになる。それは、一般的な観客が映画スターに対する"憧れ"というものをはるかに超えたものだった(この映画の撮影時ジョディはまだ13歳だったけれど、その役どころは相当色っぽく、男を惹きつける"何か"をスクリーンからかもし出していたのは確か。そういえば洋画では、シャルロット・ゲンズブールやジェニファー・コネリー、レオンのナタリー・ポートマンなど、この年頃の少女が -大人びた- 印象的な役を演じていることが多いように思う。"13歳"という年齢は、"少女"というものを完璧なものにする大事な要素なのかもしれない)。
ジョン・ヒンクリーはジョディが大学に入学し寮生活を送るのと前後して、彼女につきまとうようになる(本によると、この男は、ジョディが出演していた映画「カーニー」の撮影現場にまで現れ、その中にこっそりと忍び込もうとしたが警備員に何度も追い返されている)。日ましに行為はエスカレートしていき、ジョディ宛に電話や手紙など一方的に送るも彼女には拒絶されてしまい(それでも二人は何度かは会話をしている)、最終的には、彼女との微々たる接点を失ってしまう。そしてこの後、この男はジョディの気をひくために、アメリカ大統領の暗殺というとてつもない計画を実行にうつしてしまった(当初の目標はレーガンでなく、カーター大統領だった)。一本の映画をきっかけに、妄想癖の強い男は現実世界との境界をなくし、反対に映画で架空の人物を演じた女は、現実世界に高い壁を築かなければいけなくなった。一個人の手には負えない、途方もない影響力を持った映画だったのだなと思う。

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(*) アメリカには20で割り切れる年に当選した大統領は、任期中に死去するという「テクムセの呪い(Tecumseh's curse)」というジンクスがあるそうだ。レーガン大統領の暗殺が未遂に終わったことで、以降このジンクスはなくなったことになる。レーガンは1980年の大統領選で当選し、任期は翌1981年1月20日から1989年1月20日までの8年間。アメリカは歴史の浅い国だといわれているが、それなりに面白い伝説があるんだなと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%A0%E3%82%BB%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84
(ちょっと考えが過ぎるかもしれないが、これまで続いてきた「テクムセの呪い」を守るために、レーガンの暗殺が企てられ、たまたまそこにジョン・ヒンクリーという条件の合う男がいたという見方もできないか? と思ったりもした。)
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良くも悪くも、若き日に演じた「タクシードライバー」のイメージが彼女につきまとい、ようやくそれらを払いのけ、女優としての評価が固まってきたときに、またしても「タクシードライバー」がらみの災難にみまわれたジョディだけれども、彼女のもつ強い意志と明晰な思考で、世間の目・レッテルを見事に払いのけていく。その姿には、演技とは別の輝かしさを感じた。一見、ハリウッドのきらびやかな世界にいるように見えるが、彼女に関してはあまり浮ついたところはなく、-スキャンダラスを売りものにする- 女優たちとは異なった、演ずることに徹しようとする芯の強い姿が見える。成功した子役が一人前の役者になるということは、ハリウッドでも相当難しいのだそうだが、彼女はその試練を乗り越えた数少ない役者のひとりなのだと。

ジョディ・フォスターのデビューは、コパトーンのCMだった、というのは有名な話らしい(僕はこの本ではじめて知った)。当時、子役として活動していた兄バディ・フォスター(この本の著者でもある)が、コパトーンのCMオーディションを受けていたときのこと。ジョディも母に連れられて会場に行っており、兄のオーディション中に、どういうわけか彼女が乱入するハプニングがあった。それが関係者の目にとまり、見事そのオーディションに合格してしまう。結果、兄ではなく彼女の方がコパトーンのCMキャラクターとして採用されてしまった。これが彼女がショービジネスの世界へと足を踏み入れるきっかけとなった。偶然のような、運命のような巡りあわせ。ジョディ(当時3歳)がこのときに出演したコパトーンのCMはとても評判がよかった。そのせいで、アメリカでは長年コパトーンのロゴにもなっている女の子(犬にパンツを脱がされそうになっている有名なやつ)は、ジョディ・フォスターがモデルだったという噂が今だに信じられているのだそう。著者はこの本の中で、あれはジョディが生まれる30年も前からあったものなのに、と半ばのろけ話のように語っている。
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■ Trivia Nation
"Was Jodie Foster the model for the Coppertone Girl?"
http://trivianation.blogspot.jp/2009/04/was-jodie-foster-model-for-coppertone.html

■ Real Florida: Red-faced with the Coppertone Girl
http://www.sptimes.com/2004/09/05/Floridian/Real_Florida__Red_fac.shtml

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この本で、もうひとつ興味があったのは「羊たちの沈黙」にまつわるエピソードだった。おそらくジョディ・フォスターの代表作といえば、必ずこの作品が挙げられるほど、彼女の持つ知性的なイメージとぴったり重なった映画だと思う。ジョディは、いわゆるマッチョな映画(ハリウッドの代名詞ともいえるけれど)が嫌いで、まともな映画と女性側に立った新しいヒロイン像を求めていた(これは、この時代のアメリカ社会を代弁する流れだったのかもしれない)。「羊たちの沈黙」はそんな彼女の構想に合うもので、彼女は原作者トマス・ハリスから権利を買おうと準備をしているところだった。この作品に対してかなりの思い入れがあった様子が伺える。しかし、すでにジョナサン・デミに先を越されていて、その権利は彼の手の中にあった。しかも、ジョディが最も演じたいと思っていたクラリスの役は、別の女優ミシェル・ファイファーにということが決まっていた。ここで彼女に幸運が訪れ、ミシェルはギャラの件でもめてこの話を降りてしまった。すかさず、ジョディはジョナサン・デミの元に飛んで行き直談判、執念でクラリスの役を自分のものにした。
もし、ジョディが先に「羊たちの沈黙」の権利を買っていたら、どんな仕上がりになっていたのかは興味あるところだけれども、結果からすると、ジョナサン・デミの監督でよかったのだと思う。ジョディ・フォスターによる監督業は、このときはまだ未知数だったのでどことなく不安がある。クラリス役に関しては、やはりジョディでなければ務まってなかったように思う。撮影中のジョディとジョナサン・デミの衝突は相当なものだったようで、そのあたりの様子がなかなか面白かった。
これまでに、彼女の出演した映画を見たり、雑誌のインタビューなどから、僕なりの断片的な「ジョディ・フォスター」像があったが、そのイメージはこの本でより詳しく語られている彼女の姿とそう違わないものだった。彼女は演技そのもので、自身を表現し、観た人にそれを伝えることができていたんだなと改めて関心もした。
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2013年08月21日

「おとなの味」平松洋子

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アジアの食文化を中心にした本を数多く出されている、平松洋子さんのエッセイ集「おとなの味」。ここに収められているエッセイには、「もうしわけない味」や「獣の味」、「腑に落ちる味」や「消える味」といったように、各章全てのタイトルに「〜の味」という名が付いていて、本を読み終える頃にはすっかりと「おとなの味」というものがどういうものなのか、わかったような気になってしまう。

平松さんの文章には、まな板の上でとんとんと野菜を切ってるような楽しい響きがある。言い得て妙な擬音の数々、八百屋の掛け声にも似た男気を感じる簡潔な文体からは彼女の人柄が想像できる。しっかりしているようでかなりのおっちょこちょい、割烹着が似合うとまではいかないけれど、「昭和」がほのかに香るいいおっかさん、そんなイメージが思い浮かぶ。料理や食材を文章で表現するのはとても難しいはずなんだけれど、平松さんの場合それがすごく自然で、読んでいる方もスッとなじむ。言葉を使って何か料理を一品仕上げてしまうんじゃないかと思えるようなマジック。塩加減、火加減ではないけれど、文章の味付けが、まるで調理しているときの手つきと同じように、いい塩梅でぴたりと押さえられている。またその適度さが、このエッセイのボリュームとよく合っている。そんなわけで、とても読みやすい一冊だった。


"ぼんやりした味"の章では、茶碗蒸しについての話が中心になっている。
「冷えこむ冬の朝、熱々の卵蒸しをおおきなさじですくって取り分け、木のスプーンで口の中に運び入れる。やさしい、やさしい味わい。おかあさんの腕の中で抱っこされているみたいな安心に包まれる。そこに見つかるのは、遠い時間のなかへゆっくり回帰していくような安堵である。(P59より)」

なんて表現があって素敵だなと思った。茶碗蒸しもそうだけれど、オムレツ、卵焼き、スクランブルエッグ等々、卵料理はふんわりとしたものが多いなと改めて気づいた。卵は、そのものが温められ、大事に守られて生育していくものだから料理の素材になったときも、その宿命というか性質のようなものが食感として表れてしまうんだろうか? とも思ったり。

"ずれる味"の章では、ベッドのシーツを剥いで天日干しのシーンからはじまり二転三転したあと、てんぷらへと話が飛ぶ。そこでは、
「てんぷらは揚げものだが、私は蒸しものの一種だと言いたい。衣をまとわせ、熱い油のなかへ静かに放つ。たちまちふつふつ沸き立つ細かな気泡は、いわば素材が放つ蒸気。魚の、野菜の水分をどのあたりまで抜くか、生かすか。これがてんぷらの勝負どころだ。(P62より)」

と、平松さん独特の料理哲学のようなものが垣間見られ、たしかにそうだなぁ。と説得力がある。

"水の味"の章は、水の硬度と料理法について書かれていてなかなか興味深い。ミネラル・ウォーターを飲む場合に水の硬度を気にすることはあっても、毎日の炊事のときにそれを気にすることはほとんどないと思う。地域・国によって多種多様な大地の恵と、そこに流れている水との関係性については深くうなずけるものがあった。
「関東の水で炊いた米は粒が立って硬めやから、がちがち食べんといかん。ところが京都の水はにやにやっとした炊き上がり。やわらこうてもちっとしてる。関東の水は硬度が高く、京都の水は軟水だからやね」
「その土地でとれるものには、その土地の水が一番やと思う。宇治茶を関東の水で淹れれば、渋くなる。逆に静岡のお茶を京都の水で淹れると、味が薄い。(中略)また、関東のパラッとしたごはんだからこそ、空気をふんわり含ませて握る江戸前の鮨が生まれ、いっぽう大阪では押してこしらえる棒寿司ができた」
(P197 - 199より)

と、京料理「菊乃井」主人・村田さんとの会話からも、水に対する論が導きだされている。
にしても、はたして水質の違いによるごはんの炊き上がりの違いがわかるほど繊細な舌をもった人が、(一般の人の中に)どれほどいるんだろうか? なんて思ったりもし(世界一のソムリエの称号に輝いた田崎真也さん曰く、どんな優秀なソムリエでもブラインド・テイスティングでワインの銘柄やヴィンテージを言い当てることはほぼ不可能で、ワインの特徴をつかむことで精一杯なのだとか)。だからこそよけいに、日々感覚を研ぎ澄まし、料理の腕を磨いている職人たちの味覚が際立ってみえた。


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2013年08月13日

「ビッグ・サーの南軍将軍」リチャード・ブローティガン、より


わたしは冷たいマティーニを口に入れて、それが体温とおなじ温かさになるのを待つ。なつかしの華氏98.6度 - この世の現実との唯一の絆だ。もっとも、口にふくんだマティーニが現実となんらかの関係があるとしてのことだけれど。
(P115より)


夜は冷えびえとして、星たちは液体のように透明だった。トゥインクル、トゥインクル、リトル・マティーニ・スター。
(P156より)


なんだこのカッコよさは!
と感嘆符付き(5つはつけたい)で思わず叫んでしまいそうなくらい、最高にカッコイイ小説だった。帰り道、いつものように本屋に立ち寄り、棚に並ぶ背表紙をぼんやりと眺めていたところ、奇妙なタイトルが目にとまり反射的に手が伸びた。「ビッグ・サーの南軍将軍」 BY リチャード・ブローティガン。初めて聞く作家の名前、名の響きからなんだか屈強な人物像(プロレスラーのような)が思い浮かんだ。ビッグ・サーって何? 南軍将軍って、南北戦争の話? と改めて表紙を見直し、そこに写っている胡散臭い風貌の男に目をやった。立派な口ひげをたくわえ、大きなブリキのポストに腕をかけている。フランク・ザッパやモンティ・パイソンと同じ種類の臭いを感じとった。一体何ものなんだろう? なんて思いながら、パラパラとページをめくっているうちに、彼の描く不思議な世界に魅了されてしまった。なんの先入観もなく、ただ適当に広げたページの中、目にとまった文章には強い磁力があった。勢いで他、彼の著「アメリカの鱒釣り」「西瓜糖の日々」を合わせて買った。
カバー裏の略歴を見ると、1956年、ブローティガンはケルアックやギンズバーグらビート・ジェネレーションの集まるサンフランシスコに行くも、彼らとは一線を画し、詩などの創作を静かに続ける。そして、1967年に「アメリカの鱒釣り」を発表するやいなや、一躍カウンターカルチャーのイコン的な存在となったのだそう。


この「ビッグ・サーの南軍将軍」という小説は、一章一章が短く、詩の延長にあるような文体は、リズムが良くて、すらすらと流れるように読める(町田康さんの「くっすん大黒」にも通じる音楽的な文章でもあり)。リー・メロンを巡る突拍子もない物語で、話の筋は一応あるのだけれど、ストーリーうんぬんはあまり大事なことではなく、それよりも言葉と言葉の間から生まれ、広がってゆくイマジネーションを楽しむというのが、一番合っているように思った。読んでいるときは、脳にびんびんと刺激が走っているのが分かる。頭の中で小さなスパークが無数に起こって、ぱちぱちとソーダがはじけているような気持ちよさがあった。読後には浮遊感が残り心地いい。なんだかちょっぴりサイケデリック。言語中枢が完全にシビレて、視覚にまで影響を及ぼしている感じだ。さらに原文は英語なの?と思うほど(藤本和子さんの)日本語訳が自然で素敵。邦訳で読むかぎりは簡潔な文章だし、難しい単語もなさそうなので、英語力のない僕でも原文で読めそうな感じがした。きっと英語独特の言い回しや、韻を踏んだ言葉などがたくさん詰め込まれていそうな気配があり、読み込むほどに味わいが増していきそう。
そしてふと、この小説の構成は、村上春樹さんのデビュー作「風の歌を聴け」と似ているなぁと思ったら、その逆で、村上さんが「風の歌を〜」を発表したときに、ブローティガンに似ていると言われていたのだそう。「村上春樹 - wiki」を見てみると、影響を受けた作家の中にブローティガンの名があがっていたので改めてビックリした。村上さんといえば、フィッツジェラルドやカポーティについて語っていることが多いので、彼のフェイバリッツの中に、このブローティガンがいたなんて全く見落としていた。気づいていれば、もっと早くに出会えていたのかもしれない。
以前に読んだ村上さんのインタビューか何かのエッセイによると、「風の歌を聴け」は氏がジャズ喫茶を経営しているときに執筆していたもので、店の終わったあとキッチンで少しづつ物語を書いていたため、必然的にあのようなぶつ切りの文章スタイルになったのだと語っていた。幅広く海外文学を読み精通していたところに、必要は発明の母的な状況が重なって、あの"春樹スタイル"が形作られたのかなと思うと興味深い。そういえば、村上さんの小説によくスパゲッティが出てくるように、ブローティガンの小説にはワインがよく出てくる。きっと、この人は相当な飲兵衛だったんだろうな。

すると、リー・メロンがいった「1ドル15セントで4ポンドのマスカット・ワインが買えるところを知っているぜ」 わたしたちはそこへ行った。(〜中略〜)キャンティやジンファンデルやブルゴーニュ・ワインの匂いのする樽から暗闇が生まれるのだ、とわたしは思う。
(P31-32より)


この本は、僕にとって今夏のちょっとした事件だった。まだまだ知らないことが沢山あるんだなと。

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2013年07月22日

「神々の食」池澤夏樹(写真・垂見健吾)

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この本は、南西諸島の空の上を飛ぶ日本トランスオーシャン航空(旧南西航空。二〇〇二年にJAL系列の航空会社になった)の機内誌「コーラルウェイ」に連載されていた同題のコラムをまとめたもので、二〇〇三年に単行本、二〇〇六年に文庫本化された(何でも、このコラムは沖縄好きにはたまらないものだったらしい)。著者、池澤さんは沖縄という土地に魅せられ、幾度も通っているうちに移住してしまった。それがちょうど、この連載のはじまったのとほぼ同じ時期だったのだそう。だからなのか、池澤さんはすっかり現地のひとの目線になって、この地の食文化について書いている。それはとても暖かく、沖縄に対する愛情から生まれてきてるんだなというのが、読んでいてよく伝わってくる。

文庫版ではひとつの題材が二見開き、計四ページに割り振られ、池澤さんの軽やかでさっぱりとした文章が三ページ(約一八〇〇文字)、その合間に垂水さんの洗練された写真が一ページ挿まれている、という構成(機内誌の一ページを飾るだけあって、美しい写真が多い)。全部で三十五の食べ物にまつわる話が詰まっている。発表されてから十年以上も経つっているのに、今読んでも古さを感じさせることない。品のある文章と、それを引き立てる味わいある写真で二重に楽しめた。密度ある内容なので一気に読めてしまう。全てにおいて共通しているのは、「沖縄の食」について書かれたものではあるけれど、単に食材の味を評したものではなく、それらがどういった人たちの手で作られているか、だったり、たずさわっている人たちの生活や生き様に関心が向けられているところ。そんなまなざしが、ひとつひとつの題材に、より奥深さを与えているんじゃないかと感じた。

三十五ある章は、どれも沖縄ならではの食べ物でユニークだ。本州の食文化とは全く違う「アジア」を感じさせるものが多い。イラブー(海へび)、ヤギ鍋、豆腐よう、黒紫米(インディカ米)など、中国南西部の広州やベトナムなど大陸の影響を受けたものが並ぶ。中でも特に興味を引いたものは、「橘餅(きっぱん)」というお菓子と「ソテツの味噌」だった。
橘餅(きっぱん)というのは、カーブチーやクニブー(九年母 / くねんぼ)といった柑橘類と白砂糖、そして少しの水だけで作る伝統的な菓子のこと。出来上がるまでに丸五日を要し、非常に手間のかかるものなのだそう。簡単に言ってしまえば、柑橘系果物を、ジャムより、もう少し煮詰め成型したもの、といった感じだ。読んでいると、口の中がすっかりよだれで溢れてしまっていた。
ソテツ味噌は、文字通りソテツ(の実)から作られる味噌で、ソテツが食用になる! という驚きと、その未知なる味に想像が膨らむ。ソテツは救荒作物として需要があるくらいで、食に困窮したときに飢えをしのぐための悲しい食材。それが、昔のように、食に不自由する時代でもなくなってきた現在でも、食されているというのは、よっぽどクセなる味なんだろうかとも思ってみたり。それは、この植物の実を人の口に合うまでにいたる面倒な工程を知るとより強く思う。ソテツの実は有毒なため、食用にするには手間ひまがかかるのだそう。実を割ったあとは四十日ほど乾燥させ、そのあと一週間ほど水を入れ替えながらアクを抜かなければならない。さらに、それを乾燥させ、粉状にしたあと、ようやく加工原料となる。ちょっと、どんぐりの食べ方と似ているなぁと思った。ソテツ味噌にするには、ここからがスタートで、ソテツの粉末と米で麹を作り、この麹に大豆と塩を合わせ、発酵と熟成に一年間をかけてようやく仕上がる、という本当に時間のかかるものだった。このように、そのままでは食べれないものを、口にできるまでにする為の知恵と工夫を見ていると、一体どういった経緯でこういう加工技術にたどりついたんだろうと不思議に思える。
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2013年06月10日

Brutus・6/15・最新号

ブルータス「古本屋好き」
http://magazineworld.jp/brutus/756/read/
下北沢北口のすぐそばにあった書店が先月5/26で閉店していて、えらいショックだった。本屋さんというのは、街の安心感の印みたいなものだったんだな、ということに改めて気付いた。去年の6月に下北の名物古書店「幻遊社」さんの閉店を知ったときと同じような悲しさがある。まだ少し救われる(大げさ?)のは、「ほん吉」さん、「古書ビビビ」さん、「B&B」さんといった面白い本屋さんが数軒営業していることで、下北に寄ったときはついついここへ寄り道してしまう。中でも下北タウンホール前にある「ほん吉」にはよく行っている。ここはアート関係の書物も充実していて、いるだけで楽しくなってくる。入口付近にいると「ここの本屋いいの揃えてるんだよ」といって、店の前を通っていく人たちの声も何度か聞こえてきたり。あるときは、それがフランス人だったりして、隣にいた連れの女性に嬉しそうに話していた。えらいマニアックな場所を知っているんだなと僕の方が驚いた。フランス人はこういうところへの嗅覚が自然と身についているんだなと、感心したり。

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バングラデシュの首都ダッカのモティジール地区にある古書通り。

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ここで、ベンガル語の本を買った(何の本かはさっぱりとわからないけれど)。中ページはベンガル語の文字が栗色のインクで刷られていて、すごくきれいだった。
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2013年05月23日

「まだある。」初見健一

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■ まだある。
今でも買える"懐かしの昭和"カタログ 〜生活雑貨編〜

昭和の時代に発売され、今もなおつくり続けられているロングセラー商品、約100点ほどを集めた一冊。主に全盛期?の1960〜1970年にかけての製品が半分以上を占めているが、古くは1900年はじめの頃からある製品ではじまり、年代順に並んでいる。きれいな写真とともに、筆者の思い出やこれらにまつわる体験談とが交互に載っていて、「ああ、そうだったなぁ」なんて懐かしい気持ちになってしまう。この本で初めて知った商品もけっこうあった。これはシリーズ化されていて、駄菓子や玩具編もあるようなのでそっちもまた読んでみたい。


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この本にあるようなレトロ昭和を感じさせるものが家にないかなぁと思って探してみるといくつかあった。
ニードの洗顔料「ぬかっこ」と、「キクロン」のスポンジタワシ(これは掲載されている)。米ぬかが主成分の「ぬかっこ(こういうストレートなネーミングは素敵)」は、肌にもやさしく洗いあがりはすごくさっぱりするのでもう十年、二十年?近くこれを使っている。キクロンはほんと万能で便利。粗い面がしっかりしていて、汚れ落ち感がすごくいい。よく見ると「たわしの革命児」っていう仰々しいキャッチコピーが入っていて、頼もしさを感じる。
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2013年02月05日

「奇食珍食」小泉武夫

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醸造、発酵食品の探求者で知られている小泉武夫さんの本。本のタイトルどおり古今東西の奇怪な料理、食べ物について書かれている。見開くと、まず虫の章からはじまる。そして、爬蝶類、両生類、軟体動物、腔腸動物と続いていくが、文字だけを見ても十分に特異さがわかる。中には生き物ではなく灰というカテゴリもあったりして、人間の「食(しいてはは生きるということ)」に対する執念や好奇心を感じずにはいられない。それらを美味く調理するために生み出された知恵や工夫にも感心した。

この本は1987年に出版されていて、もう26年以上も前のものになるが、ここに記されている内容は今読んでも、それほど古さを感じることはなかった。1987年というと、日本のバブル経済のはじまりの時期にあたる。内容が内容なだけになせいか、あまりその当時のバブリーな雰囲気は文面には反映されていないのが不思議に思えた。もしくは、バブル時代だったからこそ、こういった奇妙なものが面白がられたのかもしれない。

本当に奇異さだけを追求して生まれた料理もあれば、その土地の風土や気候から生まれた必然性のあるものまで、さまざまなものが紹介されている。そんな背景を知ると、一見グロテスクにみえる食材も、(読んでいるかぎりでは)すんなりと受け入れられるようになる。インパクトのあったものを挙げると、牛の血を吸って風船のように膨らんだヒルを茹でた「牛血の腸詰」ならぬ「ヒル詰」というものがあった。これはアマゾン川流域のとある部族に伝わる料理だそうだが、ただでさえ気味の悪い「ヒル」に、「牛の血の塊」というエグさが加わって、ダブルパンチを受けるがごとくサッと引いてしまった。変わった魚として、シーラカンスの話も出てきた。ただこれはあまり美味くないらしい。それよりも、何でこの魚を食べようと思ったかの方に興味がいってしまう。

奇食といえばやはり中国が真っ先に思い浮かぶ。この本でも中国の料理が多くを占めていて、「蚊の目玉のスープ」なんてユニークなものもあったりする。いくつかある中では、「果子狸」という狸を使った料理には、ちょっとした知恵が感じられた。狸は雑食性の生き物なので、本来その肉は異臭が強くまずいのだけれども、「果子狸」に使う狸は、果物だけを与えて育てその臭みを消しているという。Fruit Batを彷彿とさせて面白い。他、生まれたてのネズミの赤ちゃんに蜂蜜をつけて、そのまま食べるという残酷なものもある。ネズミはもう見てくれが悪くて、食べる気もしないが、反してその肉は美味しいとのこと。これを読んで、以前ベトナム南部の街・カマウにある市場で、大きなネズミが無数、売られていたのを思い出した。毛羽立った灰色の物体が、三段ほどに積み上げられたかごの中でうごめいていいて、異様な光景だった。最初それを見たときは、ペストを培養しているのかと思って本能的にその場から後ずさりしたが、あれはきっと食用だったのだなと思い直した。ネズミたちを売っていたおばさんの顔色と表情がくすんでていて、ネズミにそっくりだったのがおかしかった。商売が人の顔を作り上げている見事な一例を見た気がした。

灰を使った料理というのも興味深かった。遺体を焼きその灰を食べる風習がまだ世界各地には残っているそうだ。これには驚くが、人間の灰にはカルシウムや鉄分、マグネシウムなどの無機質成分が多く含まれているので、先入観を除けば、遺灰というのは貴重な栄養素として見れるようになるのかもしれない。ガンジス川の成分を調査したら、すんごいミネラル豊富やったりして。灰そのものを食すのもあれば、間接的な使い方でお馴染みの食品になっているものもあって、ピータンやラーメンの麺などがそう。麺にコシを与えるかん水は灰のアルカリ成分を利用したもので、言われてみて気づく。「灰」と聞くと、ひとつ思い出すことがある。アフリカンフォレストのKさんに教えてもらった話で、アフリカのどこかの地(忘れた)では、泥のスープがあるのだそうだ。この泥を食べるという行為(衝動)は、女性に特有の傾向らしく、生理や出産の前後になると身体が鉄分やミネラルを欲して、泥や土(家の壁など)を食べることが多々あるという。それが、いつのまにか料理として成立するようになったのだとか。Kさん曰く、泥のスープはけっこう美味しいらしい。

日本は周囲を海に囲まれていることもあり、海産物の加工に関しては世界に類をみないほど発達している。一方、ユーラシア大陸に渡ると鳥獣の臓物などの保存や加工の歴史が深く、日本では考えられないほどに、ほぼすべての部位が余すことなく利用されている。という海洋国家日本と大陸の大きな食文化の違いがあるそうだ。海外から見て、日本の食習慣で不思議がられていることにも少し触れられている。それは、ごぼうやタケノコ、蓮根、ふき、こんにゃくなど、栄養源としてはほとんど意味をなさない繊維質のものを多く摂取しているということらしい。これらは腸の長い日本人の体質から、自然と取り入れられてきたのだろうけれども、食文化がどんな風に形成されているのかが伺えて興味深かいエピソードだった。どういうわけかこの本を読んでいると、日本語という言語がどんな風にして形作られてきたんだろうという思いがわいてくる(そんなことには触れられてないけれど)。日本語はトルコ語との共通点も多く、隣の中国語とは異なった系統を持っていて、言語的には飛び地にあたっているのだとか。

この本には載っていなかったけれど、珍料理で一度食べてみたいものがある。それは「羊の腸のスープ」というトルコの料理で、藤原新也さんの「全東洋街道」の中で詳しく書かれている。トルコ語ではイシュケンベ・チョルバスという名が付いている。この本を最初に読んでからもう十数年以上たつが、特にこの部分だけを鮮明に記憶している(文庫本では上巻の第二章に掲載)。羊の腸を茹でたあと、細かく刻み大鍋で煮るというシンプルな料理なんだけれども、羊の臓物の臭み、それに腸の中に残っている「糞」の量が味の決め手になっていると書かれている。ラクという、水で割ると白濁する酒(ギリシャのウーゾと同じ)と一緒に食うのがいいらしい。想像すらつかない、その味に好奇心がすごくかき立てられる。

言葉で味わう料理、というのが一番の奇食やったりして。

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2012年12月28日

「憂鬱なハスビーン」朝比奈あすか

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レコードやCDを買うときに、知らないミュージシャンで、どんな曲かはわからないけれどジャケットのデザインがいいからといって買ってしまう「ジャケ買い」なんてのがあったりするけれど、本の場合には(装丁やカバーではなく)そのタイトルで手にとりたくなる「タイトル買い(あるいはタイトル惚れ)」というのが、きっとレコードでいう「ジャケ買い」に相当するのだと思う。

ジャケ買いで一番嬉しいのは、音楽も良かったときで、それが想像していた以上のものだったりすると、特賞当たりくじをひいたような爽快感が全身を一気に駆け巡る。これを一度味わってしまうと、けっこう、ヤミツキになってしまう。そして次からは、欲しいレコードを買うよりも、当たったときの快感を求めるようになってしまい、ついついジャケ買いへと手が動く。未知なる期待と好奇心が追い打ちをたてる。こうやって、きわめて健康的なギャンブルの道に足を踏み入れるようになったりして(そのうちに、ジャケを見ただけでだいたいの中身がわかるようになってくる)。学生の頃はあまり自由にお金が使えなかったので、レコード一枚買うのにも、わりと吟味しなければならなかった。結果そのことも、いい音楽にめぐり合えたとき、嬉しさが増幅する一因だった。

何気なく入った書店で、特に目当ての本があるわけでもなく、並んだ本をぼんやりと眺める。パステルカラーの化粧板で囲われた本棚の中には、カラフルで細長い背表紙がぎっしりと収まっている。棚段に沿って、それらを目で追っていると、ときどき視線が止まり、ひっかかってくるものがある。想像力をふくらませるようなタイトル、刺激的なもの、好奇心を引く意味深なもの、等々。そのたびに手にとってページをぱらぱらとめくり、また棚にしまう。作者名・あ、から始まった棚を左から右へ、上から下へと流していく。その中に「憂鬱なハスビーン」というタイトルに素敵な響きを感じ、思わずその字面に吸い寄せられてしまった。ハスビーンって何だろう?えらく気になりながらも、わ行までをきっちりと見終えた。聞きなれない言葉「ハズビーン」が、どうも気になっている。そして、もう一度最初の棚に戻り本を取り出す。軽くページをめくり、読みやすさを確かめたあと、レジへと持っていった。タイトルの良さにあるような魅力的な物語だったら嬉しいなと思いつつ、本をかばんにしまい店を出た。

あらすじ、
進学塾に通い、東大に入学、卒業後は外資系のコンピューター会社にSEとして勤務していた主人公の凛子。次第に大きなプロジェクトをまかされるようになるが、職場での人間関係やちょっとしたつまずきから、キャリアの道から外れていくのを感じていた。そんなときに結婚という、もう一つの道を選び、仕事への未練を半分残しつつ退職する。夫は弁護士で、気のきくやさしい性格、交友関係もいわゆる上流層。社会的な地位、経済力にも恵まれて、周りからはとてもうらやましいカップルに映っているが、本人はどこか釈然としないものがあり、些細なことに日々いらだちを感じている。非の打ち所のない姑との関係や、ついつい肩書きを気をとられる性格、体裁を意識しすぎて自身の殻を敗れないところが、より気持ちの余裕を削いでいる。両家の家庭環境の違い(日本にも階級があることをうっすらと滲ませている)が根底にあることは薄々とは気づいているが、手を伸ばしてつかんだ幸せをそうそうは手放せない。

凛子は退職後、雇用保険を受けるために、ハローワークへ通うところから物語がはじまる。ある日、そこで進学塾で一緒だった同級生の熊沢という男とばったりと出会う。かつて二人は成績優秀で、周囲からの期待もかかっていた。凛子は進学し有名企業に就職するもエリートコースからは外れ、今はハローワーク通い。一方の熊沢も、家庭の事情によって途中から道がはずれ、人生あきらめたかのような生活を送り、同じくハローワークに通っている。お互い、鏡を見ているような今の境遇に何かを感じ取る。熊沢が何気なく言った「Has Been(ハスビーン)って知ってる?一発屋という意味なんだよ」というひと言が、凛子の心に響いた。そして、それがじわじわと彼女の気持ちに染みてくる。

と、特に何か大きな事件がはじまるわけでもなく、弁護士の夫を持つ高学歴な女性が送っている日常のある一幕をすくい取った話が、透明感のあるタッチで描かれている。さらっとした描写が、東京の都市景とも合わさってすごくしっくりとくる。また、今の時代の、今の若い世代の内面がしっかりと映されていて、読後に心地よい余韻が残る印象的な作品だった。ワインで例えるなら、良いメドック産のもの(ポヤックや、ポムロル、サンテミリオンじゃなくて)を飲んだ感じがする。

「憂鬱なハスビーン」というタイトルは、作品内容をほんとよく表していると思った。
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2012年08月05日

「左手首」黒川博行


七作品が収められた密度の濃い短編集で、一気に読めた。七作どれも大阪が舞台になっていて、よく知っている懐かしい場所だったり、地元の近くが出てきたりと読みながらも親近感が沸く。医療産廃の業者や金融詐欺、保険屋などあまり馴染みのない業界や、美人局、違法賭博などの裏社会の中で繰り広げられる物語。思いつきや行き当たりばったりで犯罪に手を染めてしまった人らのどこか間の抜けた(どんくさい)話が物悲しい。でも、(犯罪者となる)登場人物たちを悪だ! と憎めないのは、大阪の人情味を強く感じるから?

表題の「左手首」はこの本の中で一番印象に残った作品だった。ブドウ畑の隅っこで、農家の主婦がハエのたかった左手首を発見したことから話が始まる。少しずつ明らかになっていく犯行の経緯は、まるで、自分がこの事件の犯行をその場で目撃しているかのようなリアルな描写で、物語の中へぐいぐいと引き込まれる。"左手首"という非日常的なアイコンが、脳の中にあざをつくっているような感覚で、浮かんだイメージが読後にも非常に鮮明に残る。冒頭の映像的なシーンから、釣崎清隆さんの「ちぎれた手首」の写真が思い浮かんだ。これは(事故か何かで)アスファルトの上に転がった女性の手首にフラッシュを当て撮った写真で、完全に腕と体からは切り離されているのだけれど、まるでまだ生命があるかのようで、一見、良く出来た彫像作品が路上に置かれているように見える。表紙のカバーはこの写真しかない、と個人的には思うのですが、あまりにもキテるので、絶対ありえないだろうな。

全七作のうち何編かは余韻を漂わせる終わり方ではなく、話が盛り上がってきた途中でぷつん終わっているような感じ(長編の一部抜粋的な)もして、もう少し続きを読みたくなる。全編とおして、どこか「ナニワ金融道」と通じる世界があり、登場するひとたちに「人間の脂臭」を感じる。それぞれの話とは直接関係はないけれども、コールタール(公共事業)や札束、排気ガスの臭いが根底に漂っているような感じだった。
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