2016年01月17日

冬の4冊(お気に入り本シリーズ)

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一昨年あたりから急に、時間の進み方が倍くらいになったような感覚がある。あまり手つかず、たいして物事が進むこともなく過ぎ去っていく日も多い。これまで無制限にあるように思えたのに、少しずつ使い方を分けていかないといけなくなった。「はたして、いま、これをするために自分の時間を使ってもいいんだろうか?」といった風に。自分が何かをするための優先順位の付け方に「時間の使い道」という項目が入り込む。価値観の尺度がお金や、数量、といったものではなく「時間」の単位が少しずつ幅を占めはじめる。これをするのに一時間をかけるなら、もっと別なことにその一時間を割り当てた方がいいだろう、なんて。こうして、やるべき事とやらないでもいい事の間に線を引き、より分ける。Knock, Knock...決して「灰色の男たち」が忍び寄ってきたわけでもない、これは僕の内側の問題。時間が減ることはあっても、増えることはない。いったいどう解決していいものやら、一度アインシュタインに尋ねてみたいんだけど、天国直通の電話番号って何番だっけ? え? 空の上はオフライン? 
さて、この先いったい、どれくらいの本を読むことができるんだろうか? 本というのは知らないことを教えてくれるものでもあるが、一方、時間を吸い取る紙の束でもある。読むべきものをしっかりと見極めないと、なんて思いながら一冊一冊を吟味するようにもなった。もちろん読んでみるまではわからないし、読み終えてしばらくは、その良さがわからない事だってある。手助けになるのは、僕の場合「文体」だ。いい文体のものは、たいてい手応えがあって結果中身もよい。この逆はない。ま、「文体」の善し悪しは個人の好みに大きく左右されるので、なにがいいのかなんていうことはできないのだけれど。


「入門 経済思想史・世俗の思想家たち」ロバート・L・ハイルブローナー(ちくま学芸文庫)
経済学者あるいは思想家・哲学者たちの理論や思想が、どういうふうに社会に作用し、また変革をもたらしたのか、歴史を振り返りながら読み説いてゆく。といった内容。イギリスの穀物法とフランス革命、そしてアイルランドのじゃがいも飢饉のあたりを調べていたときに知った本。日本版のタイトルには「入門」と付けられているが、この二文字は誤解を招くのでいらないのでは? と思うほど、しっかりと、まぁたしかに分かりやすくは書かれている。特に十八世紀から二十世紀あたりまでの、社会体制・国家体制の土台になる部分が見えおもしろい。今の時代、ネットインフラがどういう形で、既存の経済のシステムを壊し(改変し)、国家等の共同体を変化させてゆくのかを先読むのに参考になる。人の行動というか、根元的な欲求はそう変わらないだろうから、ここ数世紀の間に起こった緩やかな世界の流れを身につけるにはとてもいい。


「コロンブスの犬」管 啓次郎 (河出文庫)
なんともユーモラスなタイトル。これぞ、言葉のパラDOGsな感じで本の名前は特に印象に残る。はじめは軽い旅行記エッセイかなと思って読み始めた。ところが、この本すごく深い。読者は、旅について、あるいは旅から派生した出来事などを語る著者の思考の中に入り込み、今度はそこから続く読者それぞれの旅が始まる。という感じになってゆく。読んでいるあいだにも、思考というかヴィジョンがあちこちにはじけるようで、すごく気持ちがいい。疾走感というよりも、「風」。沢木耕太郎の「深夜特急」のような生真面目さでもないし、藤原新也の「インド放浪」や「チベット放浪」のような重量感でもない。いい意味でほんと軽い、いや軽やかだ。海でひと泳ぎし、砂浜の涼みに入ってごろんと寝ころんだときのような至福感。そういったものに近い味わい。アジアの陰影でもなく、ヨーロッパの歴史を引き受けたものでもなく、アメリカの無味乾燥としたものでもないし、アフリカの純朴さでもない。南米の持つイリュージョンというか、光を浴びすぎて肉体に重力がなくなるような不思議な感覚が、言葉にも表れ作用しているように思える。テグジュペリの「人間の土地」と近い感触のある −読むたびに、そして自分の成長と重ねる度に受け取る意味がきっと変わってくるのだろう− 旅の記録。とても素敵な一冊。これは数ある旅本で一番好きな本になった。近いうちに、「旅」「写真」とを絡め、この本について少し書いてみたい。
本の中に、いい言葉がたくさんあるのでいくつか紹介。

 もしも<ヨーロッパ>がなかったら、この世界はどんなものだっただろう? この設問も古いものだ。地球はずっと平和でしあわせだった、かもしれない。
「コロンブスの犬」より (23章 p102 / 河出文庫)


 外国語において、誰もが若返る。老人もこどもになり、商社員も中学生になる。<若返りの泉>がほんとうにあるとしたら、それは母国語のつうじない土地だけにあるはずだ。
「コロンブスの犬」より (46章 p179 / 河出文庫)

他言語を覚えるときは、子供の時に戻ったかのように、一から単語を覚えていかなければならない。たどたどしく発音し、文法や変化の法則などを学んでゆく。ロシア語を学びはじめたばかりの日本の大学生は、ロシアの子供とほぼ同じ。著者はそこに時間軸を絡め、成長の縦軸横軸としてつなげている訳だけど、こういう発想は旅をしているときにふと感じるものなんだよなと。旅先で出会い感じたことに対し、いかに考え、そして自分自身に問いかけているのかがわかる文章だった。


「神秘学概論」ルドルフ・シュタイナー(ちくま学芸文庫)
一歩間違えば、というよりももうすでにというべきなんだろうか、オカルトっぽい素養が少しどころか多分にあるように思えてしまう。おお、確かにそうだ。なんて相づちを打っていると、途中どこかでポイントが切り替わって不可思議な世界へ飛んでいくんで、正直よくわからないところもある。この本を読もうと思ったのは、シュタイナーの思想論に興味があるからではなくて、霊や魂・自我・意識等、これら形のないモノ、そして存在・証明することの非常に難しい事象・事柄をどうやって言葉で表現しているのか、というところだった。宇宙の持つ、あるいは地球上に存在する生命すべてにつながる「(大きなひとつの)意志」のようなものは確かにあるようには思えるけれど、そういったものの放つ信号を人が受け取り、感覚器のどこかでちゃんと理解しているんだろうか等、いろいろと考えてしまった。表層的なものではなく、ヨーロッパのひとつの極だから、そういう点でも興味のあるところ。


「見るまえに跳べ」大江健三郎(新潮文庫)
いつかは読まなければと思いつつ、なかなか興味が向かず、読む機会のなかった大江健三郎。今回が初。「万延元年のフットボール」は一度トライしたのだけれど、けっこう密な文章にページが進まずあきらめてしまったが、この短編集は、そのイメージが取れるほどすごく読みやすいものだった。テーマと文体が合っているというか、骨と肉付きのバランスがすごくいい、血の通った文章。金子光晴や中上健次と通じる動物臭がある。

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2015年12月02日

集英社文庫ヘリテージシリーズのカフカ



新宿紀伊国屋さんのレジ前に、見慣れないカフカの文庫があったので気になった。しかもすごくぶ厚い。こんなの出てたっけ? と手にとり、はじめて見る表紙カバーのデザインフォーマットに興味がいく。「集英社文庫ヘリテージシリーズ」という海外文学モノの新しいシリーズらしく、第一弾がカフカ(ポケットマスターピース 01)だった。「火夫」「流刑地にて」「訴訟」なんかの名タイトルが入っていてけっこうお得さがある。昔は箱入に入った「世界文学全集」みたいなもの(本棚に飾っておくのが目的な感じ)がたくさん出されていたみたいだけど、今は文庫というスタイルが合っているのかも。バルザックや柴田さん編のマーク・トウェインがこれから出るみたいで楽しみ。フォークナーで絶版になってるやつとかも出して欲しいな。熊とか。
光文社古典新訳で「書記バートルビー」が出てたのにはビックリした。


集英社文庫ヘリテージシリーズ
http://www.shueisha.co.jp/pocketmasterpieces/


・個人のツィートにオフィシャルが絡む時代なんだなと、ネット時代の不思議な構図。



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2015年11月09日

「十八世紀パリ生活誌」メルシエ



 パリの泥は、絶え間なく振動する無数の車から絶えず剥落してくる鉄の分子を含んでいるので、当然のことながら黒い色をしている。それに台所から水が流れ込むので、臭くなっている。パリの泥は、外国人には我慢できないほどの悪臭がするが、それは泥にしみこんでいる多量の硫黄や硝石塩が原因であり、泥のしみがつくと、布地は腐蝕してしまう。
(街灯 / p124)


 ほとんどすべての教会の中で、死体の臭気がする。そのため多くの人々が遠ざかって、もはや教会に足を踏み入れようとしない。

 さらにもっと信じがたいことだが、若い外科医たちが、解剖の練習のために死体を盗み出したり、買い取ったりするが、その死体がずたずたに切り刻まれて、便所の穴に投げ捨てられることもよくあることだ。

(腐った空気 / p128 - 129)


 パリでは人々は貧乏であればあるほど、ますますたくさんの犬、猫、鳥等々を飼って、狭い部屋の中でいっしょに暮している。そういう動物の臭いが、入る前から臭ってくる。大部分の人々は、警察の禁令にもかかわらず、むさ苦しい住居の中でたくさんの兎を育て、道端で拾い集めてきたキャベツの葉っぱで養っている。あとでその兎を食べるのだが、この食物のために彼は顔色が青ざめ、黄ばんでしまう。彼らは悪臭を放つ種族と暮し、それを食卓にのせようと、わざわざ増やしている。
(閉じこめられた動物 / p140)


 畜殺場は、市外や町はずれにあるのではなく、中心部にある。血が街路を流れ、君の足元で固まり、君の靴は朱(あけ)に染まる。通りがかりにとつぜん、憐れみを乞うような牛の鳴き声にどきりとする。
(畜殺場 / p142)


 ぶどう酒とおなじように、牛乳も混ぜ物をされる。水で薄めるのである。村の女も、公衆の信頼を裏切ることにかけては、都会の女と変りがないようだ。
 税金と混ぜ物のために、民衆が何を飲んだらいいのか分らなくなり、コーヒーが異常に好まれるようになってからというもの、この牛乳の消費は厖大なものになった。

(牛乳売りの女 / p236 - 237)



「十八世紀パリ生活誌 ―タブロー・ド・パリ―(上)」メルシエ著(原宏・編訳)、より
岩波文庫
"Le Tableau de Paris" by Louis-Sébastien Mercier
https://fr.wikipedia.org/wiki/Tableau_de_Paris




十八世紀後半のパリの様子を描いた本ですごくおもしろかった。フランス人ならではのユーモアや皮肉を織り交ぜつつも、きわめて冷静な観察眼で書かれていているせいか、ふっと当時の街角にまぎれこんでいるような錯覚にもなる。
この本は1781年に刊行されると瞬く間に大人気となって、すぐに続編が出され1788年までに全12巻が刊行されたのだそう。当時でいうベストセラー・シリーズだった模様。フランス革命が起こる直前の時期だけに、この時代のフランスや大衆がどんな雰囲気だったのかがわかる資料としてもとてもいい。全12巻1,052章ある中から219章を抜粋した約1/5が、この岩波文庫の上下巻に収められている。どの章も、いいことはほとんど書いておらず、ただひたすらネガティヴな眼差しの記述ばかりなのに人気があったというのはどういうことなんだろう? よっぽどパリジャンは自虐的なことに喜びを感じるんだろうか。きっとこの本に書かれていることが事実であり、真を突いていたからこそ支持を得て、一種のガス抜きになっていたんだろうな。革命が沸きおこる素地はすでに(批評精神を持つ)民衆の中に潜んでいた、という証明になっているようにも思える。

下巻のコンディションが悪かったので、今度新品で買おうと、状態がましだった上巻だけを買ったのだけど、うちに戻ってから調べてみると今は上下巻とも絶版になっていた。地味に売れてそうな感じがしたのに残念、Wantリストがまた増えてしまった。本の読み方は人それぞれだけど、扱い方って性格出るよな、と思う。ビブリア古書堂の栞子さんじゃないが、目の前にある古本をみて前所有者を漠然とだけど想像してみたり。人の手をいくつか経たものにはやっぱり小さな歴史がほんのちょこっとだけ刻まれるんだな。

それにしても、この時代のパリの劣悪さは尋常じゃないと思わせるエピソードばかり、現在の中国ともそう変わらないなと、まぁ人間の生活なんてそう違いはないのかもしれない。経済や技術の発展ともに順繰りに文明化していってるということになるんだろうか。日本では江戸時代の中期から後期にかけての時期にあたり、元号では天明、第十代将軍の徳川家治が治めていた。といっても、歴代将軍の中でもさほど有名ではないからあまりピンとこないが、田沼意次が実質幕府を主導していたあたりと聞けば、なんとなくこの時代の日本がどうだったのかも思い出せそう。たしか江戸の街は世界的にみても清潔で、進んでいたんだったかな。三浦哲郎が「おろおろ草紙」の中で、天明の大飢饉の東北地方の悲惨な様子を描いていたのを思い出した。
現代に少し飛ぶと、日本は1980年代以降から、国営企業が民営化していく過程で、サービスがどんどんよくなっていった(過剰なほどに)。必要なものはほぼ全ての家庭に行き渡り、製品を作れば売れるという時代ではなくなってきた。消費者の声が少しづつ反映され力を持つようになる。基本的な機能・性能のほかにデザインやサービスといった付加価値が求められるようになった。それもあってか鉄道会社はじめ大企業の姿勢に気持ち悪いほどの"媚び"が目立ち、昔あった横柄な面影がまったく影を薄め、こういった傾向がしばらくの間続くと、わりとその時代を経た大人も皆すっかり、そういった過去を忘れている風でもある。子供のときは国鉄(JR)とか乗るのがほんと怖かった。駅員も乗客も、駅や建物なんかも鈍重でどこかくすんでいて、心に迫る圧迫感のようなものが漂っていた。不快さやイヤだなと子供ながらに感じていたことが多かったけれども、時間を経ると以外とそういったものの方を良く覚えていたり、懐かしさを覚えたり、人の記憶って不思議なものだ。


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2015年11月01日

青空文庫の、ラヴクラフト作品が増えていた!


H. P. ラヴクラフト - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1699.html

そんな頻繁にサイトを見ているわけじゃないけれど、そういえば、 ラヴクラフトの短編がひとつ青空文庫で訳されていたなぁと思い出し、「もしかして新たに訳されているかも」なんて若干の期待をしつつ見てみたところ、10月中旬にいくつか更新されていた。現在5タイトル。ネットならではの資料リンクや画像が巻末にあって楽しい。ラヴクラフトの小説は、妄想の強さとパラノイアックな文体が強烈なため、あんまり長く浸っていられないところがある。短編くらいの文量がちょうどいい。ラヴクラフト(1890 - 1937.March)と夢野久作(1889 - 1936.March)は、生まれ・没年がほぼ同時期の不思議。共に奇怪な物語を書いていたところも、面長な顔も良く似ている。


「時間からの影」 / The Creative CAT 訳
(The Shadow Out of Time)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では3巻に収録。大瀧啓裕訳。


「チャールズ・デクスター・ウォードの事件」 / The Creative CAT 訳
(The Case of Charles Dexter Ward)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では2巻に収録。宇野利泰訳。
短篇というより中篇くらいのボリューム。


「ニャルラトホテプ」 / 大久保ゆう 訳
(NYARLATHOTEP)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では5巻に収録。「ナイアルラトホテップ」大瀧啓裕訳。


「ピックマンのモデル」 / The Creative CAT 訳
(Pickman's Model)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では4巻に収録。大瀧啓裕訳。


「闇をさまようもの」 / The Creative CAT 訳
(The Haunter of the Dark)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では4巻に収録。大瀧啓裕訳。


LibriVox
https://librivox.org/collected-public-domain-works-of-h-p-lovecraft/
原文はこのサイト他、いくつかあり、そこで読める。


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2015年08月09日

レトロなブックカバー vol.2「倉橋由美子短篇集」

Book-倉橋由美子短篇集.jpg

新潮文庫から出ていた倉橋由美子さんの短篇集は、野中ユリさんという作家のフォトコラージュによるカバー・デザインで、これがほんと小説のイメージとぴったり重なり個人的に好きでいる(池澤夏樹「夏の朝の成層圏」のカバーも野中さんの絵)。倉橋さんの論理的な文章、有機的な言葉の表現、そして記号にまで抽象化した登場人物による物語の描き方が、野中さんの作風とうまく合っている。現在は「パルタイ」以外のタイトルは絶版になっていて、その「パルタイ」も新装カバーになっているため(改版され中の文字も大きくなり読みやすくなっている)、旧カバーデザインのものは新品では買えず、古本屋で気長に探すしかなかった。倉橋さんは1960-70年ごろにかけて人気があり、文庫本も幾版かを重ね部数は出ているので、本自体はそう珍しいものではない。いわゆるコレクターの対象ではなく、古本屋をのぞいていればときおり棚に並ぶし、値段も安い部類に入る。たいてい100円から250円ほどである。ただ、やっぱりコンディションのいいものがなかなか見つからない。カバーは綺麗でも中の本が傷んでいたり、本は綺麗だがカバーがしわくちゃだったりと、良い状態のものを目にすることがけっこう稀だった。地道に探すこと幾年か、ようやく四種類揃った。今の時代、ネット検索をすればダイレクトに探すこともできて、もっと早く手に入れることもできるだろうが、僕は本との偶然の出会いも楽しみたいので、できるだけ古本屋に通って見つけるようにしている。
そういえば野中ユリさんカバーによる倉橋さんの文庫シリーズは、何種類くらいあるんだろう? 「暗い旅」があるのは見かけたので知っているくらいで、あとは知らない。「暗い旅」は今、河出文庫から出ているものを持っているから、そう急いで欲しいわけでもなく、いい状態のものが出てくるのをゆっくりと待つ感じでいい。そろそろ全集とかで復刊してほしいな。


●「パルタイ」
●「ヴァージニア」
●「妖女のように」
●「婚約」
カバー / 野中ユリ



■ 文庫で読む倉橋由美子の世界
http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page018.html




Past Logs / 「レトロなブックカバー」シリーズ /


久生十蘭「昆虫図」他 (2014-06-24 14:00)
その昔、レコードのジャケ買いをよくやっていた。ジャケがかっこよければ、多少音楽が好みに合わなかったとしても特に気にすることもなかったけれど、本の場合はやっぱり中身が自分の求めるものでないと、いくら表紙が良かったとしてもあまり買う気にはならない。それでも、表紙のデザインが良いと、手に取って見るきっかけにはなるので、いいデザインにこしたことはないと思う。ただ、"いいデザイン"とひと言でいっても感覚的な要素が大きく、また個人の好みもそれぞれ異なるため、明確な定義をするのは難しい。ぼくが好きなのは、マックを使ってレイアウトされた最近のものよりも、手描き感を感じるもので、(デザイン的に)多少テキトーなところが残っている方が心地いい。

上にある四冊の本は、表紙カバー、内容ともにとても好きなもの。久生十蘭「昆虫図」は、ぼくが初めて久生十蘭(Hisao Juran)という作家を知るきっかけになった一冊。ここから久生十蘭にハマっていった。背表紙にある「昆虫図」というタイトルにまず目が反応し興味をもつ。本を棚から取り出し、表紙を眺めると中央に描かれた女性像(?)と「昆虫図」というタイトルの組み合わせが、どうにもインパクトがあって想像力というか奇妙なものを発見したぞ! というワクワク感が頭の中を駆け巡った。「何だこれは?!」というのが、この本を見たときの第一印象だった。ブックカバーの絵柄が、この本を買うきっかけになった。ペレリマン「おもしろい物理学」は本当におもしろくて、身近な話題から物理学を学べるいい本だと思った。江戸川乱歩の小説に出てくるトリックのような、わかりやすい科学話に親近感を覚えたりする。文中には、ジュール・ヴェルヌの冒険小説や、H.G.ウェルズなどの小説、歴史の話題を引用したりして、文系な話題で読者の興味を引き理論や法則などと絡めながら書いている。

「昆虫図」と「おもしろい物理学」は現在絶版、「地球幼年期の終わり」の現行版は表紙カバーが変わっている。「ようこそ地球さん」の現行版は、表紙は同じデザインだが裏表紙が白地にバーコードという新潮文庫のフォーマットに合わせた形になってしまった。旧カバーのものは裏表紙にもイラストが印刷されていてとてもファンシー。

●「昆虫図」久生十蘭: 装丁 / 司 修
●「ようこそ地球さん」星 新一: カバー / 真鍋博
●「地球幼年期の終わり」アーサー・C・クラーク(沼沢洽治・訳): カバー装画 / 真鍋博
●「おもしろい物理学」ペレリマン(藤川健治・訳編): カバーデザイン / 三輪しげる




Metamorphosis -Franz Kafka.jpg
■ "The Metamorphosis" Franz Kafka (W. W. Norton & Company, Inc.)
フランツ・カフカ「変身」
http://books.wwnorton.com/books/The-Metamorphosis/
ドイツ語の翻訳者(独英)、スーザン・ベルノフスキー(Susan Bernofsky)さんによるカフカ「変身」の新英訳。デヴィッド・クローネンバーグが序文を寄せている。「W.W. ノートン&カンパニー」という出版社(初めて聞いた名前)から出ている訳本。それにしてもこのカッコイイ、ブックカバー・デザイン! 虫をイメージしたタイポグラフィが本当に見事で、物語ともリンクしている。最近見た本の表紙では一番感激した。これまで、英文で小説など読んだことはないけれど、この素敵な表紙を見ているとちょっとチャレンジしてみたくなる。
原題はドイツ語で「Die Verwandlung」

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2015年07月16日

中条アミのオススメ文庫:「建築探偵術入門」東京建築探偵団

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「建築探偵術入門」東京建築探偵団 / 文春文庫

中条アミ 「東京近郊にある古い西洋建築を紹介した本。これを見ながらカメラを手に、東京の街を散策したらきっと楽しさ広がると思う。欧米の建築様式を真似てつくったとしても、やっぱりその土地の文化が出るものね。東南アジアのコロニアル建築や、旧満州で日本人が設計した建築・鉄道施設なんかも巡り歩いたらきっと面白いだろうな。"満州国合同法院"とか"旧関東軍の司令部"とか、日本の建築遺産と言っていいのかも。鉄道発祥の国イギリスが南アジアで構築した鉄道網、日本が満州の地に張り巡らせた鉄道網、二つを比較しながら資源貿易、人民統治に対する考え方が見えてきたりして。じゃーん、題して"クレオール建築"を歩く! なーんてね。写真って何かテーマを決めて撮ると、ぐんといいものになるのよね」



Past Logs / 中条アミのオススメ文庫シリーズ /

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「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ(米川良夫/訳)河出文庫
"Il cavaliere inesistente" Italo Calvino

中条アミ「ふu〜。面白くて一気に読んじゃった。あたし、修道女になろっかな」


Past Logs / おすすめ本・シリーズ /
■ 2015-02-28 09:00

「巨匠とマルガリータ」 ブルガーコフ
ずっと気なっていたものの、ボリュームの長さにちょっとたじろいでしまっていたブルガーコフの代表作。ようやくというか、やっと読む気になった。キリスト教文化だったり、当時の社会体制などの背景をもっと理解していないと、物語の面白さがわかりにくいので、今の僕の知識では大筋の流れをつかむことぐらいしかできない。何度か読んでいくうちに作品の深みがわかってくる、という感じがした。といっても、明瞭かつ丁寧な文章表現なので読みやすく、素直に楽しめる。
この本は、ロック好きにとってはとても大事な一冊だったりする。ストーンズの代名詞といっていい「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」はこの小説にインスパイアされ歌詞が書かれた、ということが、わりと最近のドキュメンタリー番組か何かの中で語られ、広く知られるようになった。何でも、ミック・ジャガーの当時の恋人マリアンヌ・フェイスフルが、(英語訳で)出版されたばかりのこの小説をミックにすすめたのが、きっかけだったとか。このときミックは23歳。「ミック、素敵な本があるから読んでみて、長く封印されていたロシアの作家のものよ」「(パラパラッとめくり)黒魔術や詩人が出てくるんだね。ありがと、読んでみるよ」みたいな会話があったのかどうかはわからないけれど、半世紀たっても色褪せない音楽(&詩)をつくるには、読むべきものをきちんと読む感性を持った人じゃないとできないのだな、とか思ったりして。

「絶望」 ナボコフ
ナボコフのメタフィクション・ミステリーといった感のある小説。ほんと惹きこむ文章を書く作家だ。ピンチョンと平行してこの本を読んでいたから、すらすらと読みやすく、「重力の虹」は数ページしか進まなかったのに、その間に一冊読めてしまった(3日ほどで)。そういえばピンチョンはナボコフの講義を受けていたとかいないとか、そういう話もある。

「錯乱のニューヨーク」 レム・コールハース
すごい有名な建築家なのだけど、僕は知らなかった(中国中央電視台本部ビルを設計した、といえばああれかとわかる)。都市と空間につての本を探しているときにこれを見つけ興味をもった。ニューヨーク、マンハッタン島と摩天楼、都市計画と文化や歴史を、宇宙人が語っているといった趣で、この人の思考の飛び方が実に不可思議。語るポイントの点と点、これらをつなぐ線がどこかおかしい。非常に感覚的な感性と論理性がうまくブレンドされているところが、魅力的だった。



■ 11-12月、面白かった本(2014年12月08日)

「夢の遠近法・初期作品選」 山尾悠子
文学の世界はやっぱり奥が深い。まだまだ知らない作家がたくさんいる。先月、ちくま文庫から出た山尾悠子さんの「夢の遠近法」という本は、見た瞬間、ほんとハッとするものがあった(置かれていた本が、ほのかに発光しているように見えた)。著者、山尾悠子さんという名を聞いたのももちろん初めてで、伝説になっていた同名の単行本が刊行されていたことも全く知らなかった。謎っぽい存在がまた興味をひく。
たまたま待ち合わせ場所に早く着いてしまったとき、目の前にあった本屋さんで時間を潰そうと立ち寄った際に、偶然目にした一冊だった。文体と描かれる世界観がとても素敵で、"目が文字を追う"のではなく、"文字が目を吸い寄せる"、そういった感覚になってしまう。ジャンルでいうと幻想文学の中に入るもの。倉橋由美子さんをもう少し世俗的にしたような感じで、倉橋さんのような緊張感はないけれど、やわらかな陰影のある絵画的な文章が想像力をかきたててくれる。この本、保存用にもう一冊買いたいくらい、おすすめの中のもう本当オススメ。三十年以上も前に書かれたものなのに、まったく古さを感じない。こういった本が出されるうちは、まだ日本にも文化的なものがあるのだなと嬉しくなる(いっときの流行モノばかりを追いかける人ばかりではないんだなと)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E6%82%A0%E5%AD%90

「トポフィリア・人間と環境」 イーフー・トゥアン
もう一冊、イーフー・トゥアン「トポフィリア」、こちらもすばらしくいい。簡単に言えば、文化人類学と環境・地理学が合わさったようなことが書かれている(かなり範囲は広い)。人と文化、文化と環境・地形、そういったものが人の行動にどう影響し、また長い歴史の中ではぐくまれてきたのか、といったことを様々な角度から見、着眼点というか人の思考のあり方ってほんと深いんだなぁと関心してしまう。といっても、専門的な特に難しい言葉は使われてないので、非常に読みやすい。五年後、十年後に読んだときに、自分の見方がどう変化しているのか、といったことにも興味がもてる一冊になりそうだ。風景や都市の写真を撮る上でも、きっと参考になるように思えた。撮り手の位相、視覚の言語化ということを意識するようになり、写真を撮る行為の裏づけがより明確になると思う。今頃になって、港千尋さんや普後均さんの写真の面白さがわかりはじめた。



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2015年03月25日

「遠い太鼓」村上春樹、より



 二十年前ならともかく、年間何百万人という日本人が外国に出かけるこの時代に、今更ヨーロッパ紀行でもあるまいと僕は思う。だからここには啓蒙的な要素もほとんどないし、有益な比較文化論というようなものもない。僕がスケッチを書き始めたそもそもの目的は、ひとつには異国にあって知らず知らずどこかにぶれていってしまいそうになる自分の意識を、一定した文章的なレベルから大きく外れないように留めておくことにあった。自分の目で見たものを、自分の目でみたように書く−−それが基本的な姿勢である。自分の感じたことをなるべくそのままに書くことである。安易な感動や、一般論化(ジェネライゼーション)を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルにものを書くこと。 (中略) でもいちばん大事なことは、文章を書くという作業を自らの存在の水準器として使用することであり、使用しつづけることである。

「遠い太鼓」村上春樹、より
"遠い太鼓−−はじめに" 講談社文庫(p22-23)



1986年から1989年までの間、村上さんが小説を書くため、日本を離れギリシャとイタリアに滞在したときに書き留めた記録(スケッチ)を、一冊の本にまとめたものがこの「遠い太鼓」。約560ページ強と、旅行滞在記にしてはけっこうボリュームがあり、密度も高い。でも、さらさらと読め、あっという間にページが進む。
この長い海外滞在期間に、村上さんは二つの長編小説を書きあげた。ひとつはベスト・セラーとなった「ノルウェイの森」、もうひとつは「ダンス・ダンス・ダンス」(また、本の中にでてくるエピソードの一部は「スプートニクの恋人」に、ほぼそのまま組み込まれている)。この二作がどんなふうに生まれたのか、といった背景なんかも少し見えたりして、制作日記的な読み方でも楽しめる。当時は、インターネットはまったく普及しておらず、電話やファックス、あるいは郵便でのやりとりがちょこちょこ文中に登場し、ひとつの時代を感じてしまった。今は世界中のどこにいようとも、写真や動画をつけて瞬時に、その場で起こっていることが伝えられる時代だが、そういう世界のなかで過ごしながらも、ふとしたときにこの本を手にとり、読み直す。日々技術進化し続けるメディアやツールとは対極にある紙の本。書かれてから25年近くも経っているのだから旅情報としての鮮度はもちろんないが、なぜだろう毎度面白く読める。言葉による杭は、時代に流されはしないということなんだろうか。




 一番前に座っていたギリシャ人のおばさんが「あんた、あんたが飲んでるのワインだろう?」と運転手に向かってとがめるように言った。「水だよ、水」と運転手は笑って誤魔化していたが、そのうちに「ばあさんも飲みなよ」といってグラスにワインを入れ、チーズを切っておばさんに差し出した。そしていつの間にか我々乗客を含めたバスの中の全員が前に集まってワインを飲み、チーズを食べているということになってしまった。車掌はほろ酔い加減で、鹿の皮でも剥げそうな鋭いナイフを使ってチーズを切ってみんなに配るのだが、バスが揺れるとナイフの刃先が一番前の席に座った英国人の老夫婦の鼻先を行ったり来たりするので、彼らは肩を寄せあい、こわばった微笑を浮かべつつ冷汗を流している。運転手はもう路面なんか殆ど見てもいない。

"ミコノスからクレタ島に行く・酒盛りバス101号の光と影"
講談社文庫(p297)



村上さんは旅行記ものを何冊か書かれていて、それらを読むと村上さんの文章の上手さがとてもよくわかる(「遠い太鼓」がやっぱり、一番面白い)。それは決して、技巧的なものではなく、そのときに見た光景や出来事、思ったこと、抱いた感情など、著者の"視点・観察力"が言葉としてうまくパッキングされているという点で。一見何気ない描写も、ほんとうに注意深く見ているからこそ、味わいとして出る。力みがない(ようにみえる)文章は、読む方にとっても心地よく、また情景も浮かびやすい。そのせいか、すっと馴染むものがある。

インターネットの中にも、いろんな人たちの書いた旅行記が数多くあり、ヒットしたときは時々見たりたりするんだけれども、残念なことに、そのほとんどが「行ってきました・体験しました報告」に終始していて、書いている当事者と直接つながりある人以外にとっては、何の関心をもひかないものばかりだったりする("えんそくの作文"を添削する教師の心境がどういったものなのか、ある意味疑似体験できてしまう)。「Look at Me」。でも、中にはちゃんとしたものや、ハッとさせられるものがあって、そんな記事に遭遇するとやっぱりいいなと思う。で、よくよく読んでいくと、それを書いた人たちというのは、たいていはジャーナリストだったり、研究者、あるいは何かの分野に長けた(マニアックな)人たちの書いたものだったりする。自分のまなざしを持ったひとたち。彼らが自分の視点を通し綴った言葉は、上出来のワインのように、時間が多少経過したところで味わいが落ちることなんてないだろう。
自分の"若く未熟な衝動"を、表に出すことはとても簡単だが、何を伝えたいのか、そのためにはどうすればいいのかを、自分の中で一度消化する大事さもまた必要なことだと改めて思う(まだ十代・二十代の前半くらいなら、かわいいものだけれど)。頭の中に渦巻くいろんな思いを、一度言葉に置き換え、粗熱をとってみる。テロワール(本人の資質)と、その地に根ざしたブドウの木(知識や経験)、畑の管理(努力・継続性)、そこに吹く風や気候(時代の流れ・外部環境)、これらが合わさり仕込む葡萄ができあがる。それに想像力という酵母が発生すれば、ひとつのワインが誕生する。

良い本は学べるものがとても多い。


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2015年03月08日

「死をポケットに入れて」チャールズ・ブコウスキー、より



 ものを書く時は、すらすらと書かなければならない。稚拙でとりとめのない文章になってしまうかもしれないが、言葉がすらすらと流れ出ているのであれば、書く喜びから生まれる勢いがすべてを輝かせてくれる。慎重に書かれた文章は死んだ文章だ。


「死をポケットに入れて」チャールズ・ブコウスキー(中川五郎・訳)、より
"91年12月9日・1:18 AM" 河出文庫(p122)



テレビだったか、新聞だったか忘れたけれど、久しぶりにカルロス・ゴーンの顔を見て、あれ? トマ・ピケティと雰囲気が似ているなと思ってしまった。きっと典型的な高学歴のフランス人の顔つきなのだろう。ピカソとダリ、そして岡本太郎、この三人も何か共通する顔をしている、常識を超えた天才画家。
チャールズ・ブコウスキーとトム・ウェイツも、どこか似たニオイというか顔つきだ。飲んだくれで詩人、その典型的な風貌。二人とも、ほぼ同じころに日本で、もてはやされた時期があった(ずいぶん昔の話なので、記憶のズレがあるかもしれない)。トム・ウェイツは、ジム・ジャームッシュの映画にも出ていたせいで、おしゃれなイメージが先行して、女性ファンがわりと沢山いた。酒飲みといっても、カクテルバーが似合うような感じでとられられていたところがある。洗練された都会のネオンが照らす男の哀愁、といったようなところ。一方、ブコウスキーはアル中手前、筋金入りの飲んだくれ、競馬好きで、たばこ臭くどうしようもない赤ら顔(多分)。写真を見ただけでもうアルコール臭が漂ってくる、そんなインパクトがあったため、男ばかりのファンが多かったように思う。僕はその当時、まだ世の中知らずの学生で、なんでこんなおっさんが人気あるんだろうと、ずいぶん不思議に思っていた。

若いときは、哀しくも見た目のイメージで敬遠していたブコウスキーだったが、改めて興味を持ったのは、何年か前。彼の最後の小説「パルプ」を読んだことがきっかけだった。レイモンド・チャンドラーの生んだ名探偵フィリップ・マーロウに十分匹敵する(というよりも対極にある)迷探偵ビレーンが繰り広げる、ほとんど内容のないめちゃくちゃなストーリー。しかし、彼の書いた文章は、読み手を強引に物語へと引きずり込む魅力があった。ブコウスキー最期の気迫が、一行一行にじみ出ているようだった。そこから少し遡るようにして、彼のいくつかの本を読むようになった。新潮社から今も出ている彼の代表作といっていい二冊の短編集(「町でいちばんの美女」と「ありきたりの狂気の物語」)は、藤原新也さんの写真が表紙に使われていることもあって、僕にとっては入りやすいところもあった。そのうちの一冊「町でいちばんの美女」に収録の物語から、「つめたく冷えた月」という映画が、リュック・ベッソン、プロデュースのもと製作された。そういえば、この映画観に行ったんだ。

ジャック・ケルアックの言葉と、彼の友人だったロバート・フランクの写真。この二つは、きっと同じ時代を過ごしたもの同士が発したモノだからなのだろう、違和感なく結びつく。ビート・ジェネレーションと呼ばれていた仲間たち。ロバート・フランクが奨学金を得て、ほぼアメリカ全土にあたる48州を駆け回り、「The Americans」という一冊の写真集を出版したのが1958年。前年に「路上」を出版したばかりのケルアックが、この写真集に序文を寄せている。これから約30年後、日本がバブル景気に酔いしれていた1980年代末、藤原新也はアメリカに渡り、そこでキャンピング・カーをレンタルし、約七ヶ月かけてこの大陸を縦断した。ロスから東海岸、そのままフロリダに南下し、今度は南回りで西海岸へと戻るアメリカ一周の旅。その間に撮った写真を「アメリカン・ルーレット(1990年)」という写真集にまとめ上げた。電話帳のように分厚い写真集だった。日本で刊行されたブコウスキーの短篇集は、この「アメリカン・ルーレット」の中から選んだものが表紙に使われている。ロバート・フランクの「アメリカ」はモノクロームだったが、藤原新也の「アメリカ」はカラーだった(モノクロームも混在)。アメリカという無味乾燥した土地を、鮮やかな原色で撮ることで、より空虚さを写し撮っているかのように見えた。郊外の住宅地、砂漠、モーテル。人の体温を感じさせない風景ばかりを意識的に選んでいる。藤原新也とブコウスキーに直接の接点はないけれども、ちょっといいがかり的な見方をすれば、ブコウスキーの極めてローカルな小説に、写真で序文がわりのものを添えているような感じがした。この二人を結びつけた編集者のセンスがすばらしい。ブコウスキーと藤原新也は、世代も違うし国籍・人種も違う。何か共通点を見出すなら、どこにも接点を持たないアウトロー、異端な存在といったところだろうか。ケルアックとフランク、ブコウスキーの三人はほぼ同世代になるが、ブコウスキーだけはビート・ジェネレーションの連中とは隔たりがある。藤原新也も日本では異質の写真家で、何かの仲良しコミュニティに属すことなく、作品を発表し続けてきた。特に日本の場合、派閥やコミュニティの中にいた方が、何かと活動しやすいはずだが、むしろそういったものから距離を置いている。きっと、変わり者は変わり者を引き寄せるのだ。国籍も、年齢も関係なく。たとえ、本人同士が知らなくとも、彼らの残した足跡を見、感じとった人がつないでくれる。


死をポケットに入れて
1991年8月から1993年2月まで、ブコウスキー晩年の約二年の間につづられた文章が、彼の死後「The Captain Is Out to Lunch and the Sailors Have Taken Over the Ship」という長い題がつけられ出版された。このタイトルは、本の最後、彼が(本の中で)残した最後の文章となる"93年2月27日・12:56 AM"の冒頭の一行「船長は昼食に出かけ、船乗りたちが船を乗っ取ってしまった(p218)」から取られている。英語圏の人たちにとって、このフレーズは面白みのある響きでもあるんだろうか? 何かのことわざをもじったようなアホらしくも意味深な言葉。ブコウスキーのユーモラスな一面をうまく現しているのかもしれない。思わず、フランク・ザッパのアルバム「Ship Arriving Too Late to Save a Drowning Witch(邦題:たどり着くのが遅すぎて、溺れる魔女を救えなかった船)」を連想してしまった。日本版の題は、同じく本文中からの引用で「死をポケットに入れて」。こちらは、本の内容にぴったりと合ったいいタイトルだと思う。


時としてわたしたちはうっかり忘れてしまう。ガス料金を払うことや、オイル交換をすることなどなど。ほとんどの人たちは死に対する用意ができていない。自分たち自身の死だろうが、誰か他人の死だろうが。死に誰もがショックを受け、恐怖を覚える。まるで不意打ちだ。何だって、そんなこと絶対にありえないよ。わたしは死を左のポケットに入れて持ち歩いている。そいつを取り出して、話しかけてみる。

"91年9月12日・11:19 PM" 河出文庫(p20)


この本にあるのは、ブコウスキーがその日に思ったこと、感じたことなどを文章にしたエッセイのようなもの。それぞれにタイトルはなく、ただ書いた日付と時間が便宜的に付けられている。日数にして33日分。目次を開くと、「○年○月○日・○時○分」といったように、ただ日時を示す数字だけが、無表情に並んでいて、ブコウスキーらしくない。これはきっと、出版するために書いていたものでもなく、彼の死後、偶然日の目をみた未発表原稿などの中からカテゴライズし、まとめられたものだからなのだろう。この機械的に記された数字のために、はじめは日記や記録文のような印象を受けるが、読んでいくうちに、その印象は変わってくる。ただの日常記録にはならないブコウスキー節が満載で、相変わらずというか、ページの間から彼のつばが飛んできそうなほど、毒をまき散らしている。「小説」からはなかなか想像つかない、作家の生活や感情の吐露が垣間見られ興味深い。それにしても、半分以上が競馬についての話で、何かしらにつけ、この競馬(ギャンブル)が話の種になっている。ブコウスキーは、競馬の中に人生の縮図を読みとっていたのだろうか。それに次いで文学のこと、そして酒と人生(死生感)についてと続く。


酒はわたしの心の糧となり、意欲のもととなる。

"91年11月3日・12:48 AM" 河出文庫(p106)


ブコウスキーがパソコンに向かい書いている時間帯を、一覧してみると、夜の23時から深夜にかけてが多く、後半になると午前11時から12時台へと変わってくる。深夜かお昼どきが、執筆に適していたのか、彼の以外と規則的な生活ぶりがわかるようだ(ここに書き残した三十三日だけかもしれないけれど)。

またこのとき、彼は長年愛用したタイプライターをしまい、マッキントッシュのパソコン(II si)に乗り換え、文字を打つようになった。この本の中でもそういったことに触れていて、新しい機械に四苦八苦する様子や、それに対する期待などが文章の中に滲み出ていたりする。ふつうなら、年をとるほどに慣れ親しんだ道具により愛着を感じ、それを使い続けるのだろうけれども、ブコウスキーの場合は全くの正反対だ。あっさりと古いタイプライターを手放し、新しいツールに挑戦する。このあたりに、彼の創作に対しての強い気持ちが出ているのだな、と思えた。タイプライターで文字を打ち、間違えたら都度修正液で消しまた打ち直す。もしかすると、こういったことを長年繰り返してきたことに、ブコウスキーはもううんざりしていたのかもしれない。パソコンなら、カーソルをひとつ動かせば文字の訂正はすぐに出来るし、コピペで簡単に前後の文章の移動ができてしまう。彼の頭の中で次から次へと溢れでる言葉を、瞬時に文字に変換するには、コンピューターの方が適切だったのかもしれない。そうではなく、彼がもうすでに自分の死を悟っていたとしたら、ある種その死に対する彼なりの抵抗だったのだとも思える。

彼の行動は、「安部公房の遺稿がワープロのフロッピー・ディスクに残されていた」というエピソードを連想させたり、「晩年、体力と視力の衰えにより絵筆を持てなくなったマチスが、道具を色紙とハサミに代え、切り絵で創作活動に挑むようになった」という話などを思い出させる。天才たちの創造の源泉、エネルギーというのはどこから来ているのか? また彼らは何に突き動かされ、ことばを紡ぎ、絵を描こうとしたのだろう? きっと、自分自身から湧き出るものと、何か巨大な"意志"というものが存在していて、それが才能のある人たちにパワーを送り、動かしているんじゃないだろうかとも思う。


コンピューターを手に入れてからというもの、わたしの書くものはパワーも分量も倍増した。魔法の代物だ。ほとんどの人がテレビの前に座り込むように、わたしはコンピューターの前に座り込む。
(中略)
タイプライターで書くのは、泥の中を歩いているようなものだ。コンピューターは、アイス・スケートだ。猛烈な突風だ。言うまでもないことだが、自分の中に何もなかったら、どちらでも同じことだ。

"91年10月2日・11:03 PM" 河出文庫(p61)


1994年3月9日、ヘンリー・チャールズ・ブコウスキー没。


いや、わたしにはまだ老人年金もある。毎月九四三ドル。七十歳になったので、支給されるようになった。しかしそれも永遠には続かない。

"91年10月3日・11:56 PM" 河出文庫(p65)


Books-Bukowski.jpg
"The Captain Is Out to Lunch and the Sailors Have Taken Over the Ship" (1998) &
"Pulp" (1994) by Charles Bukowski (Japanese Cover)

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● 映画「つめたく冷えた月」(Lune Froide / Cold Moon)のチラシ。フランスでの映画公開は1991年、日本は1994年公開。「グラン・ブルー」が大ヒットしていた中、リュック・ベッソンがプロデュースした映画というふれこみで、わりと話題になっていた(残念ながら彼の監督作ではない)。宣伝チラシを見てもそれはよくわかる。監督の名前を一番上に置く配慮をしつつも、プロデューサーであるリュック・ベッソンの名に目がいくよう、うまくデザインされている。
映画は、ブコウスキーの一番有名な短篇集「町でいちばんの美女」に収録の二篇、「人魚との交尾」と「充電のあいまに」を元にして作られている。この二篇の物語は非常に短くて、ふたつ合わせてもわずか22ページしかない。改めて読み直すと、ヘミングウェイの初期短篇集「われらの時代」「男だけの世界」を思わせる、粗くぶっきらぼうで男くささ漂う文体がかっこいい(とくに「殺し屋(by ヘミングウェイ)」での会話やシチュエーションなど)。当時、劇場でこの映画を観たけれども、内容はすっかり忘れてしまった(というよりも途中で寝てしまったので記憶にない。エンドロールが流れ、会場が明るくなると、ちょっとした恐怖がやってきた。デート中に寝るなんて、どういう神経してんの! とえらく怒られ、次回から一緒に映画を観る場合は、タバスコ入りの目薬が用意されるようになった。この責任は映画監督にとってもらうべきなのか、それともプロデューサーになるのか、あるいは原作者に向かうべきなのか? 当時はさっぱりわからなかった。映画館でフランス映画を観るというのは、世界最強の睡眠薬を服用する、ということなのだ)。60'Sの英国ロックがふんだんに使われていたので、音楽好きには楽しめると思う。なかでもジミヘンの「House Burning Down」がめちゃくちゃかっこよく使われていて、その印象がすごく強い。映画を観終わった(ひと眠りした?)帰りに、LOFTのCDショップ"WAVE"で、この曲の入ったアルバム「Electric Ladyland」をいきおいで買った記憶がある。そんなわけで、僕はブコウスキーと聞くとジミヘンをすぐに思い出してしまう。

Zappa-ShipArrivingTooLate.jpg
"Ship Arriving Too Late to Save a Drowning Witch" / Frank Zappa (1982)
*ジャケット画像はdiscogより


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2015年03月03日

重力の虹から白鯨、スタバ


たとえば世界が鯨の論理で廻りアメリカ合衆国が捕鯨大国であった19世紀中葉、ハーマン・メルヴィルは長編小説『白鯨』(1851年)を発表したが、それから1世紀以上を経て、ピンチョンは世界がミサイル(ロケット)の論理で廻っている時代に注目し、それを背後で突き動かす巨大な力を描き出すためにナチスドイツゆかりのV2ロケットを中心に『重力の虹』一冊を費やした。『白鯨』が神の仕掛けた「壮大な演目(グランド・プログラム)」の隠喩(いん ゆ)で始まり「劇(ドラマ)」の終幕を告げて終わるように、『重力の虹』もまた「戦域(シアター)」で始まりオルフェウスという名の「劇場(シアター)」 で幕を閉じる。



■ 書評:『重力の虹』トマス・ピンチョン著、佐藤良明訳 (by 巽孝之)
http://www.sankei.com/life/news/141116/lif1411160028-n1.html



ピンチョンを読んでいてさみしいなと思うことがひとつあって、まわりにピンチョンを読んでるひと、知っているひとでもいいんだけど、それが一人もいない。音楽や映画は、再生機器のボタンをただ押すだけで鑑賞できてしまうから、マイナーなものまでいろいろと詳しい人は多いのだが、書物にかぎっていえば読み解くのに時間もかかるし、やっぱり自分でひとつひとつ消化していくしかない。とはいえ、本にしても、絵画や音楽にしても、全体を俯瞰して見るのはなかなか容易ではないし、体系的なとらえ方ができている人も数少ないように思う。ただ、好きか嫌いかといった二元的な思考でしか、ものごとを見れない・感じ取れない人ばかりなら、作り手にとっても不幸なことだろう。その点、ピンチョンと彼のファンは恵まれているように思う。深読みするぐらいじゃ読みとけないほどの世界観を描いているだけに、読み味わう楽しさが格別になる。

それにしても「重力の虹」は、前評判どおりよくわからない小説だ。でも、なんだかものすごく揺さぶられるものがある。とてつもないデータのつまった巨大サーバーに、処理速度の遅いパソコンで挑むような、リロードにつぐリロード、途中いいところで読み込んだデータが飛んでしまって、再度接続。みたいな感じで少しづつ読み進むペース。このまどろっこしさが、うっとしくもあり、楽しかったりもする。

上記リンクの書評には、エイハブ船長で有名な「白鯨」になぞらえ「重力の虹」の全体的なイメージを説明している。子供のころに児童書で読んだ記憶のある「白鯨」。「海底二万海里」とごっちゃになっているのだけど、「白鯨」も読み直してみたくなった。そういえば、19世紀から20世紀初頭にかけては海洋小説(の名作)というのが、わりと多かったなと思う。「白鯨」やヴェルヌの「海底二万海里」はもちろんそうだし、コンラッドの「ロードジム」「闇の奥(←コッポラはこの小説を下敷きに、ベトナム戦争という時代設定に置き換え"地獄の黙示録"を製作した)」、モームやコナン・ドイルも印象的なものをいくつか書いている。帝国主義時代にかけての社会が、文学の流れにも当然のように影響しているからなのだろうけど、あとから振り返るとそれが如実に表れているのが面白い。

で、「白鯨」についてを見ているうちに、その中に登場する人物「スターバック」で、ひとつつながった。スタバで「白鯨」を読んでいる客がいたりすると、きっと創業者は大喜びするのだろうな。


コーヒーチェーン店「スターバックス」の名前の由来は、本作の一等航海士スターバックである。なお、白鯨中コーヒーという単語はただ一箇所でしか出てこず、しかもそれは油を使い果たしてしまった捕鯨船が無心にきた缶を誤認したもので、スターバックがコーヒーを飲んだことも好きといった表記はない。

『スターバックス成功物語』ハワード・シュルツ(日経BP社)
■ 白鯨 - wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%AF%A8


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2015年02月13日

ピンチョン映画「LAヴァイス」4月18日公開! しかし…


ピンチョン原作の映画「LAヴァイス(邦題)」が、監督の意向により原題の「インヒアレント・ヴァイス」に急遽変更。というちょっとしたアクシデントがあった模様。

これまでも、配給会社や翻訳家などは、海外映画のタイトルをうまく日本の観客に伝えるために、ネーミングにいろいろ工夫を凝らしている。原題とは全く違うものだったり、あるいは原題以上にうまく映画の中身を表しているなと思うもの、そのまま訳しても十分に意味の伝わるもの等、いろいろあったりして、そういうギャップを見ると海外でのことばや文化の捉え方と、日本での捉え方の違いが分かったりして面白い一面がある(キューブリック監督は、セリフの翻訳までに口をはさむうるさい人だったようで、日本語訳の字幕をまた英語に直させてチェックするという異常な完璧主義な面があった。/ 戸田奈津子「字幕の中に人生」のなかで紹介されていたエピソード、より)。今回の映画タイトル「インヒアレント・ヴァイス」という単語は、日本人にとっては馴染みがなく、少々伝わりづらいところがある。動員数にもきっと影響があるような感じがした。

この小説を翻訳された佐藤良明(サトチョン)さん曰く、「インヒアレント・ヴァイス」というのは保険業界で使われる専門用語なのだそう。意味するところは、ミルクが腐るのは「内在する悪性(Inherent Vice)」によるものであって、事故や何らかのアクシデント、あるいは誰かによる陰謀ではないから保険の適用から除外されるということなのだと。
(雑誌「新潮」2010年5月号 特集:新世紀トマス・ピンチョン、より要約)
なかなか意味深い言葉だから、たしかに監督からすると「LAヴァイス」という邦題は、また違った印象になってしまうのだろうな。80年代に大ヒットしたテレビドラマ「マイアミ・ヴァイス」を連想させるところもあって、もしかするとそういったところが気になるんじゃないだろうか。

本も映画公開とあわせて増刷?


ピンチョン原作映画の邦題が公開2か月前に異例の変更
http://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/365792/
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