2016年12月13日

一気読みした4冊

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米大統領戦後、一気に円安になった影響なのか、アマゾンにある洋書ペーパーバックも1-2割ほど値段が変動し、ちょっと買うのにためらいが出てしまう。このところの為替は将来のトランプ政権を見越して動いたというわけじゃなく、おそらくFRBの利上げを見越し日米の金利差に焦点をあてたものだと思うが、大統領選の結果が相場の引き金(きっかけ)になったのだけは確か。急に上がりすぎたので、一旦調整が入ると思うが、次のトリガーまで、まだしばらく円安水準で留まりそうな気配がある。その間にたまっていた本を少しでも読んでおこうと思った。
(そしてついにピンチョン「V.」も読み終えたのだ! これはまたいずれ書こう)

「幽霊の2/3」ヘレン・マクロイ
アメリカの出版業界を背景にしたミステリー。印税やら版権やら、弱小出版社とエージェンシーが絡んで展開していく。これは面白かった。「あなたは誰?」「二人のウィリング」と同じベイジル・ウィリング博士のシリーズ。ウィリング博士はいつも(本の中で)登場するのが遅いのだ。

「日時計」クリストファー・ランドン
これは手元にあったものの長らく読まずにいた。秋の日差しと表紙カバーの写真がなんとなくしっくりきたところで、急にふと読みたくなり一気に読んだ。イギリスとフランスを舞台にした冒険小説のような感じで、後半にかけてのスピード感がとてもいい。

「キス・キス」ロアルド・ダール
ちょっと不思議なというか、不気味な後味の短篇集。短篇だから文章のキレがいいというか、そういうエッセンスがすごく生きていて、読みやすい。「チャーリーとチョコレート工場」の原作者として有名な人だった。

「スターターズ」リッサ・プライス
これはヤングアダルト(海外でのライトノベルみたいな感じ)というジャンルになるらしい。読みやすいけれどもしっかりとテーマがあるというか、時代の風刺・予見をうまく物語りに織り込んでいていいなと思った。金持ちの老人が自分の脳(意識)を、若い子供の身体にテレポートさせることで、再び青春を謳歌できるという「ボディレンタル」サービスを巡ってのディストピアもの。世界的なベストセラーになったようで、きっとその影響なんだろう、海外版と共通のイラストが表紙になっている。このダサいブックカバーは日本の読者向けじゃない感じもあって、損をしているように思う(物語はすごくいいのに)。


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稲垣足穂「ヰタ・マキニカリス」

本屋でみかけた新刊。ちょっと立ち読みし、読みたいリストに入る。はじめて知った作家だけど、けっこう古い人で、だけど文章が全然古くないというか新鮮だった。最近の日本の小説は、どのタイトルも文章が単調すぎて読む気がおこらないが、久生十蘭はじめ戦前の作家にはすごく魅力的な文章を書く人がけっこういたんだな。
その前に文庫になったスティーヴ・エリクソン「Xのアーチ」、これまず読まないとだ。
あとそう、カルヴィーノの「冬の夜ひとりの旅人が」復刊しててびっくり。


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2016年07月09日

そしてぼくはトホホに暮れる、の巻



この自分のブログで、「J.G.バラード短篇全集 -Vol.1- が届いた!の巻」をアップした翌日。アクセスの検索ワードの中に「バラード短篇全集」なんてのがあり、目にとまった。あれ? そんな本今までに出てなかったはずだからこのピンポイントな検索は何だ?("The Complete Short Stories Vol.1"だとタイトルにすると長くなるので、勝手に邦題をつけていた)、と思いつつ、もしかしたらずっと以前にそういうタイトルで全集が出ていたのかも、と改め調べてみると、今夏、創元社からバラード短編全集が出るというインフォに出くわす。第一巻が8/31に発売で、全5巻が順次刊行とのこと。(僕にとっては)なんてタイムリーなニュース! と同時に、邦訳が出たら英語で読む気なくなるよなぁと、せっかく芽生えた英訳勉強の機会を削ぐ口実が出来てしまったり、ちょっと複雑な気持ちにもなる。この全集、新訳になるのかが気になるところだけれど、告知にはその記載がないので旧版のものに少し手直しをするくらいかな? いや、ひさびさの大きなタイトルで、けっこう話題になりそう、楽しみ。
最近気になる、ドン・デリーロも未訳ものがわりとあるし、バラードの次はこの人のを出して欲しいな。今のところ、デリーロも絶版本探すかペーパーバックにするかになってしまう。いや、スケールでかそう。


J・G・バラード短編全集(1)「時の声」
(監修:柳下毅一郎 / 浅倉久志 他訳)
〜『結晶世界』『ハイ・ライズ』などの傑作群で、叙事的な文体で20世紀SFに独自の境地を拓いた鬼才の全短編を、発表順に五巻に集成。第一巻は代表作「時の声」など15編を収める。〜
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488010584
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2016年03月27日

アンナ・カヴァン「氷」


去年秋ごろに書いていたもの。出だしが少し長くなってしまったので、どうしたものかとしばらく下書き状態のまま置いていた。けっこう気に入ったところもあり、当時感じていた季節感なんかが今の時期とは少しずれているかもしれないが、後半部分を少し直してアップ。以下どうぞ。



きっともう半年近くが経ってしまった。ある晴れた初夏の日、だったような、そうでないような、はっきりとは覚えてないが太陽の光がさわやかにアスファルトを照らし、肌にやさしく届いていた時期だったように思う。今年もまた、むあんとする、いつもの蒸し暑い夏がやってくるんだろう。そんな予感を空に浮かぶ白い雲が示していた。ハングリーに吹くビル風は紆余曲折に飛び交い、街の新緑とそのにおいを手当たり次第にかすめとっては、半袖シャツの中をうまくくぐり抜ける。僕はいそいそとエスカレーターを下りながら、短く終わるだろうこの快適な季節を目や腕に感じとっていた。

時間の合間に青山通りにある「青山ブックセンター」に行ったときのこと。アートやファッション系の本や雑誌が充実したこの本屋さんへ来るのはけっこう久しぶりだった。写真集や画集、新しいファッション・ヴィジュアル誌を求め、こことパルコ・ブックセンターは毎週のように通っていた時期もあったが、今はその習慣もすっかりとなくなり、もっと自分の生活ペースを優先し何かを急ぐでもなく本を探すようになった。扱う量こそ少ないが個性的なアート本を揃えるセレクトショップがあちこちにできたことも多少影響しているとは思う(こういった店は、駅と駅の間だったり多少立地の悪い場所にあったりするが、中心街にまで足を伸ばさずにすむ)。来なくなった分だけ行ったときに感じる変化やギャップは大きく、青山通りから延びた骨董通り界隈なんかもずいぶんと様変わりしていたけれど、ここ青山ブックセンターは十数年前ともそう変わらず、静かに長く営業を続けている。デザイン・アパレル・建築事務所などの多く集まる場所の理というものはやっぱりあるのだろう。こういった本屋の客層は、おおよそそういった職種の人たちか、美術系学科に通う学生らが多い。

そういえば、この青山ブックセンターでテリー・ワイッフェンバッハ(Terri Weifenbach)の写真集 "In Your Dream" の初版本を買ったんだよな、とかを思い出す。ハードカバーで、5, 60ページにも満たない薄い写真集だった。掲載図版の点数もページ数に比例して少なく余白を生かした上品なレイアウトだったため、よけいに少なく思えた。しかし印刷はとてもきれいで、一点一点それぞれが、選びに選び抜かれた末のものだとわかる魅力的な写真ばかりだった。彼女の撮る写真は、ナイーヴな風景写真の範疇に入るのだろう。ほんのわずかな部分にしか焦点が合っていないものがほとんどで、抽象的かつ具象的な二つの要素がやわらかな色彩の中で溶け、混じりあう。そしてこの写真集に収められた写真は、それまでにあったどんなものとも違っていた(*思い返してみると、数年前に流行ったミニチュア風写真の先駆けになっていたりする。彼女の使っていたカメラは古ライカ・レンズ〜確かエルマーf4/90mmとズマリットf1.5/50mmだったような記憶〜を付けていた。レンズの開放値で被写体にフォーカスしていたため、レンズ収差がもろに出て、35ミリフォーマットでもアオリ機能を使って撮ったような効果があった。まだ一般的にはレンズの数値スペックに性能の優を求める傾向が根強くあり、古レンズのボケ味やレンズの個性ともいうべき収差といったモノは良くないとされていたが、彼女はこの効果をうまく利用し自身の写真作品に生かしていた)。初版千部、通常仕様とオリジナル・プリントの付いた限定仕様の二種類があり、僕はどちらにするか迷いに迷って、結局、両者の値段の開きに自分の財布が追いつかず通常仕様のものにした。その後、オリジナルプリント付きのものにえらいプレミア価格が付いてたのを知って、ちょっとくやしかったりもした。当時の価格は、通常版が一万円前後、限定版が三万円弱位だったと記憶している。今中古本屋のサイトやe-bayなんかをみると、通常版が3〜5万、限定版が十万円以上の値がついている。まぁ、お店側の付ける希望価格と、買い手がつく実勢の価格には多少開きがあるだろうから、店頭価格はあくまでも参考程度だろうが、熱心なファンもまだ多くいて、そこそこいい値段になっているのは間違いないだろう。
当時写真集はよく見ていたし、気に入ったものがあるといろいろと買ってはいたが、次第に一枚でも多く自分の写真を撮りたいという気持ちが強くなっていたので、結局所有していたほとんどを売り払ってしまった。売ったお金は、買っても買っても追いつかない印画紙やフィルム代にすぐに化けてしまった。テリー・ワイッフェンバッハの写真集も最後の最後までは手元に置いてあったけれども、ある日突然「いらないや」と思い、残っていた写真集と合わせて売ってしまった。希少で気に入っていた大事な写真集ばかりだったが、べつに自分で所有してなくても、世の中の誰か持っていればいいやと思えるようになったこと、それが自身の中で一番の大きな変化だった。もっと早くにデジカメが普及していたらどうだったんだろう? フィルムや印画紙にかかるお金の事を考える必要はなかったのに、なんて思い返してはみるが、でもきっと、あのときは「愛蔵の写真集を売り、処分する」という行動が必要だったんだ、そう冷静になって今は思える。もしタイムマシンがあって、しばらくしたらプレミアがつくから手放すな、なんて言われたとしてもきっと持っているべきではないと思っていたはずだ。人の撮った写真から学び、吸収するときではもうなかったのだなと。

話がおもいっきり逸れてしまった。久しぶりに来た「青山ブックセンター」の続き。
足は海外文学のコーナーへと向く。特に何かを買い求め、立ち寄ったわけでもないため、本のディスプレイや店員さんのPOP、そういったものに目がいく感じだ。普段立ち寄る一般的な書店とはやはり違った品ぞろえ。知らない本、凝ったデザインの本がたくさんあって、目がそわそわしているのが自分でもわかる。「こういうときに何かを買うと、たいてい失敗してしまう。そう、目を慣らすためだけにしておいた方がいい」日常的に学んだ教訓みたいなものが頭のなかの小さな引き出しからそっと声を出す。今はネットもあり、世界中の店(あるいは個人)に躊躇なく品物を注文できる時代。昔のように流通がゆきとどかず、ある特定の地域だけでしか物が回転してないといった不便はもうないのだから、店頭在庫のみ、再入荷不明だなんてことはそうそうない。買う側にしてみればそういう余裕は、欲しい本をじっくり選べとてもいい。

ふと平積みのディスプレーに目がいった。白縁に黒いベタ面のシンプルなブック・カバーが並べられている。夏に向けたさわやかな季節には、似合わないやや重いトーン。ちくま文庫、アンナ・カヴァン「氷」というタイトルだった。フランス人風の洒落たエッセイストみたいな名前。第一印象は悪くない。少し気になり手に取った。表紙のデザインからは一見、ゴス小説を連想させ、作家の名前とは妙に対照的で何か印象に残るものがあった。そのときは、ぱらっとページをめくり軽く目を通したくらいで終わったのだけど、以外とそういうものって潜在的な記憶に残るんだろう、ついこの間、新宿の紀ノ国屋書店に行ったときに、この文庫が置いてあったのを見て、いつの日ぶりかのデジャヴ的な感覚が戻ってきた。そしてそっと手を伸ばしページをめくっる。今度は意識して本のなかの文字を追った。




- 日本語訳 -
 私は道に迷ってしまった。すでに夕闇がせまり、何時間も車を走らせてきたためにガソリンは実質的に底をついていた。こんな人里離れた山の中で夜になって立往生したらどうなるのか。そう思って愕然とした時、給油所の看板が見え、私は心底ほっとして、ゆっくりと車を寄せていった。

「氷」アンナ・カヴァン(山田和子・訳)、より ・1章(ちくま文庫 / p17)


- 原文 -
"I was lost, it was already dusk, I had been driving for hours and was practically out of petrol. The idea of being stranded on these lonely hills in the dark appalled me, so I was glad to see a signpost, and coast down to a garage."

Anna Kavan "Ice" 1967 (Peter Owen Modern Classic / p5)


冒頭から引き込む書き出しで、謎めいた世界へと誘ってくれる。文章の合間にある質感というか空気感がとてもいい。カフカがブレアウッチ・プロジェクトの脚本を書いたのならきっとこんな風になるだろうな、という感じの文章と物語の進み方。暗たんでシュールなイメージの映像がすっと頭に浮かぶ。読みやすいが適度な質量・重みがあって、テンポよし。こりゃ、じっくり読まなければと一旦本をとじる。立ち読みでお楽しみが減るのはもったいない、そういう類の手応えあるいい文章だ。このときは読みたい候補の本が他にいくつかあったので、それらと比べながら最終的に残った二冊、ヘレン・マクロイ「あなたは誰?」とカヴァンの「氷」を交互に見つつ悩んだ末に、秤の振れた方を選んだ。傾いたのはやっぱりカヴァンの「氷」だった。



”この世界の冷酷さは、少女の冷酷さと脆弱さが誘発しているように思われた。少女はこのうえなく繊細な神経の持ち主で、極度の緊張の中で生き、人間と人生をおそれていた。”
「氷」アンナ・カヴァン(ちくま文庫 / p22)


この小説、ストーリーの進み具合や流れは一応あるのだけれど、何かがどこかおかしい。場面は次から次へとめまぐるしく展開していくものの、いつの間にかまた同じ場所(似たような状況)に戻り、主人公はさまよい続ける。こうした反復がある種の奇妙な錯覚を伴わせる。そしてまた、作者が夢や幻覚のなかで見た(あるいはそれらから着想を得た)物語を集め、正常な意識のときに繋ぎあわせたちぐはぐな断片集。カヴァンの頭の中で沸き上がる幻想シーンのパッチワークと言えばいいのか。かといって、そのようなズレが気になるかといえばそんなこともなく、謎めいた物語をより謎めかせ、より深くその世界へと誘う要素として、読者を引き込む格好だ(面食らい、受け付けない人もまた多そうだ)。殺風景な取調室の中で、空想好きの容疑者を問いつめ、つじつまの合わない供述を次々とまくし立てたものをノートに書き留めたひとつのレポート。と見れば、きっとすんなりするかもしれない。現場のディティールや場面場面の言い表しはものすごく細かく語っているのに、肝心の動機や時系列を問いただすとどうにも焦点が定まらない。読んでいると、何か狐につままされているような感覚と確かな現実感の交錯があり、この二つのバランスが奇妙にも釣り合っている。彼女独特の文章表現が、けっこう視覚・他の感覚を刺激するものがあって、ありえない(物語の)世界に非常なリアリティを与えているのだろうなと。
そしてもうひとつ、カヴァンが重度のヘロイン中毒だったというエピソードを聞くと、これらは納得できるものがある。小説に登場する人物や散発的に展開するストーリーなどは、薬による幻覚症状のまさにそれで、登場人物像なども分裂した彼女の人格の部分・断片がそれぞれ振り分けられているのだろうなと思えてくる。テンポよく読み進めることができるのも、カヴァンの文体が引力を持っているからで、これらバラバラとしたものをうまくつなぎ止め、物語としての形をつくっている。


あらすじ
小説の主人公である「私」は、熱帯地方での調査を終え帰国すると、ある日急にこのか弱い「少女」に会わなければという衝動にかられ、彼女の住む国へと旅立つ。しかしその先の世界は得体のしれない「氷」の浸食で異常な事態となりつつあった。少女は画家である「男」と結婚をしていたが、二人の関係は冷えきっており生活は実質破綻していた。二人の元を訪れた「私」は「少女」と無事会うことができたが、その直後に少女は突然失踪する。そしてまた少女を求める旅に出ることとなる。今度は「長官」が支配権を掌握する「高い館」のある国へ。「少女」は「男」とともに館に閉じこめられていた。

滞在数日目、「私」は「長官」に呼び出されある申し出を受ける。

”この国は小さく貧しい後進国で資源もない。大国はわが国をまったく取るに足らない存在としか見なしておらず、いかなる関心も払おうとしない。そこで貴国の政府に、我々の有用性を、たとえ地理的な位置という理由だけであっても我々が有用な存在たりうるということを、納得させてもらいたいのだ。”
「氷」アンナ・カヴァン(ちくま文庫 / p76)

「長官」から有無をいわさず政府あての協定を押しつけられた「私」は、見返りに高い館のどこかにいる「少女」との面会を長官に要望する。願いはすぐ叶うも、今度は町に侵略者たちが現れ、破壊されてゆくそして「少女」はその犠牲となる。
と、こんな具合に次から次へと場面が入れ替わり話が進む。前後のつなぎ目があるようなないような曖昧なところもあり、物語として起こっていることなのか、主人公である「私」の妄想なのかがどうにもよくわからないが、その不可思議な世界に浸れることは確かで、ああこのまま「私」と「少女」の追いかけっこが果てしなく続いてくれればいいのに、なんて思ってしまう。

主人公「私」が追い求める、少女のプロフィール的なものはだいたいこんなふう:
21才。強く抱き締めたら折れてしまいそうなほど痩せている。鋭く突き出した手首の骨、アルビノの銀白色の髪は月光に照らされたヴェネチアンガラスのようにきらめく。長いまつ毛。インドリ(大型のキツネザルの名で熱帯の島に住み絶滅寸前の種)の歌が大嫌い。
「氷」アンナ・カヴァン(ちくま文庫 / p22, 36, 41)



カヴァンとデュ・モーリア、安部公房
デュモーリアの短篇に「モンテ・ヴェリタ」という作品がある(日本語訳は創元推理文庫"鳥"に収録。表題作はヒッチコックの映画「鳥」の原作として知られる。1952年発表)。おおよその話の筋は、二人の男に愛された女が忽然と姿を消し、彼女を追って男が捜索すると、女は人の寄りつかない山奥の特殊なコミュニティの巫女的な存在となっていた。というやや非現実的な話。とても冷ややかで克明な文章で描かれているせいで、より神秘感が増す。この物語の展開はカヴァンの「氷」とどこか通じるところがあって、「氷」を読んでいるときに、ふと以前に読んだ「モンテ・ヴェリタ」が思い浮かんだ。てっきり、デュ・モーリアの方が前の世代で、カヴァンの方がより現代に近い作家だという先入観をもっていたが、じつはカヴァン(1901-1968)とデュモーリア(1907-1989)はほぼ同世代、さらに同じイギリスの女性作家という共通点もある。小説に同時代性が出てしまうのか、それとも時代の雰囲気が作家という存在を媒体にして小説の中へ溶けこんでいるのか、興味のあるところ。
そしてもうひとつ、カヴァンのこの「氷(1967)」は安部公房「砂の女(1962)」と非常に共通する部分が多い。似通った点とさらにネガとポジ的な対極とも思える点があり、二つの作品には何かうっすらとした繋がりがあるように思えてくる。カヴァンと安部公房、二人ともにカフカの影響を受けているという要素は確かにある。ただそれ以上に両作品の書かれた時代・1960年初頭から後半にかけてを漂っていた世界情勢(キューバ危機を経たあとの東西冷戦下の時代。核戦争をにらむ緊張感)が、どうにも物語全体に潜む重石として居座っているように感じる。
特にカヴァンの「氷」は、文章(訳されたものだけれど)や謎めいた寓話性といった箇所にカフカの影響が相当に感じられ、最もそれがよく現れているのは、登場人物の呼称で、誰ひとりとして名前らしい名前がなく、"個人(キャラクター)"というものをいっさい排除し記号化されている。この点は安部公房「砂の女」も共通する。

カヴァンとカフカの共通項
カヴァンの「氷」では、主人公の「私」、そして「少女」「長官」「男(少女の夫で日曜画家)」が登場し、場所の名も「高い館」「政府」「この国」「町」といった呼び方になっている。一方、カフカの有名な短篇「流刑地にて」での登場人物を挙げると、「旅行者」「司令官」「士官」「囚人」等。中篇小説「訴訟」では「ジョセフ・K」「グルーバッハ夫人」「アンナ」「ビュルストナー嬢」等、この小説では主人公と関係の近い人物には名前があり、一方、主人公と相反する、あるいは直接に関係のない人物(「番人」「銀行員」「予審判事」「監督」等々)には名前が与えられてない。また、カフカでもっともよく知られた「変身」では、主人公「グレゴール・ザムザ」「妹(グレーテ)」「父親(ザムザ氏)」「母親(アンナ、ザムザ夫人)」そして「支配人」が主な登場人物になる。こうして書き出してみると、カフカの小説に登場する人物は確かに記号的ではあるが、それはパブリック・イメージなところも少し強くて、実際には、全くの記号化・匿名性があるわけではなく、個人を特定する名前はかろうじて残っている。二作家を比べると、カヴァンの「氷」に登場する人物たちの方がより無名性・匿名性が強い。
これら物語に登場する人物やモノが、ここまで記号的で漠然としていると、どしてだろう、何かとんでもなく不安な気持ちにもなったりもする。童話や民話でも同じようなスタイルで人物や動物などが登場するが、それらにある普遍性な意味合いとはまた違ってみえる。名前がないことの恐怖。これらはカヴァンの物語に漂う不気味さを支える要素としてよく効いていて、よりいっそうの非現実感を演出しているように感じてしまう。本来あって然るべき「名前」の不在、それが独特の緊張感を生む種になっているんじゃないだろうか。
しかし例外というほどでもないが、「氷」ではわずかに登場する動物たちには、かろうじて固有名詞がつけられている。セグロカモメ、イルカ、トビウオなど。他との統一感を持たせるために、鳥(Bird)や魚(Fish)としてもよかったのだろうけれども、あえてそうしなかったのには人間に対する不信というか、そういったものがカヴァンの中にあったんじゃないかと思えたり。

カヴァンはこういった手法を意識的にやっていたのか無意識のうちにそうしていたのかはわからないが、結果的に物語の不可思議な内容とリンクし、読者により強く非現実感を与えているように思う。映画でも、同じ様な例がある。007シリーズの「Q」や「Men in Black」の「J」や「K」なんかは、まさにそうだ。こうした記号的な名前は秘密めいたところがあり、何か特殊な任務につく素性のよくわからない人物や組織といったものを連想させるのに、やはり向いている。固有の名前を排除することは、人の'個'の存在を失わせよりミステリアスになる。

カヴァンと安部公房の共通項と対比する点
一方、安部公房「砂の女」に登場するものは、主人公の昆虫採集家である「男(途中、名前が明かされるが、話中では終始この呼び方・既婚)」、「女(死別した亭主がいる)」「老人」、「部落」「組合事務所」、とカヴァン「氷」と同じくほぼ "個" というものが排除されている。ただ、人物とは反し、物語の導入部で重要な要素となる昆虫にはほんとどうでもいいくらいの子細な名称(それも俗称なんかではなく、普段使うことのないだろう学術名)と記述がある。「鞘翅目ハンミョウ属・ニワハンミョウ」や「直翅目・コバネササキリモドキ、ヒゲジロハサミムシ」などなど。虫(生物)に対するこのディティールへのこだわり、差は一体何なんだろう(カヴァンの「氷」で動物にだけ名前が付けられているのと同じだ)。

物語のなかでは主人公(「氷」での"私"と「砂の女」での"男")とほぼ同じくらい重要な準主役である女性("少女"と"女")は、既婚ではあるが実質(夫・亭主との間に)夫婦の関係はない。追い求めるものがすでに誰かの所有(という言い方はあまりよくないかもしれないが)となっていて、中心人物の人間関係に障壁がひとつ存在しているという構図の共通項はなかなかおもしろい。カヴァンの場合、実生活では再婚と同時に名前を変えていたので、プライヴェート・ライフとの関連は多少影響しているのように思える(といっても「氷」の執筆は晩年になってからになるので過去体験が尾を引いているのだろう)。一方、安部公房は家庭を置いて、舞台女優・山口果林との関係にのめりこむのは、もう少しあとなので、この「砂の女」の執筆時点では、さほど私生活の延長に書く材料があったわけではないようにみえる。

また、カヴァンの「氷」と「砂の女」、対比する面として、
氷は液体の結晶化・固化したもの(カヴァン「氷」)であり、砂は大きな岩石が時を経て砕け散り、最後の形態(最もミニマルな状態のもの)となったものだ。「氷」は形の不確かな状態だった水が一つの形にまとまったもの、「砂」は反対に一つの固まりが崩壊した様。

「(小説の)氷」では「私」が「少女」を求め追いかけてゆき、途中「私」は「少女」についての審理にかけられ、その後ようやく二人は一緒になり、今度は二人で(得体しれない)氷の恐怖から逃れるところで話は終わる。ある一定の温度を保たなければ形態を維持できない'氷'は、登場人物の不確かな人間(恋愛)関係の含みとしてみることもできる。
「砂の女」では「男」が砂に埋もれた家に住む「女」から逃れようとし、何度か逃亡を試みるも村人たちに捕まり詰問を受け、そのうちに「男」は精魂つきはて、最後には観念したかのように、その砂の世界で女と共に安住することで落ち着くというもの。ここにいるべきではないという「男」の強い意志が、一面砂だらけの世界の中でゆっくりと砕け、最終的には自分もその砂の一つとなってとけ込んでいく。

現在の小説・物語では、こういった抽象的かつ無名性を帯びた人物が主人公として登場することはほとんどないように思う。むしろ詳細なディティールを持って描かれ、話の中で動いている。と、時代背景や当時の社会状況とのつながりに触れてみなければと気づいたけれども、今回はここで力尽きてしまったため、また気になったときに書いてみたい。


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2016年01月17日

冬の4冊(お気に入り本シリーズ)

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一昨年あたりから急に、時間の進み方が倍くらいになったような感覚がある。あまり手つかず、たいして物事が進むこともなく過ぎ去っていく日も多い。これまで無制限にあるように思えたのに、少しずつ使い方を分けていかないといけなくなった。「はたして、いま、これをするために自分の時間を使ってもいいんだろうか?」といった風に。自分が何かをするための優先順位の付け方に「時間の使い道」という項目が入り込む。価値観の尺度がお金や、数量、といったものではなく「時間」の単位が少しずつ幅を占めはじめる。これをするのに一時間をかけるなら、もっと別なことにその一時間を割り当てた方がいいだろう、なんて。こうして、やるべき事とやらないでもいい事の間に線を引き、より分ける。Knock, Knock...決して「灰色の男たち」が忍び寄ってきたわけでもない、これは僕の内側の問題。時間が減ることはあっても、増えることはない。いったいどう解決していいものやら、一度アインシュタインに尋ねてみたいんだけど、天国直通の電話番号って何番だっけ? え? 空の上はオフライン? 
さて、この先いったい、どれくらいの本を読むことができるんだろうか? 本というのは知らないことを教えてくれるものでもあるが、一方、時間を吸い取る紙の束でもある。読むべきものをしっかりと見極めないと、なんて思いながら一冊一冊を吟味するようにもなった。もちろん読んでみるまではわからないし、読み終えてしばらくは、その良さがわからない事だってある。手助けになるのは、僕の場合「文体」だ。いい文体のものは、たいてい手応えがあって結果中身もよい。この逆はない。ま、「文体」の善し悪しは個人の好みに大きく左右されるので、なにがいいのかなんていうことはできないのだけれど。


「入門 経済思想史・世俗の思想家たち」ロバート・L・ハイルブローナー(ちくま学芸文庫)
経済学者あるいは思想家・哲学者たちの理論や思想が、どういうふうに社会に作用し、また変革をもたらしたのか、歴史を振り返りながら読み説いてゆく。といった内容。イギリスの穀物法とフランス革命、そしてアイルランドのじゃがいも飢饉のあたりを調べていたときに知った本。日本版のタイトルには「入門」と付けられているが、この二文字は誤解を招くのでいらないのでは? と思うほど、しっかりと、まぁたしかに分かりやすくは書かれている。特に十八世紀から二十世紀あたりまでの、社会体制・国家体制の土台になる部分が見えおもしろい。今の時代、ネットインフラがどういう形で、既存の経済のシステムを壊し(改変し)、国家等の共同体を変化させてゆくのかを先読むのに参考になる。人の行動というか、根元的な欲求はそう変わらないだろうから、ここ数世紀の間に起こった緩やかな世界の流れを身につけるにはとてもいい。


「コロンブスの犬」管 啓次郎 (河出文庫)
なんともユーモラスなタイトル。これぞ、言葉のパラDOGsな感じで本の名前は特に印象に残る。はじめは軽い旅行記エッセイかなと思って読み始めた。ところが、この本すごく深い。読者は、旅について、あるいは旅から派生した出来事などを語る著者の思考の中に入り込み、今度はそこから続く読者それぞれの旅が始まる。という感じになってゆく。読んでいるあいだにも、思考というかヴィジョンがあちこちにはじけるようで、すごく気持ちがいい。疾走感というよりも、「風」。沢木耕太郎の「深夜特急」のような生真面目さでもないし、藤原新也の「インド放浪」や「チベット放浪」のような重量感でもない。いい意味でほんと軽い、いや軽やかだ。海でひと泳ぎし、砂浜の涼みに入ってごろんと寝ころんだときのような至福感。そういったものに近い味わい。アジアの陰影でもなく、ヨーロッパの歴史を引き受けたものでもなく、アメリカの無味乾燥としたものでもないし、アフリカの純朴さでもない。南米の持つイリュージョンというか、光を浴びすぎて肉体に重力がなくなるような不思議な感覚が、言葉にも表れ作用しているように思える。テグジュペリの「人間の土地」と近い感触のある −読むたびに、そして自分の成長と重ねる度に受け取る意味がきっと変わってくるのだろう− 旅の記録。とても素敵な一冊。これは数ある旅本で一番好きな本になった。近いうちに、「旅」「写真」とを絡め、この本について少し書いてみたい。
本の中に、いい言葉がたくさんあるのでいくつか紹介。

 もしも<ヨーロッパ>がなかったら、この世界はどんなものだっただろう? この設問も古いものだ。地球はずっと平和でしあわせだった、かもしれない。
「コロンブスの犬」より (23章 p102 / 河出文庫)


 外国語において、誰もが若返る。老人もこどもになり、商社員も中学生になる。<若返りの泉>がほんとうにあるとしたら、それは母国語のつうじない土地だけにあるはずだ。
「コロンブスの犬」より (46章 p179 / 河出文庫)

他言語を覚えるときは、子供の時に戻ったかのように、一から単語を覚えていかなければならない。たどたどしく発音し、文法や変化の法則などを学んでゆく。ロシア語を学びはじめたばかりの日本の大学生は、ロシアの子供とほぼ同じ。著者はそこに時間軸を絡め、成長の縦軸横軸としてつなげている訳だけど、こういう発想は旅をしているときにふと感じるものなんだよなと。旅先で出会い感じたことに対し、いかに考え、そして自分自身に問いかけているのかがわかる文章だった。


「神秘学概論」ルドルフ・シュタイナー(ちくま学芸文庫)
一歩間違えば、というよりももうすでにというべきなんだろうか、オカルトっぽい素養が少しどころか多分にあるように思えてしまう。おお、確かにそうだ。なんて相づちを打っていると、途中どこかでポイントが切り替わって不可思議な世界へ飛んでいくんで、正直よくわからないところもある。この本を読もうと思ったのは、シュタイナーの思想論に興味があるからではなくて、霊や魂・自我・意識等、これら形のないモノ、そして存在・証明することの非常に難しい事象・事柄をどうやって言葉で表現しているのか、というところだった。宇宙の持つ、あるいは地球上に存在する生命すべてにつながる「(大きなひとつの)意志」のようなものは確かにあるようには思えるけれど、そういったものの放つ信号を人が受け取り、感覚器のどこかでちゃんと理解しているんだろうか等、いろいろと考えてしまった。表層的なものではなく、ヨーロッパのひとつの極だから、そういう点でも興味のあるところ。


「見るまえに跳べ」大江健三郎(新潮文庫)
いつかは読まなければと思いつつ、なかなか興味が向かず、読む機会のなかった大江健三郎。今回が初。「万延元年のフットボール」は一度トライしたのだけれど、けっこう密な文章にページが進まずあきらめてしまったが、この短編集は、そのイメージが取れるほどすごく読みやすいものだった。テーマと文体が合っているというか、骨と肉付きのバランスがすごくいい、血の通った文章。金子光晴や中上健次と通じる動物臭がある。

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2015年12月02日

集英社文庫ヘリテージシリーズのカフカ



新宿紀伊国屋さんのレジ前に、見慣れないカフカの文庫があったので気になった。しかもすごくぶ厚い。こんなの出てたっけ? と手にとり、はじめて見る表紙カバーのデザインフォーマットに興味がいく。「集英社文庫ヘリテージシリーズ」という海外文学モノの新しいシリーズらしく、第一弾がカフカ(ポケットマスターピース 01)だった。「火夫」「流刑地にて」「訴訟」なんかの名タイトルが入っていてけっこうお得さがある。昔は箱入に入った「世界文学全集」みたいなもの(本棚に飾っておくのが目的な感じ)がたくさん出されていたみたいだけど、今は文庫というスタイルが合っているのかも。バルザックや柴田さん編のマーク・トウェインがこれから出るみたいで楽しみ。フォークナーで絶版になってるやつとかも出して欲しいな。熊とか。
光文社古典新訳で「書記バートルビー」が出てたのにはビックリした。


集英社文庫ヘリテージシリーズ
http://www.shueisha.co.jp/pocketmasterpieces/


・個人のツィートにオフィシャルが絡む時代なんだなと、ネット時代の不思議な構図。



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2015年11月09日

「十八世紀パリ生活誌」メルシエ



 パリの泥は、絶え間なく振動する無数の車から絶えず剥落してくる鉄の分子を含んでいるので、当然のことながら黒い色をしている。それに台所から水が流れ込むので、臭くなっている。パリの泥は、外国人には我慢できないほどの悪臭がするが、それは泥にしみこんでいる多量の硫黄や硝石塩が原因であり、泥のしみがつくと、布地は腐蝕してしまう。
(街灯 / p124)


 ほとんどすべての教会の中で、死体の臭気がする。そのため多くの人々が遠ざかって、もはや教会に足を踏み入れようとしない。

 さらにもっと信じがたいことだが、若い外科医たちが、解剖の練習のために死体を盗み出したり、買い取ったりするが、その死体がずたずたに切り刻まれて、便所の穴に投げ捨てられることもよくあることだ。

(腐った空気 / p128 - 129)


 パリでは人々は貧乏であればあるほど、ますますたくさんの犬、猫、鳥等々を飼って、狭い部屋の中でいっしょに暮している。そういう動物の臭いが、入る前から臭ってくる。大部分の人々は、警察の禁令にもかかわらず、むさ苦しい住居の中でたくさんの兎を育て、道端で拾い集めてきたキャベツの葉っぱで養っている。あとでその兎を食べるのだが、この食物のために彼は顔色が青ざめ、黄ばんでしまう。彼らは悪臭を放つ種族と暮し、それを食卓にのせようと、わざわざ増やしている。
(閉じこめられた動物 / p140)


 畜殺場は、市外や町はずれにあるのではなく、中心部にある。血が街路を流れ、君の足元で固まり、君の靴は朱(あけ)に染まる。通りがかりにとつぜん、憐れみを乞うような牛の鳴き声にどきりとする。
(畜殺場 / p142)


 ぶどう酒とおなじように、牛乳も混ぜ物をされる。水で薄めるのである。村の女も、公衆の信頼を裏切ることにかけては、都会の女と変りがないようだ。
 税金と混ぜ物のために、民衆が何を飲んだらいいのか分らなくなり、コーヒーが異常に好まれるようになってからというもの、この牛乳の消費は厖大なものになった。

(牛乳売りの女 / p236 - 237)



「十八世紀パリ生活誌 ―タブロー・ド・パリ―(上)」メルシエ著(原宏・編訳)、より
岩波文庫
"Le Tableau de Paris" by Louis-Sébastien Mercier
https://fr.wikipedia.org/wiki/Tableau_de_Paris




十八世紀後半のパリの様子を描いた本ですごくおもしろかった。フランス人ならではのユーモアや皮肉を織り交ぜつつも、きわめて冷静な観察眼で書かれていているせいか、ふっと当時の街角にまぎれこんでいるような錯覚にもなる。
この本は1781年に刊行されると瞬く間に大人気となって、すぐに続編が出され1788年までに全12巻が刊行されたのだそう。当時でいうベストセラー・シリーズだった模様。フランス革命が起こる直前の時期だけに、この時代のフランスや大衆がどんな雰囲気だったのかがわかる資料としてもとてもいい。全12巻1,052章ある中から219章を抜粋した約1/5が、この岩波文庫の上下巻に収められている。どの章も、いいことはほとんど書いておらず、ただひたすらネガティヴな眼差しの記述ばかりなのに人気があったというのはどういうことなんだろう? よっぽどパリジャンは自虐的なことに喜びを感じるんだろうか。きっとこの本に書かれていることが事実であり、真を突いていたからこそ支持を得て、一種のガス抜きになっていたんだろうな。革命が沸きおこる素地はすでに(批評精神を持つ)民衆の中に潜んでいた、という証明になっているようにも思える。

下巻のコンディションが悪かったので、今度新品で買おうと、状態がましだった上巻だけを買ったのだけど、うちに戻ってから調べてみると今は上下巻とも絶版になっていた。地味に売れてそうな感じがしたのに残念、Wantリストがまた増えてしまった。本の読み方は人それぞれだけど、扱い方って性格出るよな、と思う。ビブリア古書堂の栞子さんじゃないが、目の前にある古本をみて前所有者を漠然とだけど想像してみたり。人の手をいくつか経たものにはやっぱり小さな歴史がほんのちょこっとだけ刻まれるんだな。

それにしても、この時代のパリの劣悪さは尋常じゃないと思わせるエピソードばかり、現在の中国ともそう変わらないなと、まぁ人間の生活なんてそう違いはないのかもしれない。経済や技術の発展ともに順繰りに文明化していってるということになるんだろうか。日本では江戸時代の中期から後期にかけての時期にあたり、元号では天明、第十代将軍の徳川家治が治めていた。といっても、歴代将軍の中でもさほど有名ではないからあまりピンとこないが、田沼意次が実質幕府を主導していたあたりと聞けば、なんとなくこの時代の日本がどうだったのかも思い出せそう。たしか江戸の街は世界的にみても清潔で、進んでいたんだったかな。三浦哲郎が「おろおろ草紙」の中で、天明の大飢饉の東北地方の悲惨な様子を描いていたのを思い出した。
現代に少し飛ぶと、日本は1980年代以降から、国営企業が民営化していく過程で、サービスがどんどんよくなっていった(過剰なほどに)。必要なものはほぼ全ての家庭に行き渡り、製品を作れば売れるという時代ではなくなってきた。消費者の声が少しづつ反映され力を持つようになる。基本的な機能・性能のほかにデザインやサービスといった付加価値が求められるようになった。それもあってか鉄道会社はじめ大企業の姿勢に気持ち悪いほどの"媚び"が目立ち、昔あった横柄な面影がまったく影を薄め、こういった傾向がしばらくの間続くと、わりとその時代を経た大人も皆すっかり、そういった過去を忘れている風でもある。子供のときは国鉄(JR)とか乗るのがほんと怖かった。駅員も乗客も、駅や建物なんかも鈍重でどこかくすんでいて、心に迫る圧迫感のようなものが漂っていた。不快さやイヤだなと子供ながらに感じていたことが多かったけれども、時間を経ると以外とそういったものの方を良く覚えていたり、懐かしさを覚えたり、人の記憶って不思議なものだ。


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2015年11月01日

青空文庫の、ラヴクラフト作品が増えていた!


H. P. ラヴクラフト - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person1699.html

そんな頻繁にサイトを見ているわけじゃないけれど、そういえば、 ラヴクラフトの短編がひとつ青空文庫で訳されていたなぁと思い出し、「もしかして新たに訳されているかも」なんて若干の期待をしつつ見てみたところ、10月中旬にいくつか更新されていた。現在5タイトル。ネットならではの資料リンクや画像が巻末にあって楽しい。ラヴクラフトの小説は、妄想の強さとパラノイアックな文体が強烈なため、あんまり長く浸っていられないところがある。短編くらいの文量がちょうどいい。ラヴクラフト(1890 - 1937.March)と夢野久作(1889 - 1936.March)は、生まれ・没年がほぼ同時期の不思議。共に奇怪な物語を書いていたところも、面長な顔も良く似ている。


「時間からの影」 / The Creative CAT 訳
(The Shadow Out of Time)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では3巻に収録。大瀧啓裕訳。


「チャールズ・デクスター・ウォードの事件」 / The Creative CAT 訳
(The Case of Charles Dexter Ward)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では2巻に収録。宇野利泰訳。
短篇というより中篇くらいのボリューム。


「ニャルラトホテプ」 / 大久保ゆう 訳
(NYARLATHOTEP)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では5巻に収録。「ナイアルラトホテップ」大瀧啓裕訳。


「ピックマンのモデル」 / The Creative CAT 訳
(Pickman's Model)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では4巻に収録。大瀧啓裕訳。


「闇をさまようもの」 / The Creative CAT 訳
(The Haunter of the Dark)
・創元推理文庫版「ラヴクラフト全集」では4巻に収録。大瀧啓裕訳。


LibriVox
https://librivox.org/collected-public-domain-works-of-h-p-lovecraft/
原文はこのサイト他、いくつかあり、そこで読める。


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2015年08月09日

レトロなブックカバー vol.2「倉橋由美子短篇集」

Book-倉橋由美子短篇集.jpg

新潮文庫から出ていた倉橋由美子さんの短篇集は、野中ユリさんという作家のフォトコラージュによるカバー・デザインで、これがほんと小説のイメージとぴったり重なり個人的に好きでいる(池澤夏樹「夏の朝の成層圏」のカバーも野中さんの絵)。倉橋さんの論理的な文章、有機的な言葉の表現、そして記号にまで抽象化した登場人物による物語の描き方が、野中さんの作風とうまく合っている。現在は「パルタイ」以外のタイトルは絶版になっていて、その「パルタイ」も新装カバーになっているため(改版され中の文字も大きくなり読みやすくなっている)、旧カバーデザインのものは新品では買えず、古本屋で気長に探すしかなかった。倉橋さんは1960-70年ごろにかけて人気があり、文庫本も幾版かを重ね部数は出ているので、本自体はそう珍しいものではない。いわゆるコレクターの対象ではなく、古本屋をのぞいていればときおり棚に並ぶし、値段も安い部類に入る。たいてい100円から250円ほどである。ただ、やっぱりコンディションのいいものがなかなか見つからない。カバーは綺麗でも中の本が傷んでいたり、本は綺麗だがカバーがしわくちゃだったりと、良い状態のものを目にすることがけっこう稀だった。地道に探すこと幾年か、ようやく四種類揃った。今の時代、ネット検索をすればダイレクトに探すこともできて、もっと早く手に入れることもできるだろうが、僕は本との偶然の出会いも楽しみたいので、できるだけ古本屋に通って見つけるようにしている。
そういえば野中ユリさんカバーによる倉橋さんの文庫シリーズは、何種類くらいあるんだろう? 「暗い旅」があるのは見かけたので知っているくらいで、あとは知らない。「暗い旅」は今、河出文庫から出ているものを持っているから、そう急いで欲しいわけでもなく、いい状態のものが出てくるのをゆっくりと待つ感じでいい。そろそろ全集とかで復刊してほしいな。


●「パルタイ」
●「ヴァージニア」
●「妖女のように」
●「婚約」
カバー / 野中ユリ



■ 文庫で読む倉橋由美子の世界
http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page018.html




Past Logs / 「レトロなブックカバー」シリーズ /


久生十蘭「昆虫図」他 (2014-06-24 14:00)
その昔、レコードのジャケ買いをよくやっていた。ジャケがかっこよければ、多少音楽が好みに合わなかったとしても特に気にすることもなかったけれど、本の場合はやっぱり中身が自分の求めるものでないと、いくら表紙が良かったとしてもあまり買う気にはならない。それでも、表紙のデザインが良いと、手に取って見るきっかけにはなるので、いいデザインにこしたことはないと思う。ただ、"いいデザイン"とひと言でいっても感覚的な要素が大きく、また個人の好みもそれぞれ異なるため、明確な定義をするのは難しい。ぼくが好きなのは、マックを使ってレイアウトされた最近のものよりも、手描き感を感じるもので、(デザイン的に)多少テキトーなところが残っている方が心地いい。

上にある四冊の本は、表紙カバー、内容ともにとても好きなもの。久生十蘭「昆虫図」は、ぼくが初めて久生十蘭(Hisao Juran)という作家を知るきっかけになった一冊。ここから久生十蘭にハマっていった。背表紙にある「昆虫図」というタイトルにまず目が反応し興味をもつ。本を棚から取り出し、表紙を眺めると中央に描かれた女性像(?)と「昆虫図」というタイトルの組み合わせが、どうにもインパクトがあって想像力というか奇妙なものを発見したぞ! というワクワク感が頭の中を駆け巡った。「何だこれは?!」というのが、この本を見たときの第一印象だった。ブックカバーの絵柄が、この本を買うきっかけになった。ペレリマン「おもしろい物理学」は本当におもしろくて、身近な話題から物理学を学べるいい本だと思った。江戸川乱歩の小説に出てくるトリックのような、わかりやすい科学話に親近感を覚えたりする。文中には、ジュール・ヴェルヌの冒険小説や、H.G.ウェルズなどの小説、歴史の話題を引用したりして、文系な話題で読者の興味を引き理論や法則などと絡めながら書いている。

「昆虫図」と「おもしろい物理学」は現在絶版、「地球幼年期の終わり」の現行版は表紙カバーが変わっている。「ようこそ地球さん」の現行版は、表紙は同じデザインだが裏表紙が白地にバーコードという新潮文庫のフォーマットに合わせた形になってしまった。旧カバーのものは裏表紙にもイラストが印刷されていてとてもファンシー。

●「昆虫図」久生十蘭: 装丁 / 司 修
●「ようこそ地球さん」星 新一: カバー / 真鍋博
●「地球幼年期の終わり」アーサー・C・クラーク(沼沢洽治・訳): カバー装画 / 真鍋博
●「おもしろい物理学」ペレリマン(藤川健治・訳編): カバーデザイン / 三輪しげる




Metamorphosis -Franz Kafka.jpg
■ "The Metamorphosis" Franz Kafka (W. W. Norton & Company, Inc.)
フランツ・カフカ「変身」
http://books.wwnorton.com/books/The-Metamorphosis/
ドイツ語の翻訳者(独英)、スーザン・ベルノフスキー(Susan Bernofsky)さんによるカフカ「変身」の新英訳。デヴィッド・クローネンバーグが序文を寄せている。「W.W. ノートン&カンパニー」という出版社(初めて聞いた名前)から出ている訳本。それにしてもこのカッコイイ、ブックカバー・デザイン! 虫をイメージしたタイポグラフィが本当に見事で、物語ともリンクしている。最近見た本の表紙では一番感激した。これまで、英文で小説など読んだことはないけれど、この素敵な表紙を見ているとちょっとチャレンジしてみたくなる。
原題はドイツ語で「Die Verwandlung」

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2015年07月16日

中条アミのオススメ文庫:「建築探偵術入門」東京建築探偵団

Book-建築探偵術入門-Jul-2015.jpg
「建築探偵術入門」東京建築探偵団 / 文春文庫

中条アミ 「東京近郊にある古い西洋建築を紹介した本。これを見ながらカメラを手に、東京の街を散策したらきっと楽しさ広がると思う。欧米の建築様式を真似てつくったとしても、やっぱりその土地の文化が出るものね。東南アジアのコロニアル建築や、旧満州で日本人が設計した建築・鉄道施設なんかも巡り歩いたらきっと面白いだろうな。"満州国合同法院"とか"旧関東軍の司令部"とか、日本の建築遺産と言っていいのかも。鉄道発祥の国イギリスが南アジアで構築した鉄道網、日本が満州の地に張り巡らせた鉄道網、二つを比較しながら資源貿易、人民統治に対する考え方が見えてきたりして。じゃーん、題して"クレオール建築"を歩く! なーんてね。写真って何かテーマを決めて撮ると、ぐんといいものになるのよね」



Past Logs / 中条アミのオススメ文庫シリーズ /

Book-Calvino-不在の騎士.jpg
「不在の騎士」イタロ・カルヴィーノ(米川良夫/訳)河出文庫
"Il cavaliere inesistente" Italo Calvino

中条アミ「ふu〜。面白くて一気に読んじゃった。あたし、修道女になろっかな」


Past Logs / おすすめ本・シリーズ /
■ 2015-02-28 09:00

「巨匠とマルガリータ」 ブルガーコフ
ずっと気なっていたものの、ボリュームの長さにちょっとたじろいでしまっていたブルガーコフの代表作。ようやくというか、やっと読む気になった。キリスト教文化だったり、当時の社会体制などの背景をもっと理解していないと、物語の面白さがわかりにくいので、今の僕の知識では大筋の流れをつかむことぐらいしかできない。何度か読んでいくうちに作品の深みがわかってくる、という感じがした。といっても、明瞭かつ丁寧な文章表現なので読みやすく、素直に楽しめる。
この本は、ロック好きにとってはとても大事な一冊だったりする。ストーンズの代名詞といっていい「悪魔を憐れむ歌(Sympathy for the Devil)」はこの小説にインスパイアされ歌詞が書かれた、ということが、わりと最近のドキュメンタリー番組か何かの中で語られ、広く知られるようになった。何でも、ミック・ジャガーの当時の恋人マリアンヌ・フェイスフルが、(英語訳で)出版されたばかりのこの小説をミックにすすめたのが、きっかけだったとか。このときミックは23歳。「ミック、素敵な本があるから読んでみて、長く封印されていたロシアの作家のものよ」「(パラパラッとめくり)黒魔術や詩人が出てくるんだね。ありがと、読んでみるよ」みたいな会話があったのかどうかはわからないけれど、半世紀たっても色褪せない音楽(&詩)をつくるには、読むべきものをきちんと読む感性を持った人じゃないとできないのだな、とか思ったりして。

「絶望」 ナボコフ
ナボコフのメタフィクション・ミステリーといった感のある小説。ほんと惹きこむ文章を書く作家だ。ピンチョンと平行してこの本を読んでいたから、すらすらと読みやすく、「重力の虹」は数ページしか進まなかったのに、その間に一冊読めてしまった(3日ほどで)。そういえばピンチョンはナボコフの講義を受けていたとかいないとか、そういう話もある。

「錯乱のニューヨーク」 レム・コールハース
すごい有名な建築家なのだけど、僕は知らなかった(中国中央電視台本部ビルを設計した、といえばああれかとわかる)。都市と空間につての本を探しているときにこれを見つけ興味をもった。ニューヨーク、マンハッタン島と摩天楼、都市計画と文化や歴史を、宇宙人が語っているといった趣で、この人の思考の飛び方が実に不可思議。語るポイントの点と点、これらをつなぐ線がどこかおかしい。非常に感覚的な感性と論理性がうまくブレンドされているところが、魅力的だった。



■ 11-12月、面白かった本(2014年12月08日)

「夢の遠近法・初期作品選」 山尾悠子
文学の世界はやっぱり奥が深い。まだまだ知らない作家がたくさんいる。先月、ちくま文庫から出た山尾悠子さんの「夢の遠近法」という本は、見た瞬間、ほんとハッとするものがあった(置かれていた本が、ほのかに発光しているように見えた)。著者、山尾悠子さんという名を聞いたのももちろん初めてで、伝説になっていた同名の単行本が刊行されていたことも全く知らなかった。謎っぽい存在がまた興味をひく。
たまたま待ち合わせ場所に早く着いてしまったとき、目の前にあった本屋さんで時間を潰そうと立ち寄った際に、偶然目にした一冊だった。文体と描かれる世界観がとても素敵で、"目が文字を追う"のではなく、"文字が目を吸い寄せる"、そういった感覚になってしまう。ジャンルでいうと幻想文学の中に入るもの。倉橋由美子さんをもう少し世俗的にしたような感じで、倉橋さんのような緊張感はないけれど、やわらかな陰影のある絵画的な文章が想像力をかきたててくれる。この本、保存用にもう一冊買いたいくらい、おすすめの中のもう本当オススメ。三十年以上も前に書かれたものなのに、まったく古さを感じない。こういった本が出されるうちは、まだ日本にも文化的なものがあるのだなと嬉しくなる(いっときの流行モノばかりを追いかける人ばかりではないんだなと)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B0%BE%E6%82%A0%E5%AD%90

「トポフィリア・人間と環境」 イーフー・トゥアン
もう一冊、イーフー・トゥアン「トポフィリア」、こちらもすばらしくいい。簡単に言えば、文化人類学と環境・地理学が合わさったようなことが書かれている(かなり範囲は広い)。人と文化、文化と環境・地形、そういったものが人の行動にどう影響し、また長い歴史の中ではぐくまれてきたのか、といったことを様々な角度から見、着眼点というか人の思考のあり方ってほんと深いんだなぁと関心してしまう。といっても、専門的な特に難しい言葉は使われてないので、非常に読みやすい。五年後、十年後に読んだときに、自分の見方がどう変化しているのか、といったことにも興味がもてる一冊になりそうだ。風景や都市の写真を撮る上でも、きっと参考になるように思えた。撮り手の位相、視覚の言語化ということを意識するようになり、写真を撮る行為の裏づけがより明確になると思う。今頃になって、港千尋さんや普後均さんの写真の面白さがわかりはじめた。



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2015年03月25日

「遠い太鼓」村上春樹、より



 二十年前ならともかく、年間何百万人という日本人が外国に出かけるこの時代に、今更ヨーロッパ紀行でもあるまいと僕は思う。だからここには啓蒙的な要素もほとんどないし、有益な比較文化論というようなものもない。僕がスケッチを書き始めたそもそもの目的は、ひとつには異国にあって知らず知らずどこかにぶれていってしまいそうになる自分の意識を、一定した文章的なレベルから大きく外れないように留めておくことにあった。自分の目で見たものを、自分の目でみたように書く−−それが基本的な姿勢である。自分の感じたことをなるべくそのままに書くことである。安易な感動や、一般論化(ジェネライゼーション)を排して、できるだけシンプルに、そしてリアルにものを書くこと。 (中略) でもいちばん大事なことは、文章を書くという作業を自らの存在の水準器として使用することであり、使用しつづけることである。

「遠い太鼓」村上春樹、より
"遠い太鼓−−はじめに" 講談社文庫(p22-23)



1986年から1989年までの間、村上さんが小説を書くため、日本を離れギリシャとイタリアに滞在したときに書き留めた記録(スケッチ)を、一冊の本にまとめたものがこの「遠い太鼓」。約560ページ強と、旅行滞在記にしてはけっこうボリュームがあり、密度も高い。でも、さらさらと読め、あっという間にページが進む。
この長い海外滞在期間に、村上さんは二つの長編小説を書きあげた。ひとつはベスト・セラーとなった「ノルウェイの森」、もうひとつは「ダンス・ダンス・ダンス」(また、本の中にでてくるエピソードの一部は「スプートニクの恋人」に、ほぼそのまま組み込まれている)。この二作がどんなふうに生まれたのか、といった背景なんかも少し見えたりして、制作日記的な読み方でも楽しめる。当時は、インターネットはまったく普及しておらず、電話やファックス、あるいは郵便でのやりとりがちょこちょこ文中に登場し、ひとつの時代を感じてしまった。今は世界中のどこにいようとも、写真や動画をつけて瞬時に、その場で起こっていることが伝えられる時代だが、そういう世界のなかで過ごしながらも、ふとしたときにこの本を手にとり、読み直す。日々技術進化し続けるメディアやツールとは対極にある紙の本。書かれてから25年近くも経っているのだから旅情報としての鮮度はもちろんないが、なぜだろう毎度面白く読める。言葉による杭は、時代に流されはしないということなんだろうか。




 一番前に座っていたギリシャ人のおばさんが「あんた、あんたが飲んでるのワインだろう?」と運転手に向かってとがめるように言った。「水だよ、水」と運転手は笑って誤魔化していたが、そのうちに「ばあさんも飲みなよ」といってグラスにワインを入れ、チーズを切っておばさんに差し出した。そしていつの間にか我々乗客を含めたバスの中の全員が前に集まってワインを飲み、チーズを食べているということになってしまった。車掌はほろ酔い加減で、鹿の皮でも剥げそうな鋭いナイフを使ってチーズを切ってみんなに配るのだが、バスが揺れるとナイフの刃先が一番前の席に座った英国人の老夫婦の鼻先を行ったり来たりするので、彼らは肩を寄せあい、こわばった微笑を浮かべつつ冷汗を流している。運転手はもう路面なんか殆ど見てもいない。

"ミコノスからクレタ島に行く・酒盛りバス101号の光と影"
講談社文庫(p297)



村上さんは旅行記ものを何冊か書かれていて、それらを読むと村上さんの文章の上手さがとてもよくわかる(「遠い太鼓」がやっぱり、一番面白い)。それは決して、技巧的なものではなく、そのときに見た光景や出来事、思ったこと、抱いた感情など、著者の"視点・観察力"が言葉としてうまくパッキングされているという点で。一見何気ない描写も、ほんとうに注意深く見ているからこそ、味わいとして出る。力みがない(ようにみえる)文章は、読む方にとっても心地よく、また情景も浮かびやすい。そのせいか、すっと馴染むものがある。

インターネットの中にも、いろんな人たちの書いた旅行記が数多くあり、ヒットしたときは時々見たりたりするんだけれども、残念なことに、そのほとんどが「行ってきました・体験しました報告」に終始していて、書いている当事者と直接つながりある人以外にとっては、何の関心をもひかないものばかりだったりする("えんそくの作文"を添削する教師の心境がどういったものなのか、ある意味疑似体験できてしまう)。「Look at Me」。でも、中にはちゃんとしたものや、ハッとさせられるものがあって、そんな記事に遭遇するとやっぱりいいなと思う。で、よくよく読んでいくと、それを書いた人たちというのは、たいていはジャーナリストだったり、研究者、あるいは何かの分野に長けた(マニアックな)人たちの書いたものだったりする。自分のまなざしを持ったひとたち。彼らが自分の視点を通し綴った言葉は、上出来のワインのように、時間が多少経過したところで味わいが落ちることなんてないだろう。
自分の"若く未熟な衝動"を、表に出すことはとても簡単だが、何を伝えたいのか、そのためにはどうすればいいのかを、自分の中で一度消化する大事さもまた必要なことだと改めて思う(まだ十代・二十代の前半くらいなら、かわいいものだけれど)。頭の中に渦巻くいろんな思いを、一度言葉に置き換え、粗熱をとってみる。テロワール(本人の資質)と、その地に根ざしたブドウの木(知識や経験)、畑の管理(努力・継続性)、そこに吹く風や気候(時代の流れ・外部環境)、これらが合わさり仕込む葡萄ができあがる。それに想像力という酵母が発生すれば、ひとつのワインが誕生する。

良い本は学べるものがとても多い。


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