2017年08月03日

奇妙な夢はペトリコールの香りに消える(太陽の都シリーズ)


不定期連載 web 小説 "太陽の都" シリーズ、前回「一本の電話」からの続き。
紙片収集家のダスティン・フーヴァー氏からの依頼で、彼を取材することになった「ビロビジャンの月」編集部に勤める記者フーダレイ・ハウワット。取材を控えた当日の章です。


一本の電話
http://tavola-world.seesaa.net/article/449888314.html




フーヴァー氏に取材する日の朝、フーダレー・ハウワットは自分が丸い小さな石ころになっている不思議な夢から目覚めたところだった。ベッドの横では恋人のペトリコールがすやすやと寝息をたて、まだ気持ちよさそうに眠っている。きっと雨上がりの緑きらめく広い草原のなかで、大好きなサクランボを頬張っている夢でもみているのだろうと思った。彼女の肩に顔を近づけ首筋に口づけたあと、耳元にそっと息を吹いてみせる。柑橘香料の混じったローズウォーターの甘い香りと、辛い汗の味を同時に感じた。まだトップノートがほのかに嗅ぎとれ、野生臭が現れるまでには至ってない。自然と鼻先が香りの溜まった鎖骨のくぼみへと向いた。彼女が首につけている細い金のネックレスが朝の柔らかな光の中で硬質な輝きをみせる。この絹糸を寄り合わせたほどの繊細な金の糸は、まるで胸の谷間に視線を促すためだけに付けているみたいなものだ。上出来のプリンのように柔らかな胸の間で、軽やかなペリドットの緑が鮮やかに光っている。石が放つライムグリーンの輝きは、彼女の肌と補色の関係にあって、膨らみの先っちょに芽吹く淡いピンクのつぼみを、まだ食べてはいけない果実のように見せている。彼女のブロンドの髪が鼻先にぱさりと落ちると同時に、ひんやりとした二の腕の感触が頬に伝わった。
「もう少し・寝かせ・て」かろうじて聞き取れるほどのつぶやき声を放ったあと、ペトリコールは少し身体をよじらせた。
「変な夢を見たんだよ」フーダレイは身体をさらに寄せて、シーツの下に手を忍ばせ指先で彼女の身体を上から下へと散策してみせた。
「うん…知ってる」ペトリコールは、寝ぼけた声でぽそりと答えた。
「本当? なんでわかるの?」フーダレイは聞き返す。
わずかの間、沈黙。彼女は軽い眠りに落ちたあと、再び声を出した。
「もう、夢の邪魔しないで!」
彼女は内ももに挟んだフーダレーの手をきゅっとつねった。
「Soft as snow, but warm inside」フーダレーはペトリコールに聞こえるように、古い歌の一節を口ずさんだ。
「弾薬切れで停戦協定を申し込んだはずじゃなかった? 相手を制するには最後の余力が大事なのよ。あとでね、My Bloody honey」彼女は言い終わると、シーツを引き寄せ完全に寝いってしまった。薄いシーツの下で丸まった彼女は真空パックにされているみたいだった。

それにしても奇妙な夢だった。フーダレイは、身体を起こし足下をじっと見つめた状態で、まだはっきりと覚えているその夢の映像を思い返してみた。夢の中。フーダレイは長い長い階段の一番上にいた。自分の姿が自分で見える不思議な感覚にとらわれながら、全身がまん丸い石にになっていたことを、空からの目線で知る。そして自分が知覚する視線からは、遙か足下に伸びた階段の一番下の段が見えている。急に空が暗くなったかと思うと、大きな鳥の翼が視界に入った。太陽の日差しを遮るほどの大きさがあったように思えたが、鳥の姿は見えない。すると背後から何かに押され、階段の段差までじりじりと動かされてしまう。「あっ!」と思った瞬間だった、フーダレイは階段から転げ落ちてしまった。身体が半回転したときに巨大なくちばしが見え、真っ黒い目をした鳥が笑ったかのように感じた。身体はぐるぐると回り、天と地が交互に現れながら、空が少しづつ遠くなっていくようだった。痛みはない。しかし、まん丸いきれいな球体だった自分の姿が、転げ落ちていくほどに、削りとられいびつな形へと変わってゆく。身体のあちこちに三角形や多角形の凹凸が現れ、階段の最下段になったときには、ちょうど人間の姿になっていた。仰向けの状態で地面にバウンドした瞬間に、彼はハッと目覚めたのだ。

落とした視線は足下から、部屋の壁へと移り、フーダレイは夢の回想から今の自分へと意識を切り替えるべく、今日これからの予定を順に追ってゆく。取材の前にまず、フーヴァー氏に頼まれていたタイプライターの資料を用意しなければならない。あの光の足りない資料室で一人閉じこもって、探し物をするのはどうにも気が進まないが。それから書き残した原稿の仕上げをし、午後遅くならないうちにはフーヴァー氏の元へ行けるだろう。しきりに自分の顔に手をやり、自分が石なんかではなく凹凸を持った姿をしていることを確認した。そして、彼はキッチンへと向かって、冷えた茶をグラスに注いだ。二杯立て続けに飲みのどを潤すと、ペトリコールの眠る寝室へと戻った。
「出かけるよ。取材の資料をまとめなきゃいけないんで、早めに出社する。朝食は途中の屋台でとるよ」
シーツの中から手が小さく伸び、わかったという彼女のサイン。
「今日もブレンダーのビリンダ嬢と一緒かい?」
半分だけ顔を出すペトリコール。シーツの裏からこっちを透かし見ようとしているが、起きあがる気はなさそうだった。「Bloom farm」という精油精製所につとめる彼女は、一昨日から新しいハーブから成分を抽出する作業に取りかかっていた。まだ、Westa-land の、どのコロニーにもない新種の香料ができそうだと、昨日は大興奮して戻ってきた。人の身体にあるすべての臓器と同じ重さのハーブを用意し、そして人の身体にある水分量と同じ蒸留水を用意する。この比率で二つを混ぜ、ハーブの成分を溶かし出すのだという。蒸留水は人の体温と温度を合わせ、抽出中はそれを維持しなければならない。これは、錬金術師が記していた古い製法を復活させたものだった。寝しな彼女は枕元でこの興味深い話を語ってはくれたが、フーダレイが覚えているのはここまでで、誘われては誘い、誘っては誘われをしているうちに、気がつくといつしか朝になっていた。

フーダレイは着替え終わると、ペトリコールの髪にそっと触れ軽いキスをする。
「行ってくるよ」
彼女の手がシーツの中でもそもそと動き、どこかに追いやった下着を探している。だが結局見つからないまま、彼女は条件反射的に上半身を起こした。ピンと張った胸のシルエットが白いシーツの上に落ち、彼女は潤ったばかりのフーダレイの唇を求めささやく。
「feed me with your kiss」

彼は顔を近づけ、瑠璃色をした彼女の瞳の中に、いつもの自分の姿があるのを見てようやく朝の夢から目覚めたのだった。


(つづく)

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2017年05月15日

一本の電話(太陽の都シリーズ)


去年は夏以降、英語訳に気がいってしまったので、けっこう間が開いてしまった「太陽の都」。
#05のつづきです。


Rough Sketch for "Civitas Solis" #05
http://tavola-world.seesaa.net/article/441014049.html




その日、「ビロビジャンの月」編集部は静かな熱気に包まれていた。記者たちが放つ集中力が部屋の中で充満し、室内は焼石を置き並べた木小屋のように蒸し暑かった。十五時をまわって間もなく、部屋の奥に架かる時計の針三本全てが重なったまさにその瞬間だった、編集部に一本の電話が入った。クロームイエローの受話器は耳当て側がやや下に傾きながらも台座から数センチ浮き上がり、ベルの音がフロア全体に鳴り響く。しかし、誰もその音には反応しなかった。いつもなら、呼び出しベルが二回と鳴らないうちに、必ず誰かが我先にと競いあうようにその受話器をとっているはずなのだが、この日、この時間に限っては、まるで部内の全員が一斉に聴覚不全にでも陥った風の態度をみせていた。机の前にいた記者たちは皆、記事の締め切りに追われ、原稿の最終仕上げに取りかかっていたことを誰もが自覚していた。そしてそれを暗黙の言い訳として用意し、まるで、先に受話器に手を伸ばした者が最初の脱落者になるのだといわんばかりの空気を漂わせていた。そんなことはつゆしらず電話はただひたすらに鳴り続ける。

そして、この音に最も早く、敏感に反応したものが唯一いた。天井からするりと糸を垂らした一匹の蜘蛛。埃のかぶった書類の隣に置かれた電話機を最初の着地目標に定め、それをめがけて尻から牽引糸を静かに吐き出したところだった。そして、あと寸前のところで当初の目的を無事果たすところだった。彼の座標計算に全くの不備はなかった。ただ、運悪くその着地点になるはずの電話が突然激しく鳴っただけ。けたたましいベル音は近くの机上にあった全ての書類を震わせた。蜘蛛はこの音にあわてふためき、尻から糸を吐くのを止めた。これがもう少し遅れていたのなら、真下から勢い良く飛び跳ねた受話器にあやうく身体がぶつかるところだった。蜘蛛は身体をねじり反転させ、自分の吐いた糸をつかみとるや、全ての手足を使ってよじ登ろうと懸命に動かす。しかし、あまりにも勢いを付けすぎたせいで、足の鋭い爪でその糸のねじれ構造を裂いてしまった。最高級のヴァイオリンの弦として重宝される蜘蛛の糸だから、簡単にちぎれてしまうことはなかった。しかし、美しい倍音を奏でるはずの細い螺旋状のねじれ糸は無惨にもバラバラになり、おぞましい低音を放つただの寄り合わせになってしまった。必死で天井へとかけ登る蜘蛛。足の爪が糸をはじき、鈍い音を鳴らし続ける。響き渡るこの不安を誘う音に驚いたのが、書類の間で羽を休めていた羽虫たちだった。彼らは聞きなれない音に恐怖を抱き、窓の方角めがけ一斉に逃げ始めた。夕方のやわらかな光の入る窓枠は、羽虫たちの逃避行による右往左往で、なにやらきらきらと光輝くのだった。


ベル音は、はじめのうちにあった甲高さがいくぶん和らぎ、ややトーンの失せたものに変わっていった。それが、熟練交換手による気配りだったということには、もちろん誰も気付いてはいない。誰もが耳慣れて聞こえなくなったのだろうという程度でしか意識してなかった。部屋には、ただタイプライターを打つ音だけが響いていた。不規則性から生まれる規則的なタイピング和音は、まるでどこかで誰かが誘導しているかのようなうねりをつくり、軍隊の行進が外で行われているのだと錯覚しそうなほどだった。部屋では、激しさと静寂のコントラストがまんべんなく響いていた。

鳴りやまないベルにしびれをきらし、ようやく受話器を取ったのはヴィニ・オライリーの同僚記者フーダレイ・ハウワットだった。サム・スペードばりの尖った顎に重そうなまぶた、ダークブラウンの短い髪は毎日のようにはねる角度が変わり、街角に立てばなぜか鳥たちが寄ってくる。なもんで愛用している千鳥格子柄のスーツは半月も経たないうちに、鳥の足跡模様に変わってしまう。そして岩石が乗ったかのようないかつい肩をしているわりに、女性的なか細い文字を書くことで編集部内では通っている。

「はい、ビロビジャン編集部、どちらさん?」
「…」
数秒間、相手からの返事はなく沈黙だった。
「もしもし? つながってんの? こちら、ビロビ、」と言いかけたところで、はじめて電話先からの反応があった。

「あ、もしもし。ビロビジャン編集部なんだね」
「ええ」
「ふう、やっと通じたさ。いやまいった、呼び出し音をずっと聞いているうちに、ついうとうとしてしまって」
相手の声には、編集部の喧噪とは正反対の穏やかさがあった。

「なるほど。それじゃ不眠症は治ったのかい? まぁもし、いつかまた眠れなくなったときは、どこかにかけるといいよ。今度はうちの編集部を外してもらいたいけど。それでどちらさん?」
「ああ、私はダスティン・フーヴァー、わかりますかな?」
「何? 掃除機のゴミ(Dust in hoover)? 清掃業者のセールスならお断りだよ。こっちは、いくらきれいに片付けをしたって、次の日にはもう書類の山で埋もれてしまうようなところなんだから」
「いや、私はその、清掃業者でもセールスマンでもないんですが」
フーヴァー氏はひと呼吸おき続けた。「ダス・ティン・フゥー・ヴァー」今度はゆっくりと、そして最初の母音にアクセントを置き、Hをはっきりと発音した。
「私は以前に、そちら『ビロビジャンの月』でも紹介されたことがあるんです。紙片収集家のフーヴァーといえば、きっと思い出してもらえるのかもしれません」
フーダレイはかすかにその名前と、この男に関した記事を読んだ記憶があるように感じた。しかしはっきりとした内容までは思い出せなかった。
「取材の担当者と変わった方がよいですか? フーヴァーさん」
「いえ、その必要はないです。電話したのは、それとは別で調べてほしいことがあるからなんです」
「調べてほしいこと?」フーダレイは聞き返した。そして反射的に腕を伸ばしペンを手に取った。
「ええ、実は最近、市場で奇妙なものを手に入れまして。それが、、と。今までに見たことも、聞いたこともないようなものなんです」
「というと、どんなものですか?」
「ええ…」フーヴァー氏は、しゃべるのをためらうように言葉を濁した。
「何かとんでもないものなんですか? 紙片収集家が解読できないような、例えば暗号のようなものとか」
「いえ、そういうわけでは。ただ、何というか、何といっていいか、なんとも説明しにくいものでして。ただ私の収集対象からはかけ離れたものなんですが、触れた瞬間に、とてつもなく魅了されたことだけは確かなんです。」
「んー、それだけじゃ難しい。もう少し詳しく言っていただかないと、こちらも何といっていいのやら」
フーダレイはちらりと時計を見やった。書きかけの原稿を仕上げなければならないことを、心の中でつぶやいた。電話ごしの言葉尻が少し荒くなったことに自分自身、気付いたのだった。
「そうですよね」一間おいてフーヴァー氏は続けた。「ぱっと見は、アクセサリーのようなものなんです。ネックレスみたいなものだと思ってもらえれば。私もはじめは、珍しい形のアクセサリーだと思って手に取ったんですが。ただ、その素材がですね、何か見たこともないものなので、一体全体何なのか? 遺跡から出てきたもののようなんですが、古代の装飾品にしては新しすぎるといいますか…」
「高級なもの? 精密なプラチナ製のジュエリーみたいな?」
「いえ、金属ではないです。プラチナや金なら私にもわかります。それが、ガラスのような陶器のような不思議な質感をもっているんです」
「うーん、では、竜延香みたいなもんですか?」フーダレイは混乱しながらも聞き返した。
「いえ、その類でもないんです。でも確かに雰囲気としては似ている気がします。でもゼリーにも似た触感もあったりしてですね、本当に奇妙なものなんですよ」
「それなら骨董商に持ち込んだ方がいいんじゃないですかね。私たちは確かに毎日毎日多くのニュースを扱ってはいますがね、より専門的なことはやはりそれぞれの専門家に尋ねているんで、仔細なことを知りたいんでしたら、わが社ではわかりかねます」フーダレイは室内を見渡し、手助けを求める視線を誰かに送ろうとしたが、誰とも目が合わなかった。むしろ、自分ただ一人が手を休め電話で話しているという事実を確認しただけだった。
「ええ、私もはじめそうしようと思ったんですが、ひとつ引っかかるものがありまして。そちらにまずお尋ねしひとつ、私の仮定を検証してみたいという誘惑に駆られたわけなんです」
フーヴァー氏はフーダレイの返事がくる前にさらに続けた。
「えーと、そのですね。たしか『ビロビジャンの月』では古いタイプライターを使っていると、確か以前コラムで読んだことがあるんです」
「タイプライター?」フーダレイは、ふいを突かれたように聞き返す。まったく予想すらしなかったこの言葉に一瞬目を丸くし、今までの会話とタイプライターが一体どういう風に関係しているのかを考えてみた。がしかし何一つつながりになるものを思いつかなかった。
「タイプライターなら皆使っていますよ。それに保管庫にいけばホコリのかぶったものがいっぱいある」
フーダレイのこの一言は、電話先で耳を傾けているフーヴァー氏にがっしりと受け止められる確かな感覚があった。
「やっぱり。いや、よかった。そこでですね、ひとつお願いがあります。まず、この奇妙なものを一度見ていただきたい。記事になるかどうかはわかりませんが、私の直感から言うと何か話題になる要素を持っている気はします」
フーダレイはフーヴァー氏の話よりも、迫りつつある記事の締め切り時刻の方が気になっていた。そして、もうそれに取りかかるべきだと判断し、はやく切り上げようした。
「わかりました。では、近い内に取材しましょう。場所はどこが良いですか?」
「ありがとうございます。では、まずこれを手に入れた市場から案内して、そのあと私の家でお見せしたいと思います。どうも、外に持ち出すのにためらいがあるもので」
「ええ、もしかすると大変貴重なものかもしれませんしね」
フーダレイは会話がスムーズに流れ、早く終わってくれるように限りなく平坦な声で答えた。
「そのときにですね、タイプライターで打った文字をいくつか持ってきていただきたいんです。各タイプにある全ての文字・記号を打って」
「は?」またも不意をつかれたフーダレイ。フーヴァー氏はさらに続けた。
「できれば、タイピングは幾種ごとに分けてもらいたいんです。もし、探していただけるのなら限りなく古い機種なんかも。『L.C. SMITH社』の8番、『UNDERWOOD』社のロイヤル・スタンダード、あと『オリンピア』社のSM3。この三つがあると、おそらく解読がもっと早くなりそうな気がしています」
フーダレイは自分の目の前にあるタイプライターを見て、それが何社のどの機種なのかを確かめた。今までに、そんなことを気にしたことなんて一度もなかったのだ。
「では、そのお望みの機種を探してみましょう。ただ、それが何か役にたつんですかね?」フーダレイはまったく検討がつかず、いつものクセで自分の鋭い顎を親指の腹でこすり続けた。
「ええ、おそらくですが。それが鍵になると思います」フーヴァー氏の声には、確信めいた強さがあった。
「日程ですが…」
フーダレイは手短に取材の日にちの取り決めをし、電話を切った。少し話疲れた様子で、ぼんやりと書き記したメモを見つめながら、目の前にあるタイプライターをおもむろに二三度はじいた。

2BC.

(つづく)

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2016年10月11日

長い谷の川と、高い石の山の物語


「ビロビジャンの月」編集部では、ヴィニ・オライリーが記事を書く合間、ある一冊の本に目を通していた。頑丈に綴じられた分厚い全集もの。航海地図帳のように大きな体裁で、彼の手狭な机をほぼ占拠する。赤銅色に染められた総革張りの表紙は、金糸を混ぜ込んだ緑色糸でしっかりと縫い込まれている。背表紙には、幾何学に目覚めたウィリアム・モリスが描いた風の奇妙な意匠文字で「デレク・ハートフィールド全集<最終巻>」と刻印されていた。何も知らない人がそれを見たのなら、古代宗教の聖典写本だと思うに違いない。二度漉きによって漉かれた紙は極上の滑らかさ、花すら摘んだことのない色白王女の手の甲のように無垢で、肌理の整ったやさしい触感。ページを繰る度に思わずためらいの口づけをしてしまいたくなるほどだった。ヴィニは読み進みながら、指腹で紙の張りのある腰を感じながら、乾いた紙音をはじき、淡いクリーム色の紙に打ちつけられた活版文字の陰影と濃淡を目で味わっていた。この全集最終巻は、デレク・ハートフィールドが民間に伝わる逸話や伝承を丹念に聞き集め、まとめたものを収録している。物語の内容にあわせ、分類され、さらにおおよその時代と地域が目次にも記されているため、読みたい項目にすぐにでもページを飛ばせるようになっている。ちょうどヴィニが読んでいたのは「長い谷の川と、高い石の山の物語」というタイトルの話だった。


「長い谷の川と、高い石の山の物語」
トルデシリャスからの移民に聞き取り調査を行い、彼らのコミュニティ内で伝わっていた逸話を整理したもの。

この世界は大きな地殻変動のあと、二つに割れてしまった。大地には大きな亀裂が走り、それにより生じた果てしなく続く長い谷が、住む世界を分け、互いに行き来できないようになっている。長い谷の底にはやがて川が流れるようになったが、地表からその川をのぞき見ることはできない。谷は光が届かないほどの深さがある。何かを放り投げたとしても、川面に落ちた音は決して跳ね返ってこないのだ。長い谷の川を隔てた、向こうとこちら側には、まだ言葉の発達していない民族がそれぞれ住んでいた。彼らが行うコミュニケーションには鳴き声や口笛を使っていたが、風の強い日や、谷から逆流する気流のせいで、それらの音は届かないことも頻繁にあった。この方法では、聞き違いによって間違った解釈をされてしまうと、それを訂正するのにもまた多くの時間をかけなければならなかった。彼らは考え、試行錯誤の末、やがて、新しい方法でお互いにコミュニケーションすることを覚えた。拾った石を相手側に投げ、その大きさや頻度を信号化したもので、それまでに行っていた音声でのやりとりを、石に置き換えただけの実にシンプルなものだった。が、しかしこの方法は、以前のやり方よりも、ほぼ確実に相手の元に届く上、また相手側に石という実物の印が残ることで、彼らの中に「記録する」という新しい概念が生まれた。相手から届いた石を保管しておくことで、過去の記録をさかのぼれるようにもなり、新参のものにも古い内容がより正確に伝わるようになった。記憶だけに頼っていた口頭伝承のあやふやさが徐々になくなると、その集団の共通認識はより強固なのとなっていった。こうして互いの民族は、石を介し、意志を交わすことを覚え、互いのメッセージを伝える手段が日毎、格段に進化していったのだ。

コミュにケートが進む度に、石の形や大きさ、色合いなどを細かく取り決めれるようにもなり、より複雑な伝達も可能になってきた。そしてさらに、腕力によって石を相手方に投げるという方法から、またひとつ進化することになる。
ある一方が、てこの原理を応用した石を投げる機械「人工投石機」を考えだしたのだ。堅い木と伸縮性に富む植物のツルを使い、石をより正確に相手方に届けれるようになった。これにより、石の飛距離も延び、投石の頻度も早くなって、コミュニケーションのスピードは格段に上がった。人力で投げていたときは、交代制でこれを行わなければならなかったが、この機械を使えば、より少ない労力で手早に目的が達せられる。発見した方は、人工投石機の作り方を、作ったばかりの人工投石機を使い、相手方にさっそく伝えた。やや遅れてもう一方の民族も、作り方を学び同じ仕組みの投石機械を作り出すことに成功した。

しばらくの間、この人工投石機を使って互いの意志疎通をはかる方法はうまくいっていた。はじめは一台だったものが、二台、三台と増えてゆき、長い谷の川に沿ってずらりと列をなすようになった。それは遙か彼方まで続き、初代機からは最新機がどこにあるのかすら見えないまでになっていった。小さな区域ごとに対岸に面した同士でのコミュニケーションが活発化し、渡れない谷を隔てているとはいうものの、互いの民族間には大きな連帯感が形成されるようになっていった。そうした中、ある日ちょっとした事件が起こった。

機械操作にも慣れ、投石の照準・頻度にさほど注意を払わなくなった頃、ある一台の投石機から放たれた石が、相手の投石可能エリアから外れ、その近くにいた人に命中してしまったのだ。一命はとりとめたものの重傷を負い、その人はもう元の生活には戻れないほどだった。仲間たちは、怒りの抗議をするために激しい信号で、石をぶつけた側を非難した。一方、相手方からやってくる突然の石の集中砲火と激高する石の信号に戸惑った側は、ただ戸惑い混乱するばかり。謝罪の返事を返す間もなく、次から次へと投げ込まれる非難の投石にさすがに疲れはて、まずは相手に落ち着いてもらうようにと石を投げ込んだ。しかし、そのメッセージは正しく受け止められることはなかった。謝罪を求めていた相手方は、これで双方の関係は何もかもが終わったのだと解釈した。そして、返礼とばかりに、自分たちの石を相手側の投石機、そこにいる人たちに向け投げ放った。石は凶器に変わった。

このことは、横に連なるそれぞれのエリアに、瞬く間に伝播し、長い谷の川の両岸では憎しみの摩擦が激しく増していった。一人が二人に伝えると、その二人が四人に伝える、そうして四人が八人に、八人が十六人へと、加速度的に広がってゆく。人づてに流されてゆくほどに、もはや根拠のないものになってゆく。そういた怒りが共有され最高潮に達したとき、お互いの投石機からは石が人めがけて投げ込まれるようになる。おびただしい数の人がその犠牲になった。そして、犠牲者が増える度に投石の数も増え、投げ込む石はより大きくなっていった。もう誰も投石機が、お互いのコミュニケートをはかるための機械だったことを覚えてはいなかった。朝昼晩、互いの陣から競うように石は飛び交い、この争いは収束する気配を全くみせなかった。こうして、一年、また一年と続き、事の発端が何であったのかを誰もが皆忘れ、思い出すことも過去を振り返ることもしなくなった頃、ある日突然ぴたりと投石が止まった。一カ所のエリアだけでなく、ほぼ横一列すべての岸でそれが起こっていた。その瞬間、両陣営の民族が目にしていたのは、光のとどかない果てしない深さを持った谷が、石で埋め尽くされた光景だった。怒りで我を忘れ、ひたすら無我夢中で石を投げ込むあまり、双方陣内に届かなかった無数の石が、少しづつ積み重なり谷をびっしりと埋めたのだ。もう互いを隔てるものがなくなってしまった。そうした事実を目の当たりにし、誰もがそこではたと気づいた。俺たちは何をしていたのだろう? と。しかし一度火のついた怒りの炎はそう簡単には消えることはない。もう障壁のなくなった、平らな地。こちらが攻めれば、当然相手も攻めてくるだろう。これは両者にとって、恐怖でしかなかった。どちらかが、わずかに攻めよう素振りでも見せれば、もう雪崩を打ったようにぶつかり合い、両者全滅への道しかない。誰しもの脳裏にそうした本能的な防衛感情が芽吹き、それが軽率な行動を踏みとどまらせていた。三日三晩、そして一週間、もう谷とは呼べなくなった両陣の境で、にらみ合いが続いた。

この均衡は、一人の男によってあっさりと消え去った。ふいに一方の側から石で埋まった谷を渡る姿が現れた。不思議なことに、その歩き方には何か見るものの心を鎮める作用があった。男の後に続くものもなく、また迎える側もその男めがけて突進するまでには至らず、前陣と後陣から男を取り囲み、じっとその動静を見守るだけだった。男は谷の中腹まで歩み進んだあたりで一端立ち止まり、自分の視界の先に見える対岸の民族を横流しで追った。そして以前は岸だった淵までたどり着く。向こう岸からやってきた男は、待ち受ける側の代表者が出てくるのを待った。そして、二人の男が顔を合わす。男は口を開き、ゆっくりと話した。すでにこのときには鳴き声による信号的な言葉からは進化した、複雑な文法を持つ言葉に変わっていた。男は長い争いの原因になった出来事に始まり、どうして我々が互いを憎しみ合うようになったのかを振り返り話す。最後にそのことを詫び、相手方の反応を待った。向こう岸からの代表であるこの男の話を、一通り聞き受けた側の男は、自分たちも同じ意見だと答え、同じように詫びた。二人の男は互いに手を取り合い、もうこの争いは、いまこの瞬間にでも終わりにしようと誓い合った。二人の男はこれからの双方の交流をはかり、仲良くしてゆくことで合意した。向こう岸の男は、そのことを自陣に伝えるため戻っていった。すべてがうまく収まった。男が自陣の岸にたどり着くわずかな間までは。

男が、謝罪をしたあとに向こう岸の合意を取り付けたことを仲間に伝えようと、自分の陣に足を踏み入れたその瞬間、背後から猛スピードで石が飛んできた。男はその場で崩れ落ち、そのまま倒れた。後頭部を貫く一撃で命を落とした。あっという間の出来事だった。あっけにとられたその男の陣営は、笑顔と安堵の表情から一変し怒りと憎悪に満ちた顔に変わった。合意に納得のいかなかった、どこかの誰かがメッセンジャーの男めがけて石を放ったのだ。短い和平の期間だった。互いの民族はまた争いに明け暮れる。石を投げ相手方を攻撃する。わずかな隙間もないほどに、石は乱れ飛ぶ。地続きになり、一つにつながった谷はまた憎しみの境界線と化した。飛び交う石はかつての比ではないほどに、投げ込まれ、今度はそれが積もっていった。一週間、一ヶ月、一年、五年十年と月日が経った。もう互いの陣営は見えないほどにまで石は積み上がり、高くそびえるようになっていた。それでも両陣営からの投石は続いた。今度は、お互いに姿が見えなくなることで、怒りの次に恐怖が加わった。投石をやめれば、相手方が石壁を登り攻めてくるという恐怖。相手の姿が見えないことで、それは得体の知れない恐ろしさとして各々の記憶に刻まれるようになった。石の壁はだんだんと高くなる。木の高さを超え、そして山の高さを凌ぐようになり、ついには人の登ってゆけないほどの高さになった。互いの陣営はもう投げる石がなくなっていた。手に入るだけの石がかき集められ使われたのだ。こうしてお互いの民族は、この巨大な石の山を隔て分かれて暮らすようになった。 ―終―


ヴィニ・オライリーは、この話を読み終えたところで、ページをめくる手を止めた。脳裏には、直感的なひらめきが走っていた。そしてしばし考え込む。はて、これはもしかしてあの山のことを伝える伝説だったんじゃないかと、見開いた本を見つめながらぼんやりと頭の中を巡らせる。そして、机の上に積みあがった資料の山から一冊の雑誌を引っぱり出した。近隣のコロニー、ウンベル都から取り寄せた雑誌「ナショナル・トポグラフィー」の最新号。そこには、針針山についての短い特集が組まれていた。わかりうる限りの地形や地質についての記事だった。その中には針針山の不気味なシルエットを写した写真も数枚あった。どの写真も山頂には雲がかかり、輪郭のないぼんやりとした山影が背景にとけ込んでいるものだった。また彩度を失った色がより、この山の存在を孤独にさせているようにも見えた。ウェスタランドとイースタランドを二つの世界に分ける針針山、未だこの山を越えたものはないとされている。針針山を中心に伸びる山脈もまた同じように、東と西とを隔てる巨大な壁となって果てしなく続いているのだ。ヴィニは地図を開き、全集の目次ページに記された時代と地域の名前を書き出した。さらに雑誌の特集ページに付箋をし、赤いペンでメモを書き添える。「高い石の山の伝説、針針山、二つの関係…(?)」と。そして、一度読み返したあとアンダーラインを二度引いた。


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2016年08月14日

Rough Sketch for "Civitas Solis" #05

TheBirobidzhanMoonExtra-5.jpg
The Birobidzhan Moon - Extra Edition ( Front Page )
*ダスティン・フーヴァー氏のコレクションより


新聞社「ビロビジャンの月」が発行する同名新聞の号外版。特に大きなニュースのない日でも発行されることのある「ビロビジャンの月」の号外は、その不定期さ加減と時折紙面裏に組まれる特集、絵画や芸術工芸作品の図版に妙味があって、心待ちにしている市民も多い。展覧会や映画公開に先立っての宣伝を兼ねている場合もあれば、何の拍子で取り上げたのかすらわからない場合もあり、そうした自由な編集方針が多くのファンを呼ぶ結果となっている。また毎回趣向を凝らした紙面のデザインも人気がある。不定期刊行のため、創刊以来のレイアウト・フォーマットを踏襲した本紙紙面とは違ったスタイルにし、変化を持たせよう、というのが現編集長の方針だ。そのため「ビロビジャンの月」号外版だけを熱心に集めているものも数多く、蚤の市などでは古い号と新しい号のトレードが行われていたりする。そういった収集家たちがいるのを街の人たちも皆よく知っているため、運よく号外を手にしたものはまずその場で捨ててしまうということはない。ほとんどの人が、シワのつかないよう丁寧に折って鞄の中へとしまい家へと持ち帰る。

「ビロビジャンの月」号外版のコレクターで最も知られているのがダスティン・フーヴァー氏(Mr. Dustyn Hoover)だ。彼の家には号外版専用の棚まである。フーヴァー氏は今までに発行されたほぼ全ての号外を所有していて(どうしても一枚だけ手に入らない号がある)、「ビロビジャンの月」の記者が資料のとして貸し出しをお願いに訪れるほど有名である。そのフーヴァー氏と彼のコレクションを特集した号外も過去に一度発行されたことがあり、彼にとってこの事実は大変な誇りになっている。もちろんフーヴァー氏の家に行くとこの号は一番目立つところに飾られ、まったく折り目すらなく綺麗な一枚ものとして額の中に収まっている。フーヴァー氏は紙片収集家として太陽の都では知られた存在で、彼は日々紙や布に書かれた文字や印刷をくまなく探している。ありとあらゆる紙切れを見つけ拾っては持ち帰り、また拾ってはということを繰り返してきたので家の中は紙切れだらけ、ほぼ毎日にようにその整理に追われている。あまりにもの紙の多さにフーヴァー氏の家の中は他の家よりも湿度が8%ほど低くなっている。部屋いっぱいに積み上げられた紙片が吸湿材の役割を果たしているのだ。また常に手が紙に触れているため、指先がかさかさでフーヴァー氏の各部屋には薬草入りのバームが欠かさず置かれている。三日で一缶を使いきってしまうほど、バームの消費量があまりにも多いため、彼は薬局の隣に引越しをしたほどだ。この小さなエピソードはフーヴァー氏を特集した「ビロビジャンの月」号外版で紹介され、太陽の都の住人たちの知るところとなった。


CivitasSolis-RoughSketch-05-Aug-2016.jpg
Rough Sketch for "Civitas Solis" #05 (Aug. 2016 / 210 x 297mm)
Ink on paper and Digital Effects

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2016年07月19日

ネロ・ウルフの皿 -後編(1)- (太陽の都シリーズ)


しばらく開いてしまったけれども、「ネロ・ウルフの皿」後編です。
寝る前にポメラで書いていたら、うとうとしてデリートボタンを押したみたい。
翌日眼がさめたら全部消えていた。なので書き直すことになった。
これが終わったら、ピジンとフランボワーズの続きを。

InStory-CivitasSolis-NeroWolfesDish-Jul-2016.jpg

「ネロ・ウルフの皿 -中編- 」からのつづき


A conversation about yellow stone

鍋からのぼる湯気が音符色に変わり、厨房に漂う香りが軽快なリズムを奏ではじめると、奥の部屋から大きなあくびが聞こえてくる。ルー・リー・ルーの妻、カー・レー・ルーのお目覚めだ。胃袋が五感すべてよりも敏感な、いや、胃袋が正常なだけで他の五感がとんでもなく鈍感な、といった方が彼女の場合は正しいのかもしれない。夫ルー・リー・ルーの作る料理をすべてその胃袋で受け止めているよき理解者、あるいは、調味料のわずかなさじ加減をも見逃さず、いつもの味に違いを感じるやいなや作り直しを命じる非情な裁判官。ルー・リー・ルーが最も恐れ、そして愛しやまない女性。彼女の前では、猫に直立不動の敬礼をするネズミのようになってしまう、ああ可哀想なルー・リー・ルー。一日で最初に訪れる審判の時刻が、まもなくやってくるのだった。

ルー・リー・ルーはしばし窓の外に目をやっていた。朝の光は、一層輝きを増していた。一晩のうちにガラスの屈折率でも変わってしまったのだろうか、いつもとはどこか違ってみえる外の光景に、彼はしばし見とれていた。視線の先にあるのはピサロが空の上で絵の具を振りまいているかのような、輪郭のないぼやけた色。それも練り混みの足りない、まだ粗さの残る顔料に似たざらざらとしたものだった。砂塵とミストが大気中で混ざりあい、光の繭を形作っている。上空に漂う暖かい空気の層と地表の冷たい空気に挟まれ、半ば真空状態となった空気のレンズ。
視覚から受ける情報は直接脳に伝わる場合と、途中分岐し、その他感覚神経に流れ込む場合がある。色を味覚として感じたり、香りが聴覚となって聞こえたりする一連の現象。もちろん、ルー・リー・ルーはそんなことを知る由はなく、ただ彼の皮膚感覚として感じ取っているだけだった。窓外に広がるえも言えぬ光の現象をぼんやり見ているうちに、彼の舌には裏ごしを怠ったポテト・スープの触感が現れ、思わず人差し指を口につっこんで舌を拭ってしまった。彼が舌先に感じたのは指の腹に残ったガーリックの青い苦みだった。料理人としての感覚は、鍋や包丁を手にしている時でなくともたえず持っているものだ。「リキッドとペースト、その間に位置するもの、それが最高のスープなのだ」ルー・リー・ルーは父ノー・レー・ルーがよく口にしていた言葉を思い出した。窓枠に何か小さく動くものがあり目を下ろすと、小さなミツバチが一匹、羽を休め止まっていた。

背後でかしゃんと軽い金属音が響いた。ルー・リー・ルーは振り返り視線を向ける。カー・レー・ルーが鍋のふたをとり、レードルを静かに回していたのだった。鼈甲のピン留めで髪を軽く結い、一枚もののモスリン布を緩く体に巻き付けている。胴回りの径はルー・リー・ルーの約二倍はある彼女。ルー・リー・ルーは自分の食した栄養はみなカー・レー・ルーのお腹にテレポートしてるんじゃないかと疑ってやまない。しかしそれを口にする度、いつも彼女に説き伏せられ、連れ添ってからの長い月日をやり過ごしてきたのだ。「あんたの料理がまずければ、あたしは骨と皮だけになるんだから。あたしの姿はあなたの料理そのもの。身をもって現しているのよ」ああ、真実を歪曲され続けたルー・リー・ルー。思い出してごらん、二人が出会った頃のカー・レー・ルーの美しさを。そう、青い瞳と褐色の華奢な身体。陽に焼けてない肌のラインを果敢にたどると急にうつむくのが初々しかった。強く抱きしめられると折れそうだからって、上に乗っかるのはいつも彼女だった。髪の毛を伝って滴り落ちる、甘い香りの汗を何度味わったことだろう。しかし今ではどうだ、女王蟻の身繕いを任された働き蟻みたいになっている。信じていいのは自分の目だったのだろうか、それとも冷静なる時間の経過なのだろうか。振り返ってみれば、はじまりのときから彼女のルールの中にいただけなのかもしれない。

彼女はスープを小皿によそい味見をした。どちらかが先に口を開くまでは、お互い目を合わせない。短い沈黙。ルー・リー・ルーはカー・レー・ルーの唇に視線を注ぎ、じっと見つめた。この日のスープには自信があったのだ。彼女の反応はおおよそ見当がついているといった風に、ほのかな笑みを浮かべる。
「いいわね」
カー・レー・ルーは微笑み、空いた小皿にもう一杯をすくいルー・リー・ルーに差し出した。彼は皿を取り口をつけた。
「うん。今日のはばっちりだ。難をひとつ言えば、スパイスを使いきってしまったので、もうストックがなくなってしまったことかな」
ルー・リー・ルーは舌の上でスープを転がし、変化を見せるその味をしっかりと噛みしめた。
「じゃぁ、市場で買ってこなくちゃね。無くなったスパイスのリストを書いておいてちょうだい。あと、他に足りないものがあればそれも一緒にね。早いうちに買い出しいかなくっちゃ」カー・レー・ルーはそう言ってまた奥の部屋へと向かった。そして途中で何かを思い出し、くるりと反転した。
「ああ、そうだ。今日はタ・クァンと会うことになっているの。大市の日だから、ターメリクォイズ(Turmeriquoise)の品評会があるのよ。だから市場に行くのはそれが終わってからになるわ」
「ああ、スープストックは二日持つだろうから、今日でなくてもいいよ。俺はオルガニスタの野営をあたらないと。キャメル・トゥの予約が入ったんだよ。奴らはコロコロと居場所を変えるから聞き込みするのも楽じゃない」
「あら、そうなの。あれ、ほんと手間暇かかるものね。でもあたしはあまり好きじゃないの、調理に時間かかるわりに、食べるところなんてちょっとしかないじゃない」
「あれは、そういう料理なんだよ。特別なときのための」
「まぁ、この都ではあなたしか作れないし、そのおかげでこうしてこの店も続けられるんだから感謝しなくちゃね」
「まぁ親父もあの複雑なレシピ、よく考えたもんだよ」
「じゃぁ、あたしちょっと支度するから」
カー・レー・ルーはピン留めを抜き取り髪をはらりと落とした。
「タ・クァンにつられて、へんなの買ってくるなよ。いったい何がいいんだよ、ターメリクォイズの。ただの石じゃないか」
「ちょっと、そんなこと言わないの。ただの石じゃないんだから。あのうっとりする美しさ、あなたにはわからないかもしれないけれど」
「まぁ、確かにキレイはキレイだよ、あの石。それはわかるさ。透明で琥珀色の輝き、そして手にしたときの意外な重厚感。それでいて肌に吸いついてくるひんやりとした岩質。で、内側から何かが放射されてるような神秘的な光の屈折。でも、一個二個あれば十分だろうに」
「あなた、もう。ほんと、わかってない」
カー・レー・ルーはため息と同時に、目を大きくして首を振る。
「ひとつひとつが違っていて、同じものがないのよ。それに二つを並べるとそれぞれ共鳴しあうの。波動というか波長というか、何か揺らぐものが石と石の間に生まれるのよ」
「また、はじまった。それはもう何回も聞いてるよ。そこまでいくとオカルトだな。俺には何も聞こえないし何かそういうものが発生してるふうには見えないけどね」
「あなたとターメリクォイズの話をしても、平行線、仕方ないものね。でも、石になにか魅力があるからみんな欲しがるわけだし。それにこの都の名産にもなってるわけだから持っていても損はしないと思うの」

ターメリクォイズは、透明感をまったく失うことなくターメリック色(あるいは深い山吹色)のついた石のことをいう。太陽の都でしか産出せず、良い石ほど艶やかでかつ吸着性があり、肌にピタリと吸いつく。そのなめらかな石肌は皮膚の老廃物を取り除き、女性の肌をケアするとの評判が高く宝飾以外の目的でもたいへん人気がある。太陽の都の貿易額に占める割合も大きく、外貨獲得のための重要な輸出品目として、鉱石採掘場は政府の厳重な管理下におかれている。

「まぁ、いいさ。あんまり深みにはまらないでくれよな。タ・クァンなんて指輪やブローチ、ネックレスにボタンだので全身真っ黄色じゃないか、何かの漬物じゃあるまいし。あそこまでいくともう理解できないよ」
タ・クァンはカー・レー・ルーの幼なじみで彼女の一番の親友。彼女に感化されカー・レー・ルーがターメリクォイズの収集に傾倒していったのを、ルー・リー・ルーは内心よく思っていない。気がつくといつの間にか、カー・レー・ルーとタ・クァンの間には黄色い宝石、ターメリクォイズでつながった深い絆ができていたのだった。
「彼女のコレクションはほんとすごいのよ」うらやましそうな声でカー・レー・ルーは言う。今の自分では遠く手の届かない世界をみて、もうひとつ後押しがほしいかのような目で、ルー・リー・ルーを見つめるのだった。

ルー・リー・ルーは何かを思い出したようだった。すでに彼の頭の中は今日の仕込みの段取りのことで一杯だった。
「あ、そうだ。あのスパイス。あれも必要だ」
「あれ、じゃわかんないわよ」
「ほら、きみの故郷でしか採れないあれだよ。寒い国から来たスパイスって呼ばれてる、あれ名前なんだっけ?」
「ああ、わかったわ。スノウ・デーンのことね」
「そうだ、それそれ。あれがないと美味いキャメル・トゥが作れないからね。忘れずに頼むよ」
「わたし、はやく準備しなきゃ」カー・レー・ルーは少し真顔になって時計をみた。


後編(2)へつづく




記事トップにあるグラフィック・アイコンのフォントは
「バーボン・フォント」(下記リンク先)を使った。

■ Bourbon font
http://fontpro.com/bourbon-font-1567

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2016年06月23日

Rough Sketch for "Civitas Solis" #04

CivitasSolis-RoughSketch-04-June-2016a.jpg
Rough Sketch for "Civitas Solis" #04 (June 2016 / 210 x 297mm)
Ink on paper and Digital Effects
「太陽の都」シリーズのラフスケッチ。
アルバニアの国旗に描かれている鳥をイメージして墨塗りのシルエットを描いたんだけど、あとで調べてみると双頭の鷲だったことに気付く。なんかどうも違うような感じはしてはいたけど、筆のかすれ加減が気に入ったので気にしないでおこう、イメージクリッピング用のラフスケッチだし。



Past Works / Rough Sketch for "Civitas Solis" /
CivitasSolis-RoughSketch-03-May-2016.jpg
Rough Sketch for "Civitas Solis" #03 (May 2016 / 210 x 297mm)
Ink on paper and Digital Effects


CivitasSolis-RoughSketch-02-May-2016.jpg
Rough Sketch for "Civitas Solis" #02 (May 2016 / 210 x 297mm)
Ink on paper and Digital Effects


CivitasSolis-RoughSketch-01-Apr-2016.jpg
Rough Sketch for "Civitas Solis" #01 (Apr. 2016 / 210 x 297mm)
Ink on paper and Digital Effects (invert)


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2016年05月26日

4th Division - Thin buildings

ThinBLDG-May-2016.jpg
"4th Division - Thin buildings" (May 2016 / 257 x 364mm)
Ink, Watercolours and Coloured Pencil on paper & Digital Effects

4thディヴィジョンに居住する人々の高層宿舎。板のように薄い形状からThin Houseと呼ばれている。建物内には油圧式エレベーターが設置されていて上下階の移動は、このエレベーターを利用する。建物の老朽化と砂漠の厳しい気候の影響があるために、エレベーターの作動油はすぐに粘りが増し非常に劣化が早い。作動油のメンテナンスを怠ると、低温の季節にはまれにエレベーターが作動しなくなる。日中は機械室にある油分がわずかに揮発し、周囲には油の酸化臭がかすかに漂い独特のにおいを放っている。
建物の薄い築構造は隣接する棟との共鳴・共振性があって、エレベーターの作動時には奇妙な音色を奏でることになる。建築計画、設計段階の時点ではまったく予想すらしなかったことだった。太陽の都の中でも、特に4th ディジョンにあるこの高層宿舎のエレベーター昇降時の音は有名で、砂漠に建つパイプオルガンとも揶揄され、名物にもなっている。建材や住居間取りなどの違いから、各棟ごとに音階が違っているために、不規則な偶然が重なると、空から降りそそぐハープのような調べになることもある。特に夕暮れどき、棟を吹き抜ける風が一段と強くなるころに鳴るエレベーターの音は寂しくも美しく、わざわざその音色に聞き浸るためにやってくるものもいる。風が強いときは「 Devil Tone 」、建物の振動性が強いときには「 Witch Tone 」といわれ、聞きなれたものの耳にはさらに細かな調子の名をつけるものもいる。住人たちは、自分たちの使っているエレベーターのことを器官や臓器を意味する「オルガン」と呼び、メンテナンスにやってくる保守機械工の連中をオルガニスタと言っている。

エレベーターの保守機械工、オルガニスタたちの姿は一種独特だ。オーガンジーにも似た風合いの目の粗いガーゼをターバンのように全身にまとい、まるでミイラのように見える。乾いた建物の中を頻繁に上下するエレベーターの動きを潤滑にするために、古い作動油を新しいものに入れ替えるのが彼らの仕事。エレベーターは、古い作動油だとぎしぎしと鈍い動きになるが、新しい油だと滑らかに作動する。共鳴音もオイルの状態でそれぞれ異なり、作動油の入れ替えをする前は唸り声みたいだったものが、新しくなったばかりのときは、まるで天使のため息のように軽やかなものとなり、オルガニスタたちの腕の見せ所のひとつでもある。
古びた身体に、新しい油を注ぎいれ、無機的な建造物にオーガズムを与えるのが自分たちの役割なのだと、彼らは信じている。ビルの鳴き声をいいものにしたい一心で、彼らは都市の中を移動する。住居はもたない。オイルにまみれた機械いじりの遊牧の民なのだ。

エレベータの保守保全で賃金を得る一方で、古くなった作動油はオルガニスタたちにとってのもう一つの収益源になっている。粘りの出たべとつく廃油を、彼らの飼う家畜の糞と練り混ぜ固形燃料として都の住人たちに売り歩く。彼らは黒ずんだ作動油のカス、廃油をゼリーと呼びあう。作業油の入れ替えで集めたこのゼリーを宿営のテントに持ち帰り、ぶ厚い釜の中で温め、日干しにしたラクダなど家畜の糞・プーを均一になるよう混ぜ込んでゆく。温度を誤ると釜の中が爆炎してしまうために作業は慎重にしなければならない。油を知り尽くしたオルガニスタだからこういった危険な仕事ができるのかもしれない。油質と糞の比重がいい頃合になったとき、釜から下ろし余熱のあるうちに、平板の上に広げる。やや温度が冷めたころに棒状になるよう丸めこんで、鋭い歯でペレット状にカットする。この黒い固形燃料は燃焼力が持続し、とても重宝されている。乾燥しても少し弾力があるので、Oil Gum、Poo Ballという名前が付いている。

彼らの連れ飼う家畜もまた、太陽の都の住人たちにとっては大事な食材になる。月に二度行われる大市の日にはにぎやかな声が響きわたり、毛艶のいい家畜たちは競りのハイライトになったりもする。パミルスタン種の羊は、名物料理「ラム・パミルスタン」に使う肉として太陽の都では非常に人気がある。食堂「ネロ・ウルフの皿」の料理長ルー・リー・ルーも市とは別に、彼らオルガニスタの育てる家畜を手にするために、野営のテントを訪ねまわることもある。彼の父、ノー・レー・ルーが考案した「ネロ・ウルフの皿」の看板料理「キャメル・トゥ(Camel Toe)」を調理するために。


ThinBLDG-Sketch-May-2016-b.jpg
「Thin buildings」 最初のラフスケッチ。

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2016年04月23日

Civitas Solis - Scene I "Garment Factory"(太陽の都シリーズ)

CivitasSolis-Scene01-Apr-2016.jpg
"Civitas Solis - Scene I, Garment Factory" (Apr. 2016 / 257 x 364mm)
Ink, Watercolours and Coloured Pencil on paper

太陽の都、6th Division にある縫製工場。この工場では主に、労働者に支給するための服務着(労働着ともいう)を製造している。太陽の都では年に二度、生活に必要ないくつかのものが住人に支給されるきまりになっている。対象となるものは、基本服や穀物・豆類、油、ミルク、ビスケットや移動用のトラム乗車券、または車用の燃料など。これらは、現物がいきなり支給されるわけではなく「支給切符」という名の綴り式のクーポンがまず配布され、そのクーポンを持って指定の場所で指定の品と交換するシステム。住民たちはみな「票(ピャオ)」と呼んでいる。
服務着は都に住む多くの住人が着用しているが、そのほとんどは貧しい労働者。大事に着用している者や物持ちのいい者は、まだ替える必要もないため、新しく支給された服務着を受け取らず、自分の持つクーポンを買い取り業者に売ることで、お金に買えまた別なものを手に入れたり、生活費用に充てたりし、クーポンや支給品の使い方は必ずしも本来の目的どおりにはいってない現実がある。このようにクーポンは二次通貨としての役割を果たしてはいるものの、その規律無用な流通にあたっては特に厳しい目が向けられるわけでもなく、どちらかといえば、黙認に近く、暗に推奨するようなフシも見られる。公定通貨である「コペイ貨(A - Currency)」に対し「B - Currency」というふうにも呼ばれている。クーポンの買い取り・販売を営む店は、たいてい街の目だたない一角にある。「B.C.D.E.F.G.H.I.」という看板が掲げられていればそれがその店。"B-Currency Dealer's Exchange For General Heads Inc.(全民のためのBカレンシー取り扱い業者の両替社)"が正式な名称。政府が間接的に運営していて、客としてやってくる住民たちとの会話や挙動などから、不平不満など民衆の動向を調査するアンテナ的な役割も果たしている。
通常この「支給切符」を発行する際には、使用期限がスタンプされるはずなのだが、役人にいくらかの賄賂を渡すことにより期限なしのクーポンを手にすることはさほど珍しいことではない。無期限のクーポンは期限付きのものよりも平均的に20〜50%ほど高く取り引き、また換金できるため、住人たちはさまざまな方法を考案しそれらを求めようとする。もっとも一般的な方法は、地域の長が、ひとりひとりの住民らから集めたわずかなお金をひとまとめにし、ある程度のまとまった金額に達したところで、その金を手に役人への口利きをする。あらかじめまとめた支給者名簿を渡し、そこに記載された人数分の無期限クーポンが手に入る。また、クーポンに記された物品名は、必ずそのものと交換しなければらなないため、古い無期限のクーポンを持ってこられると、まれに生産の終わったものや手に入らないものが出てくることもある。交換業者はこれを嫌うため、無期限のも票は交換されないまま、プレミアムのついた通貨としてただ巡りに巡る運命になっている場合が多い。ひとつの例として、ある年に一度だけ発行された "Cave Honey(洞窟ハチミツ)" の無期限クーポンは、もう現物が存在しないため、相当な金額の値段となっている。交換を希望する人が現れた場合、そのクーポンを受け取ったものは、Cave Honeyを用意するか、相手を納得させるだけのお金を積み交渉するほかない。



絵の工程
CivitasSolis-Scene01-Outline-Apr-2016.jpg
下書きと蛍光色鉛筆での下塗り。

CivitasSolis-Scene01-RoughSketch-Apr-2016.jpg
最初のラフスケッチ。


*) ポーランドの建築で調べものをしていたら、ハンス・ペルツィヒ(Hans Poelzig) という建築家がいたことを知って彼の設計した建築の古い写真などを見ていくうちに、工場の建物のいくつかが目にとまった。その中の一枚がイメージの元になっている。下写真は、ポーランドの「ルボン(Luboń)」という街の化学工場の一部。画像は下記リンク先より。

HansPoelzig-LubonChemicalFactory-1909-1912.jpg
hans poelzig @ chemical fabric luban – superphosphatschuppen 2[ 1909-1912]
https://thecharnelhouse.org/2013/11/25/scary-architecture-the-early-works-of-hans-poelzig/hans-poelzig-chemical-fabric-luban-superphosphatschuppen-2-1909-1912/

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2016年01月27日

ネロ・ウルフの皿 -中編- (太陽の都シリーズ)


後編を、だったけど少しボリュームが増えたので中盤編にした。




前編:新聞社「ビロビシャンの月」からのつづき


食堂「ネロ・ウルフの皿」の静かな朝
希代の美食家ネロ・ウルフの名を冠した食堂「ネロ・ウルフの皿」を切り盛りしているのは二代目の料理長、ルー・リー・ルー、その人だ。初代料理長でもあり、また父でもあるノー・レー・ルーから秘伝のレシピを受け継いだ。「お前の涙とともに私の骨を煮込んで、真のレシピを完成させなさい。レシピはお前の記憶の中に仕舞ったあと、最後は、すべてを釜の中に焼べて灰にしておくれ」ノー・レー・ルーは、レシピの最後にこう書き残してこの世を去っていった。レシピ番号No.IV-33、ツナフィッシュ・サンドに添えるオニオンスープの項でノー・レー・ルーのレシピは終わっていた(ツナフィッシュ・サンドに使う魚は「太陽の都」周辺で採れる "GHOTI" という肺魚の一種、この魚については後編で)。ルー・リー・ルーは父の言葉通りに、そのレシピを完成させた。父の記したレシピは細かな注意書きの記述にいたるまで、すっかりと彼の頭の中に入っていて、また調理の手順も感覚として身につけていたため、ルー・リー・ルーは改めてレシピを読み返す必要もなかった。彼はノートからレシピ一枚一枚をはがし、釜の中に放り込み火をつけた。レシピはまるで望んでいたかのように勢いよく、激しく燃えた。やがて炎は鎮まり釜の中にはフレーク状になった灰が積み重なるように残った。しかしすべてが燃え尽きたわけではなかった。釜の隅で燃え残ったレシピの小さな紙片があったのだ。それを見たとき、ルー・リー・ルーは父の本当のメッセージを理解したのだ。父、ノー・レー・ルーの魂はこの世から消えたわけではなかった。彼は端が煤けたわずかな紙片を釜の中から静かに拾い上げ、小さな写真立ての中に挟み込んだ。彼の人差し指についた黒いやけどの痕は、そのときにできたものだ。古ぼけセピア色に色あせた家族写真の裏に差し込み、調理場の一番よく見える場所にそっと置いた。この位置は、ルー・リー・ルーが店を切り盛りするようになってから十年来変わらない。一日の終わりになると、ルー・リー・ルーは油と煙でくすんだこの写真立てのガラスを拭ってやる。そのたびに思い出すのだ、自分の涙とともに煮込んだあのスープの味を。そして、思いふける。明日はもっといい料理が作れるはずだと。調理場の明かりを消したあとは、階上にある寝室へと昇り、やがてうとうとと短い就寝につく。彼の眠りはいつも浅い。そして朝の新聞が配達される前には目覚め、仕込みを始める。入り口扉の下にある隙間から新聞が投げ込まれると、あわてたようにネズミたちが逃げてゆく。壁に開いた小さな穴の中へと。店内の見栄え上、野菜を詰め込んだバラックバックでその穴を塞いでいるだけなので、防止の効果はほとんどない。ネズミとて店に客のいる間は、警戒してうろちょろと姿を見せないのだから、それでいいのだとルー・リー・ルーは思っている。それよりも 4th ディヴィジョンへの配給品であるバラックバックが、業者の横流しでここにあることをあまり見られたくはないものだという風で、しかしこの大袋の使い勝手のよさと頑丈さのせいでひとまずはそのままにしているだけなのだ。ルー・リー・ルーは体をかがめ床に落ちた新聞を拾い、扉を少し、半身だけ開ける。ゆらめく長い影が遠ざかってゆくのをじっと見つめるのだった。彼は夜明けに消える新聞配達の少年の後ろ姿を見送るだけで、彼の顔をいまだ知らないでいた。いや、知っていたところでどうだというのだろう。こうして彼の長く短い一日がはじまる。このような毎日が永遠に続くのだろうか、いやもう終わってしまうんだろうか、時間の感覚のないままに、またそう深く考える間もなく、彼はいつもと同じように野菜を正確に切り大きな鍋に放り込む。煙突から白い煙が立ちこめる頃、あたりは光と影のコントラストをなす。砂埃と朝もやとが混じり乳白色の光が注ぐ。仕込みがひと段落したところでルー・リー・ルーは手を休め、一日で唯一訪れる自分の時間を過ごす。一日分の具材が整然とならんだ調理場を満足げに見渡し、椅子に腰掛けると、ポットに淹れたジャスミンティの香りをいっぱいに吸い込む。そして、ソーダグラスに注いだあと口をつけ喉を潤す。体が少し暖まると、子供の頃に父と一緒に作った鉱石ラジオのダイヤルを回し音楽を流す。調理場の乾いた空気に潤いが広がる。手作りの鉱石ラジオは、ほとんどが厨房の道具を流用して仕上げたものだ。鍋の取っ手に目盛りを刻んだだけの簡易ダイヤルはいつもチューニングの修正を要した。ラジオからは懐かしい歌のリメイク曲がかかっていた。プロテスト・ソング「モスクは涙を信じない」だった。政府から許可を得た受けたラジオ局がこんなものを放送できるわけがない。ということはチューニングを合わせたこの局はきっと海賊放送なのだろう。どこの誰だかがこんな朝っぱらからおかしなことをしているもんだ、ルー・リー・ルーは、そう思いながらラジオから流れる歌詞を鼻歌で合わせ、リズムをとる。曲の終盤になると、ラジオのDJはこの歌の簡単な紹介をし次の話題へと移った。リメイクしていたのは "MOSQVES" というグループだった。彼にとっては初めて聞く名前だったが、女性の歌声にはどこか思い出にひっかかるものがあった。ルー・リー・ルーはグラスを片手に、届いたばかりの新聞を広げ、昨日の出来事に目を通す。もちろん「ビロビジャンの月」の読み方は心得ている。第一面から読み始め、最終面のお楽しみ、ドゥルッティーズ・コラムを読み終えると、何かを思い出したかのように立ち上がった。コラムは、他のコロニー「ピノチェ都」と「ウンベル都」の間に新しく開通したブライトシュプールバーンの路線についてを伝えるものだった。ルー・リー・ルーはカウンターの引き出しから書類の束を取り出し、昨日の営業報告書を書きはじめる。すでに形骸化しているとはいうものの、物価管理局へのレポートは正午までに提出しなければならないのだ。一度でも怠ると翌月の査察の対象になり、クーポンの減点というペナルティがついてしまう。彼はぶつくさと独り言をいいながら、自分でも気づかぬうちに自然と口ずさんでいた。「モスクは涙を信じない」のフレーズを。


後編へつづく

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2016年01月24日

ネロ・ウルフの皿 -前編- (太陽の都シリーズ)



 あれは最良の時代であり、最悪の時代だった。叡知の時代にして、大愚の時代だった。新たな信頼の時代であり、不信の時代でもあった。光の季節であり、闇の季節だった。希望の春であり、絶望の冬だった。
It was the best of times, it was the worst of times, it was the age of wisdom, it was the age of foolishness, it was the epoch of belief, it was the epoch of incredulity, it was the season of Light, it was the season of Darkness, it was the spring of hope, it was the winter of despair,

「二都物語」チャールズ・ディケンズ(加賀山卓朗・訳 / 新潮文庫)
"A Tale of Two Cities" by Charles Dickens






新聞社「ビロビシャンの月」
「ネロ・ウルフの皿」。今でこそ連日連夜、溢れる客の喧噪が風物詩になるほどの繁盛をし、二つ三つの姉妹店を構えるまでになったこの食堂も、開店した当初はほとんど無名で、それぞれのディヴィジョンの一角で日々ただ営んでいるだけのような、ごくありふれた飲食店の一つにすぎなかった。この店の名が "太陽の都" で広く知れ渡るようになったのは、とある新聞の記事からだった。「ビロビシャンの月」の日曜版。その最終面の隅に載る、「ドゥルッティーズ・コラム」という小さなコラムの中で紹介された事が評判の始まりだった。もうずいぶんと古い話にはなるが、その記事を書いたのは現編集長であるリトビーが、社の期待を背負う記者として活躍していたときのこと。いまはその役目をヴィニ・オライリーという、この新聞社では中堅にあたる記者が担っている。ヴィニは大きくくぼんだ目と背の高いひょろりとした体格をしており、木の枝のように細い腕がそこから伸びている。手足から指にいたるそれぞれの関節には奇妙な膨らみがあり、それは養土から引き抜いたばかりのキノコの壷を思わせる。短く刈った甘栗色の髪が無愛想な表情を少し和らげているような格好だ。そして、彼はいつも小さな机の上に資料をうず高く積み重ね、原稿を静かに書き続けている。大きな姿がすっぽりと隠れるほどに、それはまるで編集部の中で城塞を築いているようでもあった。積み上げた資料の高さと記事の出来上がりに相関関係はみられない。また一番上の引き出しの取っ手には、空かした小腹にいつでも流しこめるようにと、好物であるサモサの入った袋がぶら下げているのも、編集部ではおなじみの光景だ。もちろんこのサモサの数量と記事の出来にも相関係はない、というのが記者仲間たちの共通した意見になっている。彼は原稿を鉛筆で書くのが癖になっているため、いざ印刷となる際にはいつもタイプで打ち直しをしなければならない。ひとつ手間のかかる、このような癖があるために、彼はこれまでに締め切りを過ぎてしまい何度か原稿を落としたことがあり、当然印刷が間に合わず新聞の発行が遅れたこともあったが、そのときは気の利いたリトビー編集長が先に立ち、新聞名を「ビロビジャンの夜明け」と差し変えるよう手配した。結果的に、読者の笑いと共感を誘うこと何度かで、より人間味のある新聞として都の住人に愛されるようになったりもした。新聞のニュース面の持つ役割というものは、街に流れる事件の噂話をよく検証した上で、確証の印として示されるものだと皆わかっているものだから、読者の関心はそういったものから漏れた小さな見出しにあるたわいもない記事に集まっている。

創刊当初から続く連載は、このコラム「ドゥルッティーズ・コラム」が唯一残るだけとなってしまった(その名のとおりコラムを始めたのはドゥルッティという名の青年記者だった)。また、長きにわたって引き継がれてきたこのコラムの連載を任されるという事は、とても名誉なことでもあり、次期副編集長の座が約束されたという意味でもある。「ビロビジャンの月」ではニュースらしくないニュースほど大切にされ、またそういったところに彼らのニュースの本質が盛り込まれている。それは創刊当初の事情に由来するものだ。「ビロビジャンの月」の当初の目的は、あるコミュニティの会報的な役割をもっていた。そして、当時の政府による厳しい言論統制と検閲から逃れるために、主題を巧妙に隠す必要があった。こうした状況からそれぞれの記事は本来の目的と、そうでないものの見分けがしにくいように書かれるようになった。最も目立つ位置にある第一面、トップ記事の情報はまるでもぬけの殻、目の届かない隅っこの場所にあるものにほど、真実が隠されている。生物が生態環境の変化にあわせ、自身の姿を変え適応していったように、「ビロビジャンの月」のあり方も周囲に待ち構える険しい状況に呼応しながら、言葉を選び抜くという方針で変化していったのだ。たとえ見えない圧力により担当記者が変わり、あるいは政府役人の捜査が入り、権力者たちに連行され、戻ってこなくなったとしても、編集部の方針は柔軟な態度を対外的には見せつつも大きく変わることなかった。暗喩的な記事は、より高度な暗号の意味合いを帯び、継続し受け継がれてきたのだった。記念すべき連載初回の記事は、政治家と映画女優のスキャンダルを時節と絡め揶揄したものだったが、何ら政治的意味合いを感じさせないリリカルなタイトルが付けられ、うまく検閲を逃れて発行された。のちに「水晶の騎士事件(The Crystal Knight)」として世論の関心が高まる、その発端となった記事だった。このときに書かれた見出しは記事の内容をうまく言い表したものとして人気を博し、今でも都の住人たちの記憶の中にあり、ことあるごとに引用されるほど有名になっている。短いセンテンスでありながらも、大人から子供まで誰でもが知る名文句となっているのだ。「スケッチ・フォー・サマー 〜夏至の極み〜」。編集長のデスクのある壁には、この創刊時の記事が大事に飾られている。まるで貴重な標本であるかのように黒のベルベットの上に留められた、この小さな紙面の切り抜きはすっかりと色あせ、酸化し、額縁の金箔と同じ色にまで黄変している。古い活版による凹凸のある印刷は立派な紋章のようにも見えなくもない。そう、この小さな紙片は、「ビロビジャンの月」の誇りでもあり歴史でもあるのだ。過去には幾度となく経営の危機もあった。あるいは反勢力武装派による襲撃で編集部の半数以上が死傷し休刊寸前にまで追いつめられたこともある。しかし、その都度、誰ともいわぬ支援の手が差し伸べられ細々とではあるが広く情報を伝えるという役目を全うしてきた。発行元、オーナーの入れ変わりもあるものの、商標と創刊当時の志だけは決して変わることなく発行され続けている。「ビロビジャンの月」は都に住む人たちの意見を紙に転写し、また反映するひとつの声として今日に至っている。


後編へつづく


posted by J at 09:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ■ 太陽の都 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする