2016年01月09日

ぱぱぱぱーん ぱーん ぱぱぱぱーん ぱん


Nausicaa: The Force Awakens Mashup/ Side by Side

いや、やっと観にいけた、スター・ウォーズ。
映画って予告編ではすごい期待させるんだけど、いざ観るとたいていその期待は外れ、観終わったあとのテンションはおおよそ6-7割くらいに減っていることがけっこう多いが、スター・ウォーズの最新作・エピソード7は予告編で期待させた以上のものがやっぱりあって、このあたりはさすがだなと思った。

行ったのは、平日の夜、新宿の大きな映画館。その日は映画のサービス・デーなんかの翌日だったらしく、こういうときは客足が少ないらしい、ちょっと覚えとこっと。いざ会場に入ると、400席以上あるシアターで僕を含めて観客はたったの5人。ほとんど貸切り状態。おかげでいい席でゆっくりと観れた(たぶんけっこうマイナーだったはずの、ピンチョン映画「インヒアレント・ヴァイス」より客が少ないのはどういうことなんだろ?)。しかし、公開から二週間と少し経った頃とはいえ、繁華街・新宿でスター・ウォーズの看板がありつつ、この状態ってあんまり盛り上がってないの? と若干心配もしたりしたが、たまたまだったのかな。

にしてもまぁ、デイジー・リドリー演じるレイのカワイイこと。二の腕がちょこっと見えるだけで、肌の露出が少ない衣装はかえって色気ありに見えたりもし、見とれてしまう(今回からディズニー制作になるのでいろいろ制約も多いのだろう)。それはいいとして、彼女が登場するシーンでこの映画は始まる(レイは墜落したスター・デストロイヤーの残骸からジャンク品をかき集め、それを売って生活している)。冒頭部分は映画を印象付けるけっこう重要な描写が必要だと思うが、このジャンクあさりのシーンは、風の谷のナウシカを彷彿させるものがあって、少しおどろいた(ナウシカがメーヴェでさっそうと現れ、腐海で朽ちた王蟲の遺骸から目のパーツを切り取る場面との共通点が多い)。と、考えてみれば、スター・ウォーズ・シリーズの最初の作品・エピソード4の冒頭シーンも、黒澤明の映画からの影響を受けていたのだからさほど意外性あるわけでもないか。旧三部作(Original trilogy)のときは、特撮映像の斬新さやメカのデザインなどで、最先端のSF映画というイメージを引っぱり、けっこう多大な影響を与えていたと思うが、もうそういう要素は感じられなかった。スター・ウォーズを観て育った世代がもっと時代の感覚にあったものを作ってきているし、現実的にもニュースや動画サイトにあるAmazings! やISILなどの映像の方が、より非現実的だったりと、なにかいっぺんするっと裏返ったような、そんな印象を持ちながらこのスター・ウォーズをやや冷静に観ている自分もいたりする。とはいいつつ、クオリティはやっぱり高いので、そのあたりは決して不満になることはないんだけれども、ただかつては時代の先をいっていたものが、時代と並走するか少し追い抜かれたようなところが見えたことに、ちょっと切ないものがあった(ストーリーもエピソード4の焼き直しやしね)。old school.

しかし、出てくるもの全てにメタファーがあるような、いろんな見方・想像・解釈の仕方ができるので、観ながらも観おえたあとも、いろいろと考える楽しみはあって、他の映画なんかではなかなかこうはいかないんだろうな。いくつか気になったところはあるので、またそれについて書いてみたい。で、やっぱり冒頭のシーンはナウシカを連想する人が多いようで、ネットで見ていくと記事や検証動画なんかもけっこうあった。ひとつ上に貼っておこ(この動画は後半ちょっと絡めすぎで強引だがわかりやすい)。


26 Unanswered Questions of‘Star Wars: The Force Awakens’
http://www.slashfilm.com/star-wars-the-force-awakens-questions/
このサイトけっこうためになった。観終えたあとに出てくるあれこれをフォローしている。






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2015年12月18日

ちくま文庫のアンナ・カヴァン


what kind of bags do you like?
like that!


というわけで、あんな鞄じゃなくアンナ・カヴァン「 氷 (1967)」をストーブにあたりながらじっくり読んでいた。天板に乗せたヤカンの湧く音がしんと冷えた夜の部屋に小さく響く。その音が物語にまた良く似合う。夏に読むとホラー、冬に読むとさらにコワーで、(訳文だけど)この人の文章はとてもいい。閉ざされた世界、男と女(少女)、迫りくる得体のしれない自然の物質が中心になって描かれているあたり、安部公房「 砂の女(1962)」と通じる感触がある。どちらも書かれたのは1960年代と、第二次世界大戦後の米ソ冷戦下のときで、西側諸国に漂う緊迫感など、同時代・同時多発性的な流れが小説にも影響しあっていたんじゃないかとふと思った。ちくま文庫のは川上弘美さんの解説付で若いファン層にもアピールできていそう。出た当初からすごく売れていたみたいで、みんなこういうのを待ち望んでいたんだろうな。







【2階文庫】ちくま文庫新刊アンナ・カヴァン/山田和子訳『氷』発売3日目、とにかくものすごい勢いで売れています!アンナ・カヴァンを読んだことがない方も、現在カヴァン唯一の文庫なのでお手に取ってみてください。解説は川上弘美。ice!!um

■ 紀伊國屋書店新宿本店@KinoShinjuku (2015年3月12日)
https://twitter.com/KinoShinjuku/status/575951458224381952



アンナ・カヴァン『氷』(ちくま文庫)重版決定しました。(発売6日目!)

■ 藤原編集室
https://twitter.com/fujiwara_ed/status/577426283321126912

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2015年11月23日

白系本(お気に入り本シリーズ)

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最近読んでいた「“少女神”第9号」という本と、読み始めたばかりの伊藤計劃さん「ハーモニー」、この二つが、すごく透明感ある文章で通じるところがあり、「透明感」をキーワードにしていいのを四冊揃えた。


「幸福・園遊会―他十七篇」 マンスフィールド短篇集(岩波文庫)
キャサリン・マンスフィールド(1888 - 1923 / 34歳没)
マンスフィールドの代表作で、現在、文庫で気軽に入手できるのはこの「園遊会」のものだけだと思う。といっても、岩波文庫版はもう絶版なので新潮文庫の短篇集が代わりのものになる(新潮版は持ってないので、収録作は不明だが、いくつかは岩波のと重複していると思う)。さわやかな木漏れ日のあたる丘の中で、緑いっぱいを吸い込んでいるような、瑞々しい文章が特徴的で、読んでいてさわやかな気持ちになれる。病弱な人が書いたからか、自分の命を測っていたのかもしれない、どこかもろい世界をも同時に感じてしまう。若くして亡くなった。新訳で出してほしい作家。


「“少女神”第9号」 フランチェスカ・リア・ブロック (ちくま文庫)
一見サブカル系ライトノベルのような邦題、でもちくま文庫。本を開いてまたびっくり。文字がカラーで、しかもえんじ色から紫、紺へと徐々に変わるグラデーションになっている。十代の女の子の頭の中をぶちまけたら、きっと溢れ出てくるだろう沢山のポップで甘いキーワードがページを埋め尽くしている。マイノリティな子供たちが登場する話だけれども、響きの良い言葉が並ぶせいかどこか軽い。自我の芽生えた世代が大人社会とぶつかり、にじんだり反発したり、モラトリアムとも違う、なにかあっけらかんとした感情がうまく表れているなと感じる。この短篇集、全部で9篇の物語が収められていることから、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」が引き合いに出されるそうだが、僕はそっちを読んだことないので比較できない。こういうときにベーシックなこと(教養)を身につけていないといけないな、とは思うが、まぁ、そういうのを知らなくても十分に楽しめた。感想は誰でも書けるが、批評となるとやっぱり相当な知識と違った視点を持ってないと難しい。


「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」 桜庭一樹(角川文庫)
一樹という名前からして、てっきり男性作家だとばかり思い込んでいた。(でも男にしては)えらく繊細な文章を書くんだなと関心していたら、去年ぐらいに女性だったこと知って、ようやく納得いった。これは最初に読んだ桜庭さんの本で、やっぱりみんな、このタイトルで手にとる人が多いように思う。駆け抜けるような文章が素敵。ときどき読み返したくなる一冊。この小説の一番は、もうひとりの主人公、「海野藻屑」、このネーミングこれしかないと思う。物語に出てくる人物の名前って、読みすすめるか、そこで終わるか、というくらい僕の場合わりと重要で、ミステリー系に多いやたらおどろおどろしい名前とか、妙に力がこもった凝った名前とかだと、ああ、もうその時点で恥ずかしくなり本を閉じてしまう。やっぱりこの名付けセンスは大事だ。そういう意味では桜庭さんのこの本でのネーミングは、肩の力を抜いて楽しみながら書いているんだろうなということが伝わってくるようでばっちりだと思う。他、伊坂幸太郎の小説に出てくる名前にも趣味のよさを感じる。


「ハーモニー」 伊藤計劃(ハヤカワ文庫JA)
(1974 - 2009 / 34歳没)
若くして亡くなった作家。マンスフィールドと同じ34歳、病にてという共通点もなにか不思議。芥川龍之介は病死ではなく自殺だけど35歳没と、なにか三十代中盤にひとつ生死に関する磁力が働くのか、たまたまなのか。
ほんと最近急に興味持ったので、いまさら、だけど作品に触れることができてほんとよかった。いわゆる名作といわれている小説などは、すでに近くはない過去のものだったりするだけに、書かれた時代の状況などを多少は想像したりし、幾分その背景を補完しなければいけなかったりするが、同時代の中で生まれた物語を、ほぼ同じ時代の中で読むことができるるってのは、また違ったプラスアルファなことが味わえていいもんだな、と。
まだ1/3ほどしか進んでないが、何よりも文章の透明感が素敵で、なかなかこういう繊細なものには出会えない。表紙カバーのデザインを含め、ダムタイプの池田亮司さんの作品とも通じるものを感じたり。日本の小説はやっぱりどこか畳くささや醤油っぽい匂いが残っているものだけど、この小説にはそれがなくて、闘病生活の中で書かれたことが影響しているのか、無菌状態というか病院のもつ独特の清潔さが言葉にも表れているように思える。いい意味で重さのない文章に(軽い重いというのではなく質量がない)、今の世代を象徴する何かがあるよう。



Ryoji Ikeda data.path installation - Madrid



Past Logs / お気に入り本・シリーズ /

■ 晩秋のリケ本 (2015-11-04 13:00)
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「ユークリッドの窓」レナード・ムロディナウ(青木 薫・訳)
翻訳が「フェルマーの最終定理」と同じ青木さんだったことで気になった本。数学や物理、哲学、科学、歴史や神話等、著者の幅広い知識から繰り出される文章がけっこう文学的というか、引き込む魅力があって面白い。「スタートレック」の脚本家だったということで納得。ちなみにこの本、横書きになっている。「、」が「,」、「。」が「.」の表記で見開いたページの印象もどこか理論的なニオイがある。理系の人って日本語でも「、や。」を使わず、「,と.」に置き換えるあたりに僕はホワイ? だったりするが、父もこの例にもれず、メールでも必ず「,と.」を使っている。昔、一度その理由をたずねたら、「そのほうが理にかなってる」という返事がかえってきて、ますますわからなくなった。論文などはほぼ英語で発表するから、文字を打つときもそういうクセがついてる感じなのかな。あんまりみかけないけれど、女の子でこういう記号の使い方をしていたら、けっこうゾクっとする。日本語には日本語の記号を使い表記するのがあっているように思うが、こういうハイブリッド(←猪と豚から生まれた子を意味するラテン語の"hybrida"が語源)の仕方が、新しい言葉や文法を生むきっかけになるんだな、と言葉の面白さを感じるところもある。数学者が言語を開発したら、はたして使いやすくなるのかな? とか。英語のeleven, twelveが十二進法の名残り、フランス語のそれが20進法からきていると知って(ゲルマン語系のアングロサクソン語とラテン語系言語を使う民族の違い)、なにかいろんなものが脳の中でまざってゆく。

「恐竜はなぜ鳥に進化したのか」ピーター.D. ウォード (垂水雄二・訳)
生命の進化が地球の酸素濃度と関係していたんじゃないかという説。うかつに、-息の長い-生物なんて表現はこの本では禁物だったり。

「破壊する創造者」フランク・ライアン(夏目 大・訳)
論理的な文章に加え、シェイクスピアやラテン語の語源を引用してきたり等々は西洋人の得意とするところで、こういった教養の広さが発想を膨らませ着眼点の面白さを生んでいるんだなと、妙に納得してしまう。最先端の研究をしている生物学者たちには、「人」という生物がどんな風に見えているんだろう? と読んでいて気になった。

「ネオフィリア」ライアル・ワトソン(内田美恵・訳)
80年代後半に書かれた少し古いものだけど、今読んでも十分面白い。雑誌「ブルータス」に連載されていたものだそう。この頃は、教養のある読者がついていたいい時代だったのかな? ブランドのスペック比較と記事広告に成り下がった現状の紙面と比べると、読者層の変遷というか、消費社会の残骸というか悲しいものがあったり。文化人類学と科学を混ぜ合わせたような知的なエッセイという感じで、著者はライフサイエンティストという肩書き。


「本」のいいところは、読むことによって、普段まったく接点のないような(専門分野の)世界に少し触れられるということだと思う。僕は理系の知識をさっぱり持ってないけれども、初心者にもわかりやすく書かれているこういった本は、読んでいてたのしい。美術や文学のいわゆる主観の強いアーティスティックな想像力にも惹かれるが、事実や客観的な証拠・データをもとに、過去や未来、あるいは世界の不思議を推測したり、考古学的な想像をする能力というのはとても説得力があり、芸術とはまた違った面白さを感じる。


■ 世界の言語の数体系
http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/numberj.html




■ 読書の秋・2015 (2015-10-08 13:00)
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読みたい本はどんどん増えていくのに、読むスピードが全然おいつかない。ちょこちょこ古本屋さんなんかを覗いてはいい本を見つけ、また欲しいものリストが増えてゆく。これまであまり本を読んでこなかったせいもあって、知っていて当然というごく一般的な知識が思いっきり欠けているので、少しくらいは追いつかないといけないのに、読むべきものがただ増えるばかりで減っていくということがなかったりする。怠けていた自分がいけないとはいえ、なんかくやしい。

友達に教えてもらったザミャーチンの「われら」という小説が気になっていて、しばらくのあいだ探していたのだけれど、どういうわけか絶版になっていてなかなか見つからず、早く読みたいなと思っていたらある日偶然棚に並んでいた。思わずWOW。こういう瞬間ってけっこう嬉しい。普段の話中で僕の好みや傾向から、今どんなものを求めているんだろうと推察し、いくつかの本や作品をさらりとサジェストしてくれる友人がいるというのは幸せなことだと思う。年を追うごとに知っていることは増え何に関しても目新しさを感じることもなくなり、またあらゆる面で若いときに持っていた好奇心も弱まってくる。嗜好性も無意識のうちに固定化してくるし、幅を広げにくくはなる。でもやっぱり知らないことはまだまだ沢山あるんだよな。このザミャーチン「われら」もディストピア小説の元祖的になっている有名な一冊なんだと教えてくれたものだった。

ルルフォを知ったきっかけは忘れてしまったけれど(たぶん彼の撮ったメキシコの風景写真から興味をもったような)、「ペドロ・パラモ」はいつのまにか自分の中のWANTリストに入っていてようやく手にした。文章が陽の光を浴びた雨露のようにキラキラしててすごくいい。ルルフォは小説家と写真家、二つの顔があり、写真もまたほんと素晴らしい。どちらも超一流ときて、これぞ本当の才能の持ち主。

ホイジンガというガイジンが書いた「遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)」は著者の名前でまず気になった本で、数行読んだ瞬間に即買い。頭の回路がピキーンピキーンと刺激される。サピアとボルヘスが左右両耳、同時に語っているようで、これはおもしろい。焼き鳥屋さんみたいな名前に親近感がわく。「へい、お待ち!」「おっちゃん、これ何?」「ホルモンでーす」

「ルネサンスの魔術思想」これはゆっくりじっくりコトコト読み込もうと思う。




■ 今年のお気に入り本(2013-12-27 07:00)
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今年読んだ本の中でも、特によかったものいくつか。上の写真には入ってないけれども、ブローティガンやコルタサル、三浦哲郎さんなど、初めて知る作家の作品も読めたので充実だった。特に久生十蘭にはハマってしまった。十蘭の小説は文章の密度と硬度が素晴らしく、こんなすごい人が日本にいたなんて! と思わず絶叫したくなる作家だった。どうやら自分はロシア文学が肌に合うんだなということにも気付いた。下北のiさんからはポール・オースター、kobaさんからはカルヴィーノなどを教えてもらい読む幅が広がった。ありがとうございます。来年は柴田さん新訳の「ガラスの街」、「柔らかい月」を読んでみよ。

今年はわりと文学ものの本を良く読んだ。これまでは、経済本だったりドキュメンタリーものを読むことが多かったけれども、随分とその割合は減った。その代わりに、新旧含めての小説がぐんと増えた。文学の世界は奥深く、今まで本当に何も知らなかったのだなぁと改めて実感した。ひとりの作家を知れば、派生して複数の作家とつながり、またさらにという具合に広がってゆく。扉から垣間見る未知の世界は、とてもわくわくするもので、子供の頃のまっさらな脳に戻ったような感覚がある。中学の受験時代、高校生の頃からあまり本を読まなくなり、それは大人になっても変わらず続き、いつの間にか文字が沢山あるとめまいがするような体質になっていた。でも、そういえば小学生の頃は大変な読書家だったんだよな、ということを今頃になって思い出す。

学校の図書館が大好きで、ファーブル昆虫記や、ルブランのルパン・シリーズ、ドリトル先生にジュール・ヴェルヌの海底二万海里なんかを夢中になって読んでいた。読書の量が減っていったのは、わりとはっきりと分かっていて、ロックなどの音楽を聴くようになったのが一番の原因だった(そのうちにバンドなんかも組んだりもし)。そのときから、おそらく何事も「感覚(Feeling)」だけで済ませてしまう悪い癖がついたように思う。おまけに、学校の成績も目に見えるほど下がってしまった。もう少しことばを組み立てていく論理的な側面と、バランスよく吸収できなかったのだろうかと後悔しつつ、この大きな反動が今すんごい波になって表れている。旅と読書は若いときにするべきなんだなと。

僕のうちではわりと厳しい決まりがあって、子供のときはそれがすごく嫌いだった。コーラなどの炭酸飲料やスナック菓子は、口にしないようにきつく言われていたし、テレビも一週間に(確か)二時間しか見てはいけない(とはいえ親がいないときは隠れて見ていたけど)、といったようなルールが沢山あった。学校帰りの駄菓子屋では、友達は皆ファンタ・オレンジやグレープなどを飲んでいたのに僕だけはオレンジジュースだったりして、ちょっとした疎外感を感じたりしていた。テレビ番組に関しても、たとえば朝ごはんのときに新聞のテレビ欄を見て、見たい番組を選んだ上で母に申告する。もしその週に見たい番組があって、運悪く決められた二時間という枠を越えていた場合は、次週分の時間をカットしなければならない等。こんな風だから、友達の家に遊びに行くと、自分の家とは違ってわりとなんでも自由にしていたように見え、とてもうらやましかった。そんな中でも、ただ、ひとつだけ自由にしていいことがあって、それは今思い返すと本当に有難いものだった。何が自由だったかというと、僕が読みたい本はたいてい何でも買ってくれたことだった。両親ともに本が好きなため、面白そうな本があると、ぼくが欲しいと言わなくとも勝手に買ってくるようなところもあった。きっとこのことも、今の今になって読書熱に火をつけた遠因になっているのだと、本を手に取るたび、感謝の思いを抱かずにはいられない。




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2015年11月20日

山形浩生の「経済のトリセツ、より



ベストセラーのリストだけ見ていると、あるいは流行ばかり見ていると、腐ったタレント本やら扇情本、柳の下のドジョウ狙いの追随本、返品増加に倒産騒ぎ、そしてこんな有益なメルマガさえなくなる劣悪な財務状況、さらにはiPadだのなんだのと、本を取り巻く環境は悪化しているように見えるし、出版界のレベルは落ちているようにも見えるし、そしてその通りだという部分も多い。でも一方で、読める本のストックとして見ると、実は状況はそんなに悪くないのかも、とぼくは思っている。そしてちょっとそのためのガイドがあれば、みんなずっと有効にそうした本やら情報やらを使えるのに、とも思う。こんなコラムが、少しでもその役にたてたことを祈りたいけれど、どうだろうね。ではまたどこかで。


山形浩生の「経済のトリセツ、より
"伊藤『虐殺器官』他:ソフトバンク書評コラム"
http://cruel.hatenablog.com/entry/20100601/1396109534

最近の日本の(わりとメジャーな)小説を読んでいると、ストーリーを追うための「状況説明描写 + セリフ」に、詩的な言いまわしが付き多少アクセントになっているものが多く、文の構造というかもっとその奥に何か面白みのあるものが少なくて、つまんないなと思っていた。言葉と言葉の間から、読み手の想像力広がっていくようなものって、あまりないなと。読みやすいものは沢山あるんだけど、噛み応えなく単調すぎるんだよな、どれもこれも。僕は当たり障りのない解説書モドキを読みたいわけじゃない。「読む」という行為は自分の意志で行っているものだから、読む読まない取捨選択の自由は確かに自分自身にある。しかし、-返ってはこない-時間を削っているという面もある。読書に費やせる時間が無限にあるわけでもなく、手に取る一冊一冊はけっこう吟味していかなければいけなかったりする。リーダブルで読者にやさしい、のが本当にいいものなのかは常に疑問だ。調理不要ですよ、といって小骨を全て抜き取った魚を手渡されているようなものだし。
そういったなかでも、伊藤計劃さん、円城塔さんの本が面白そうで、少し興味をもって調べていたら山形浩生さんのサイトにぶちあたって、あれ? たしかこの人、バロウズ本の翻訳者だったよな、なんてサイトを見ていると、思いっきり口が悪いというか、すごい切り口で言いまくっていてえらく面白かった(僕の抱いていた翻訳者のイメージと思いっきりかけ離れていて)。リズム感ある文章は、けっこうクセになる。はじめは、どうしてこんなに毒舌なんだろう? と不思議に思えたけれど、よくよく読んでいると、ああ、この人の言葉の組み立て方ってきっと英語がベースになっているんだと思った。一見、口悪く書いている文章も、コレ英語圏の会話だと思って、日本語→英語に翻訳(想像)してみるとけっこう向こうの人の会話に近いものがあるんじゃないかと思ったり。「21世紀の資本」の翻訳もそうだった。と、これ原著はフランス語だから重訳になるのか。まぁ、文学作品ではないからさほど気にしなくていいのかも。


「わたしの名は赤」オルハン・パムク、読み始めた。これすごくいい。


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2015年10月18日

なかなか、面白そうなイベントじゃないか


 若者の海外旅行離れがすすんでいると言われる。20代の出国者数をみると第2次ベビーブーム世代が20代だった1996年をピークに人口減少以上のペースで減り続けているが、一方で印象的な日本人の若者に旅先で出会うことが増えたという声も最近は多い。この落差についてゲストハウスジャーナリストで『Japan Backpackers Link』代表の向井通浩さんは、本屋B&Bイベント『そろそろ、歴代の旅本について語ろうじゃないか?』の壇上で「若者たちの旅する姿勢が変化したから」と語った。

旅というのはもともと“ちゃんとしていない”人がしていました。そして、今も本質はそのままだと思います。



■ 若者旅行は意識高い系にシフト ラオスで象使い体験等が人気
http://news.livedoor.com/article/detail/10718555/

■ 向井通浩×神田桂一 「そろそろ、歴代の旅本について語ろうじゃないか?」(本屋B&B)
http://bookandbeer.com/event/2015101202_bt/


旅の目的は人によって異なるだろうけれど、旅先での非日常的世界から、自分が普段生活をしている日常を俯瞰して見れる、そういう瞬間がわりと大事だなと僕は思ったりする。移動中のバスの車窓景を眺めながらだったり、ゲストハウスのベッドの上だったり、ふとした瞬間に自分が暮らし過ごしている日々がぷつんと途切れ、何か頭の中でいろんなものが整理されていく感じ。それまでのうだうだした旅先での出来事や葛藤、ハプニングなんかが、ぐいっと自身の中でエネルギーに変換されていくときってのが、旅の途中どこかで一回くらいは訪れる。それが現れるまでを楽しめるようになってくると、けっこう気持ちに余裕が出るというか、たいていのことがどうでもよくなったりもし、それまで見ていた景色が急に違ってみえてくるようになる。異国の地での旅も長く続けば、そこは日常と化してしまう。日常にならない非日常でいられるぎりぎりの期間をできるだけ長く、そして緊張感を保って過ごしていくのは、けっこう難しくもある。求め願っていた収穫のようなものがないときもあるけれども、それはまだ自分がうまく受け入れられてないものだと考え次の機会への課題になったり。結論を出すために旅立ったはずが課題がうんと増えてしまったり。なんにせよ、なにか自分と向き合えるのが旅の一番の魅力なのかもしれない(友達や大勢で行くレジャー的な旅行だと、ちょっとわからないけれど)。スマホ片手に今いる場所の実況中継&報告をする旅行者はやっぱり時代を反映しているのか、ずいぶんと増えたように思う。こういった普段、日常の延長上で終わってしまう(抜けきれない)ようなスタイルは、きっと僕には合わないだろうな。

上記リンクは、旅本をテーマにした下北の本屋「B&B」さんのイベントのもの。ここは下北によったときに時々のぞくお店で、いつも面白くマニアックなテーマで開催されている。こんなことしてる人がいるんだなと、初めて名前などを知ることも多い。けっこうな頻度でイベントをやっているけど企画がマンネリ化してないのがスゴイ。旅の本も今の時代は、1960-70年代ごろにかけて盛んだった頃と比較すると、すっかり違ってきているように思う。サイトのリンク先にある「旅本・旅行記・冒険記一覧年表〜2011完全版」のタイトル&ひと言紹介をみていると、十年、二十年経っても色褪せない旅行記がけっこうあった。
http://backpackers-link.com/books.html

僕が好きな旅本は木村肥佐生さんの「チベット潜行十年」という本(上の「旅本・旅行記・冒険記一覧年表」には載ってなかった)。チベット関連の日本人旅行記では一番スリリングで面白いと思う。中国が内戦でゴタゴタし、日中戦争へと発展する政変期の中国・チベットの様子を克明に記録している。わりと近い時期の中国を描いた「紫禁城の黄昏」も面白い。外国人の目からみた異国の地ということで、旅行記の範疇には入っていいとは思う。



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2015年08月03日

ポメラニアン


このBLOGをはじめたのは、Htmlのさっぱりわからない僕でも、HPに近いサイト、写真のギャラリーができるぞという単純な理由からだった。なので最初のころは写真の説明としての短い文があればいいやと思う程度で、キャプションくらいのものを写真に添えていたが、そのうちにああこれではダメだと気付きはじめる。よく「言葉にならないものを撮っているんだ」なんてことをいうカメラマンがいたりするが、そういう言い訳は空しく響くだけで、写真には「言葉の裏づけ」が必要なのだと思う。「言葉の裏づけ」のない写真はただただ薄っぺらなもの、色素の集合にしかすぎない。写真に対し多くの言葉がついてくるほどに、その写真は奥行きと意味を持つようになるのだろうと考える。できれば感性を絞り出した上で年相応の文章が書けるようになればいいのだけれど、書いた文章というのは無情なもので、自身の浅さを見事に浮き彫りにしてしまう。まぁ、それでも、それが今の自分のありのまま、自分の能力なのだから仕方がない。文章に小細工はきかないし偽れない。今書けるときに書いておかないと、いつか書けるだろうなんて楽観視できるほどの才能を僕は持ち合わせていないし、ただ精一杯に文字を打つだけだ。それでも、実行しないだろう立派な計画を立てることよりも、いま目の前にあることをやっていればいいんだと、ずいぶん気楽な気分でいたりする。これぐらいでいる方が意外と歩みが早い。

以前は、少し長めの文章でもPCのキーボードを使って書いていたが、たいてい2,000文字を超えたあたりで目がちかちかと痛くなってくるので、文章が少し長くなりそうな場合はポメラに変えるようにした。すぐに起動できるし持ち運びも楽なので、移動の途中でも使えるのが嬉しい。気楽に文字が打てるようになって、いや、これ最高に便利なツールだなと思う。一度使ってしまうともう手放せなくなってしまった。So i'm ポメラニアン. 僕の使っているのはDM20という機種。ハイスペックな機能はいらないのでこれで十分(すぎるくらいに)間に合う。あとはネットのつながるスマホとかがあれば、調べモノができるし完璧になるのかな。いまは固形水彩のコンパクトなものを探しているところ。できるだけ、機材やソフトに頼らず、自分の頭をつかい、手の延長になるもので何かをつくりたいなと思っている。少し前のものだけど下記リンクの記事をみて、少しこんなことを書いてみました。今夏はトーマス・マン「魔の山」を読もう。岩波版が古風でいい。


■ ガジェット通信
参考価格2万円 → 実売4730円なう 『ポメラ DM5』アマゾンで激安販売中!
http://getnews.jp/archives/1050946
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2015年07月19日

アマゾン制作の「高い城の男」


The Man in the High Castle - Official Comic-Con Trailer

フィリップ.K.ディックの小説「高い城の男」がドラマ化! だそうでこれ早く見てみたい。なにより、びっくりなのがアマゾンの映像部門が制作していること(2010年にはじまったようで、2013年頃から作品が制作されている)。まず自前でコンテンツ制作して、関連本やソフトなんかを放映後に本家で受注、みたいな流れに? うまく考えたな、と思いつつ、やっぱり小売り業だけをやっているとメーカーの生産に左右されるし、飽きてもくるのかもしれない。販路は確立しているのだから、自社で何か製品開発やコンテンツ制作をすれば、すぐに客がつくというのは強みだろうな。流通小売り業で、アマゾンのようになにか映像なりの製作部門を構えたところって、あまり聞いたことないけれど他にあるんだろうか? ま、売り方のあれこれはともかく、日本も似たような家族・学園モノや人気の出た海外ドラマシリーズの劣化コピーみたいなのじゃなくて、こういうスケール感もった原作などを取り上げて映像作品を作ればいいのに(wowowでやってたMOZUは面白かった)。ここ最近なんとなく時代の空気が村上龍の「愛と幻想のファシズム」にも似てきたようなところもあり、現実が小説化しはじめたのかな? というよりも、60-70年代あたりに戻りつつあるような感じか。

「高い城の男 (1962)」は、もしも、第二次世界大戦で枢軸国側(日本・ドイツ・イタリア)が勝利し、アメリカ大陸を分割統治したなら、という設定で書かれた歴史改変SF小説で、ディックの小説では人気のある作品、というくらいは知っているけれどまだ読んだことはなく、こりゃ早く読まないと(ディックの小説って何か読みにくく、中長篇は途中でくじけてしまう)。その前に一つ、歴史改変モノで読みたいのがあるので、やっぱりも少し先かな。キース・ロバーツの「パヴァーヌ」を、本屋にいくと探すんだけどいつも棚にはなく、なかなか手にできずにいる。今は、SFとは真逆にある小説パヴェーゼの「故郷」を読んでいるところ。いいイタリア映画を彷彿させる映像的な文章。


■ 高い城の男 - wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E3%81%84%E5%9F%8E%E3%81%AE%E7%94%B7
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2015年05月12日

村上さんのところ、より(『Inherent Vice』の邦題)

GWに入ったあたりからか、いつのまにか映画「インヒアレント・ヴァイス」がじわりじわりと盛り上がってきている感じでひと安心(4月後半週に公開というのは、そういうことか)。雑誌「ユリイカ」の最新号(2015年5月号)が、ポール・トーマス・アンダーソンを特集していたり、ちょっとうれしい後押しもあり(アマゾンで部門ベストセラー1位!)。この映画、ピンチョンの小説と同じで、一回目はいまひとつつかめないところが沢山あったけれど、また観たくなる(読みたくなる)吸引力がある。
ピンチョンの次はボラーニョの「2666」だ!




僕が好きなピンチョンはなんといっても『V.』です。

村上春樹拝


■ 村上さんのところ、より
〜『Inherent Vice』の邦題 〜(2015-01-26)
http://www.welluneednt.com/entry/2015/01/26/073000


村上春樹のおもしろさ、魅力は何だろう? そう考えたときに僕がまず思い浮かぶのは、村上さんの言葉に対する真摯で誠実な態度、あるいは、どうしたら自分の頭の中に渦巻く色々なことを、言葉を使ってうまく他人に伝えれるのか、それを小説という形で表してきた、そのことなのだと感じる。ギリシャやイタリア、アメリカなど言葉と文化の全く違う海外の国に滞在し、その地で生活したことが、元来持ち合わせていたのだろう資質をうまく蒸留し、村上さん自身の書く文章にフィードバックされている。
これまでに書かれた村上さんの小説やエッセイなどを読むと、ストーリーや取り上げる話題とは別に、"言葉"と真剣に向かい合う姿がはっきりとあって、これらテキストを通して読者との間接的な関係を築いて(築こうとして)いるようにみえる。メディアへの露出を必要以外に控えるのは、自分の書いた言葉に対する責任、そして自信を持っているからこそなのだろう。それだけできっと十分なのだ(ねぇ聞いて聞いてと、ただ喋るのはとても楽だし、思いつきだけをまくし立てれば済んでしまうが、何かを書くというのは、自分自身と対峙しなければならず、また論理性も必要になる。そして、自分の書いた文字がまるで自身を映す鏡のようになって現れ、直視できないことも多い)。そのあたりのストイックな姿勢は、ピンチョンとけっこう通じるところがある。

とはいっても、時代の流れには逆らえないところが少し出てきたのか、いままで村上さんはwebサイトやblogのようなものには一切手をつけてこなかったけれども、少しネットとの関わりがこの期間限定特設サイト「村上さんのところ」でみれるようになった。ファンからの質問をワンクッション置きながら、それぞれに答えていくこの方法は、コンテンツとしての要素とコミュニケーションの側面、二つがあってなかなかいいなと思った。膨大な情報が次々と更新され、何もかもが渾然となりどんどんと流されていく新陳代謝の激しい今の時代には、昔懐かしい時差みたいなところもあり、自分自身の裁量で適度にブレーキを踏みながら、無理せず(メディアとつき合い)のんびりいこうよ、と言っているようにも感じる。

これまで村上さんはエッセイや本の中で、カポーティやフィッツジェラルド、サリンジャー、アーヴィングなどについてはたびたび触れてはいるけれど、そういえばピンチョンについては、なかったような記憶がする。そして僕はピンチョンに対してどういう風に思っているのかがやっぱり気になっていて、上記リンクのQ&Aはとても興味深かった。
また、村上さんの影響力は相変わらず健在で、この「V.」好き発言のあとも、過去の例と同じように、ハルキニストたちがピンチョンの小説を手に取るようになっていた。


 いつまでも自分の心を打ち続ける一冊の本を持っている人は幸福である。

「村上朝日堂はいかにして鍛えられたか」村上春樹・安西水丸、より
"旅行のお供、人生の伴侶" / 新潮文庫(p250)



「インヒアレント・ヴァイス」の原作、ピンチョンの「LAヴァイス」の翻訳者、佐藤良明さんのブログにこの映画のわかりやすい解説があった。この映画は言葉(セリフ)の密度が高いので、やっぱりある程度予備知識を入れておかないと少し分かりづらい。


 わからない映画、にしてしまっては勿体ないので、『インヒアレント・ヴァイス』を観に行く前に、どうぞ、予習をしてください。この映画、筋を事前に知っても「ネタバレ」とはならない、そういう映画ですのでご安心を。


■ サトチョンの翻訳日記、より
〜『インヒアレント・ヴァイス』予習のページ〜
http://sgtsugar.seesaa.net/article/417698128.html



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2015年04月25日

映画「インヒアレント・ヴァイス」を観てのあれこれ


映画『インヒアレント・ヴァイス』予告編(2015年4月18日公開)日本語字幕付



めずらしく、公開中の映画を見に行った。「インヒアレント・ヴァイス」。トマス・ピンチョン原作、ポール・トーマス・アンダーソン監督のアメリカ映画。去年の冬、ユーチューブで見た予告編から約半年弱、ほんと日本での公開が楽しみだった。試写会などをのぞくと、映画館の大きな画面で鑑賞するのは、ずいぶんと久しぶり。前は何を観たっけ? と、思い出すのにも少し時間がかかる。そして最近の映画館は予約制になっていて、全席指定、立ち見なしのシステムになっているんだ、とかを知る。"手順通りに従えば"快適に鑑賞することができるのはいいんだけれども、慣れないものだからやや面倒くさかった。

子供の頃、人気のある映画は立ち見なんて当たり前だった。きっと客足が多く混むだろうと踏んだときは、ひとつ前の上映回に行って、次回の順番を待ち、終わった客が出てくるのと同時に、ホール内になだれ込んで、座席を奪いあう。とにかく座席を確保するまでは、列に並んでいる間も気が抜けなかった。こういう理由で皆、目がギラついている。運悪く座席を確保できなかったら、通路にしゃがんで見たり、映画を見るに至るまでがちょっとしたアトラクションだった。当時の映画館は完全な入れ換え制でもなく、ルーズなところがあったので、いったん出る振りをしてまたホールへと戻る二度見の客もけっこういたりもし、そういうのをめざとく見つけた客が「おまえ、さっき見てたやろ、そこ(席)どけ」なんて言いだし、喧嘩がはじまったり、まぁおもしろかった。開演を待つ長い列の中で(映画館のロビーを飛び出し二三階下の階段にまで続くこともめずらしくなかった)、これから同じ映画を見るだろう客をじっくり観察したり、その数の多さを見て、これから始まる映画への期待がいっそう広がったりした。そのときに何の映画を見たのかは、記憶の奥からひっぱり出さないと思い出せないけれど、上映前に起こった妙ないざこざだったりはわりとすぐに思い出せる。なにもかもがスムーズに行き、ことなく終わるよりもSomething Happenedがあった方が楽しいのに。そしてまた、上映中もうかうかはできなかった。座席の細い肘掛けをめぐって隣の人と腕のぶつかり合い。でも今は間合いのある座席になっていて、こういった攻防をする心配も必要ない。ゆったりとした座席に腰を下ろし、開演までの短い時間を落ち着いて過ごせる。まぁたしかに、映画館の中が街の雑踏よりもひどい、という状態よりかはマシか。

さて、「インヒアレント・ヴァイス」。ユーチューブの日本語字幕の予告編をみると、アクセス数があまり伸びてなくて、もしかして貸し切り状態でみれるか? なんて行く前は心配をしたりしたが、いざ映画館に足を運んでみると、平日夜の回だったのに7割ほど席が埋まっていて、予想以上。少し安心した。受付の人に活況具合をたずねると、この映画、都内では渋谷と豊洲の二カ所でしか上映してないこともあって、封切り最初の週末は満席だった模様。どんなマイナーものでも、それなりに人が集まるところは、ある意味東京(あるいは大都市圏)の良さだと思う。日本で、しかも字幕ありで、公開してくれただけでも感謝もの。観客の年齢層は三十代から五十代くらいにかけてが多く、なかには通りすがりに立ち寄ったのか?(渋谷にあるだけに)と思うような若い子もいた。年配の人はたぶんピンチョン・ファンなんだろうなと思って眺めていた。

映画そのものは、楽しくみれた。とはいっても原作の「LAヴァイス(邦題)」は読んでないし、ポール・トーマス・アンダーソン監督の他の作品はこれまで観たことがない。普段頻繁に映画を観ているわけでもないから、映画のなんたるかを書くなんてことは、僕にはそうとう難度が高い。こういう悪夢みたいな状態でも、何か感想のひとつでも書いておきたいと思わせるのがピンチョンの魔力なのかも。

映画をみてまず思ったのは、これ、元の小説は相当密度の高いものなんだろう、ということ。映像を観ながら、小説ではきっとこういう、ああいう文体で描写をしてるんだろうとかを想像する。くせ者そろいの登場人物の描き方は個性が分かりやすく、また役者もぴったり。それがこの映画で一番の魅力にもなっている(そして、やたらと葉っぱ、ドラッグを吸うシーンが多く、1970年代当時のLAってこういう雰囲気だったんだろうなと思わせる。ゴールデン・トライアングル産の高級品”チャイナホワイト”が出てきたり、ヒッピー・カルチャー全盛のアメリカがここにある)。映画の場合、シーンの描写や人物の感情、心理状況は映像と音が補ってくれているから、観客はおおよそ、セリフを追いかけるだけでいい。その点が本を読むのとは大きく違うところ。それでも、ピンチョンの小説がベースになっているだけに、当然、セリフの一句一句にいろんな隠れた意味があって、それがまた幾層にも絡み合ってくる。これが後半にかけて、ちょっとやっかいになる。僕の場合、セリフに含まれる情報量の多さに、頭が追いつかないという状態になってしまった。映画の場合は、DVDのように停止ボタンもないし、本を閉じてひと休みというわけにもいかない。でも、ストーリーは次から次へと流れるわけで、いちいち立ち止まることはできない。取り残されないように懸命についていくんだけれども、それがある時点でぷつんと切れてしまった。おおよそ六割を過ぎたあたり。映画自体も後半に入ると、話の進み方が早くなって場面展開がうまくつながらない(ように感じた)。前半の編集具合がすばらしく良かっただけに、少しそこが目立つように思えた。はじめの方は期待がどんどん膨み、テンポもいいため、よけいに後半との差が感じられた。うまいたとえじゃないけれど、村上春樹の「1Q84」を読んだときのあの感じと少し似たところがある。第二巻の後半あたり(だったかな?)。集中力というか前半の勢いが急に衰える、妙な失速感。もう少し分かりやすくいえば、肺活量のある人が大きな風船をいい形に膨らませていって、しかし、途中で咳き込んでしまいしぼんでしまったという感じか。見ている間は、うまく物語を把握できずにいたけれども、帰り道の間にゆっくりと未消化だったシーンなどが、つながりをみせる。ピンチョンの小説と同じようも二度、三度みて面白さがわかったくるタイプの映画なのかもしれない。
おそらくこの映画は全十二話くらいのドラマ・シリーズにすると、この物語を、うまく映像で描けるんじゃないかと思う(きっと極一般的な映画の尺には収まりきらなさそう)。舞台になる場所もLA近郊の限られたエリア。とくに派手な場面があるわけでもなく、また「映像で魅せる」要素もそうない。この街で繰り広げられるシチュエーションが続いていく。きっと、映画つくりの場合、緻密で複雑なストーリーは向いてないのだろう。いい意味で"抜け"と"わかりやすさ"のある物語の方が、観る側も受け取りやすい。おおよそ、短編から中編くらいのボリュームで、粗筋から少し話を膨らませるようなものが、映画というメディアに向いた作品に仕上がるんじゃないかと思ったり。ピンチョンでなら、初期短篇集「スロー・ラーナー」に収録の「秘密のインテグレーション」を、「パリ、テキサス」のようなドライなタッチで撮ったものがしっくりとくるように思う。
小説と映画では、表現方法が根本的に違うから、それぞれに合った適切な物語というものが生まれてくるはずだ。小説には小説の、映画には映画に向いた物語。ピンチョンの描いた物語を映画にしようとするのは、やはり相当に難しいんだろう。いや、小説を映像化すること自体に、やはり難しいものがあるんじゃないか、と。途中から、なんでアンダーソン監督はこの小説を映画にしようとしたのか、なんてことを考え始めた。小説を原作にしたすばらしい映画も確かにたくさんある。ヒチコックやキューブリック、コッポラの代表作は元が小説だし、ロード・オブ・ザ・リングなんかの大作もある。これらは映画、原作ともに完成度の高い。一方で「映画化しないほうが…」というのも、それはそれは数多くあって、そういったものは皆の記憶からはいつの間にか消え去ってしまい、存在したのかすら誰も覚えてすらいない。結果的に小説と原作の素敵なマリアージュ的なものだけが、僕たちの知るところとなっている。

で、結局この「インヒアレント・ヴァイス」良かったの? と言われると、すごく満足している。けっこう笑い・ユーモアのセンスが各シーンそれぞれに散らばっていて、くすくすとくる。やっぱりそこはアメリカ映画。ただ、ピンチョンに興味ある人以外は、いまひとつわからないんじゃないかという感じは多分にある。観終わってひとつわかったことは、予告編でもう映画のほぼだいたいが伝わっている、というスゴさ。そういえば、ホアキン・フェニックス演じる主人公(探偵ドック)の天敵刑事ビッグフットがパンケーキをむしゃむしゃ食べているときに(予告編の中で"チョット、キニキロー、モット・ペニケーク!"と叫んでいる店)、坂本九の「上を向いて歩こう」がラジオから流れてくるシーンがあり、これが原作小説にあるものなのかが少し気になった(ピンチョンはわりと日本贔屓)。音楽はレディオヘッド(のメンバー、Johnny Greenwood)が担当で、カンの「vitamin C」をかっこよく流している。


映画の中では、印象的なセリフがたくさんあって、なかでもひとつこれは! というのがあり記憶に残っている。

質問をする人は、すでにその答えを知っているものが多い。
ただ、他人の口からその言葉を聞きたいだけなんだ。

(メモってないので確かこんな感じだった)

このセリフ、映画のタイトル「Inherent Vice」(海上保険の業界用語で"内在する欠陥"の意)と通じるところもあり、けっこう響くものがあった。自分の口からは言えないんだけれども、他の人から聞くことによって、その意味を受け入れる。自分で自身のかかえている核心にふれられない心の弱さ、って誰しも持っているんだなと。


映画が終り、エンドロールが流れ、最後に短い言葉がスクリーンに映る。

Sous les paves, la plage
(アスファルトの下は砂浜)

字幕には「パリ五月革命の落書き」とのキャプションがつく。このときは、その言葉の背景がわからなかったが、改めて調べると、ああピンチョンだ。と思った。1968年「五月革命」の最中に誰かが、壁に書き残した言葉。デモに参加した学生たちが、足元の舗石をはがし警官に投げつけ抵抗した。そのあとに残った街の光景と、この運動を象徴する意味があったのだと。今年(2015年)一月に起きたシャルリー・エブド襲撃事件後のデモなんかともリンクする。



■ 壁の言葉を眺めに街へ出よう『壁は語る 学生はこう考える』(恵文社一乗寺店・店長ブログ)
http://keibunsha.jpn.org/?p=8361
「Sous les paves, la plage」について、いい記事があった。
こんな風に出来事を掘り下げつつ、本(商品)を紹介されると、愛情感じられ興味がわいてくる。


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2015年01月20日

めずらしく、おすすめ番組・トマ・ピケティ

21世紀の資本.jpg
『21世紀の資本』トマ・ピケティ  

こないだ、本屋さんに行ったら(ピンチョンのLAヴァイスが、渋谷〜新宿どこも売り切れで買えない!)、トマ・ピケティ『21世紀の資本』の本がレジの前にどかんと山積みになっていて、すごく盛り上がってるんだと、おどろいた(番組がすごく良かった)。本をぱらぱらっとめくってみると、詳細な統計データと、それに裏づけされた新しい時代の経済理論の展開が、どっしりとしたヴォリュームで書かれていて、思わずこっちが欲しくなってしまう。

で、このピケティ教授のかっこよさは、こういったところに表れている。
ピンチョンもそうだけど、超異端な才能を持った人って、スタンスがすごいクールなんだよな。
人間の器って、こういった態度・姿勢に現れるのだと。 雑魚との決定的な違い。
シャアの台詞にもある「ザコとは違うのだよ、ザコとは」


著書「21世紀の資本」が世界的なベストセラーとなった同国の経済学者トマ・ピケティ氏が、フランス政府によるレジオン・ドヌール勲章の受章を拒否する考えを示したと報じた。

 ピケティ氏は「誰が名誉に値するか決めることは政府の役目とは思わない。政府は経済成長を回復させることに専心すべきだ」と述べたという。


仏経済学者、国家勲章受章を拒否 著書が世界的ベストセラー
http://www.47news.jp/CN/201501/CN2015010101001137.html


■ NHK パリ白熱教室(毎週金曜夜放映)
http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/paris/about.html
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