2017年10月08日

銀塩写真にさようなら

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東チベット、カム地方「甘孜(Ganzi)」にて


僕はフィルム、銀塩写真で写真を始めたから、当初デジタル・カメラの写真には懐疑的でいた。初期のデジカメはほんとひどくて、まず解像度がとても低く、印刷原稿用に使うとスミ(シャドー部)が抜けメリハリがなかったり、また製版時にはモアレが発生しシャープネスが全然なかったりして、そうしたいろいろな悪印象がずっと残っていた。そのおかげでデジカメに移るのがやや遅れた。しばらくの間はフィルム・カメラの持つノスタルジーから抜けれず、そうしている内に、もうすっかり印刷機械もデジカメ対応になっていて、フィルムで撮ったとしてもデジタル・データにしなければいけなくなっていたりと、ある時期を境にして、一気にフィルムが片隅に追いやられてしまったように見えた。

このBLOGで書いていた「光と影の遠近法」というくくりでは、自分なりに写真についての考えをまとめようとはしていたけれども、フィルムの時代に形成されていた、いわゆる写真論的なものは、デジタルに以降してからは、何の意味ももたなくなってしまったように思う。スマホのボタンを一つ押せば、すごく綺麗な写真が、誰でも、何の工夫もなく撮れてしまうようになって、それは技術の進化でいいことなんだけれども、反面、時間をかけ失敗を繰り返し、そして試行錯誤しながら技術を習得して、その末にでき上がったものが持つ「何か」というのは、デジタルのビット上ではほとんど再現はできない。またそんなわずかな違いは、もう誰も気にしやしないし、求めてもいないだろうとは思う。

「写真を撮る」という行為が非日常だった頃と比べると、今は全く逆で、「写真を撮らないこと」の方が非日常だったりする。カメラと被写体の間にあった関係性や距離について考えをめぐらせるというのは、セルフィーなんかが当たり前になると一切必要なくなって、そういったものはかえってわずらわしくなってしまう。それでも、粒子が光に反応し画像を形成する銀塩のプロセスというのは、何か思考の層、そしてそのズレを生む要素があって、反転したネガの世界を透かし見ると写真には写ってはいないある含みが、それを見る人の心の中でふっと湧き上がる、そういう楽しみがあるような気もする。

デジカメで撮った写真はフォトショップなんかを使えば、けっこう自由自在に何もかもが調整できるんだけれども、フィルムで撮った写真というのは物理的に変えられないところがあって、撮り手のイメージするヴィジョンに近づけるには、限定的な方法しかない。プリント作業というのは、とても面白く、自分の撮った写真(ネガ)ではあるが、いざプリントをする際にはそれらを客観的に見るようになる(あるいは客観的に見れるようにならないといけない)ために、撮った瞬間の勢いや熱というものを取り除いて冷静に(撮影した)写真を見ることができる。たしか写真家のエドワード・ウェストンだったと思うが、銀塩プリントのことをうまく言い表した言葉がある。「ネガは楽譜で、プリントをする人はその演奏者だ」みたいなことを言っていた。今回は、銀塩写真のプリントをどうやって作っていったかということを、一枚の写真を例にし、ちょっとマニアックに書いてみたいと思う。僕自身、もう引伸ばし機やプリントの道具は手元になく、この先こういったこともきっと書かないだろうし。そっと思い出深い箱をこうして閉じる。


上の写真は、東チベットの甘孜(カンゼ)という街で撮ったもの。「雅龍江(ニャクチュ)」沿いに川蔵公路(北路)が走り、ここはこの街のいいロケーションの一つだった。右手に見える崖の先あたりで、鳥の群れが旋回しながら飛んでいたので、僕はここの川沿い風景の中で鳥たちが一斉に飛び立っていく、そういったシーンが撮れるんじゃないかと期待して、小一時間ほどこの場所に立ちカメラを構えていた。しかし鳥の群れは同じ場所で延々と、のんびりと鳴き声を聞かせるだけで、一向にそこから離れる気配がなかった。しびれを切らした頃、ふっと一羽の鳥が背後から飛び抜けていった。そこで思わずシャッターを切った。いつでも撮れるようにと、構図だけは決めていたのでファインダーの中では鳥の位置だけをしっかり見ていればよかった。本当は一羽のあと数羽続いているような絵が理想的だったけれども、フィルム現像後にとったコンタクト・プリントを見ていると、一羽だけで十分に良かったように思えた。


フィルム現像
フィルムはKODAK社のPLUS-X。現像液は同じくKODAKのD-76、1:1の希釈。ブロニフィルムを4本処理した500mlに、新しいD-76を200ml、そして水200mlを加えた計900mlで2本処理している。液温は19.6C、現像時間は11分。フィルムの現像液はやや疲労している方がシャープネスが増し、かつハイライト濃度が上がらず、シャドー部の描写も良くなるので、PLUS-Xのように粒子の細かいフィルムの場合は、ネガの粒状性が荒れず、さらに階調が柔らかになる。ただ、あまり疲労し過ぎた現像液を使うとネガにカブリが生じるので、このあたりは、何度もデータを取った上で、常に同じような状態で仕上がるようにしている。もひとつ、撮影時の露出状況なども関係するので、オーバー気味で撮ったフィルムの場合は軟調気味に、やや露出不足になったフィルムの場合は現像液の希釈を低くし、ネガの濃度を上げるなどの調整はしていた。


コンタクト・プリント
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色シールは、引き伸ばしプリントする度に貼っていた。納得いくプリントに仕上がるまでの回数みたいなもので、シールの数が多いほどこだわりがあったのだと思う。コンタクトプリントに使った印画紙はフォルテ社のポリウォームトーンRCタイプ。コンタクトプリントに使うにはもったいない位クオリティのいいRCペーパーだった。この後フォルテ社がなくなったか印画紙製造をやめたため、コンタクトプリントにはオリエンタルかイルフォードのRCペーパーを使うことになった。


プリントの指示メモ
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コンタクト・プリントのトーンを基準に、まずテストプリントを作成し、それを見ながら焼き込みや覆い焼きなどの露光時間を決めてゆく。上画像の一番左にある「N」の文字はネガの濃度がノーマルという意味で、「19.8」はネガキャリアの高さ。ネガ濃度によって(基準となる)露光時間が変わってくるため、ネガのコンディションは露光時間とセットにして記入していた。右側の「2.5号」はマルチコントラスト・フィルターの号数。「38秒」は露光時間。撮影した時点でほぼ光の具合はよく、遠景にかすむ山並を覆い焼きで少し濃くし、上部分の雲の濃度をやや強めている。


Print Data & Process:

引伸ばし機_ USA製の集散光式(機種名忘れたんで、調べて追加修正しときます)
引伸ばしレンズ_ ドイツ・シュナイダー社製「コンポノン-S F5.6/100mm」をF11で使用。開放値から2段絞った数値が、最もレンズの性能が発揮される(と言われていた)。
*このレンズ、すごく描写がいいんだけど、一般的な引伸ばしレンズよりも高かったのと、確か当時(大阪では)取り扱い店がなかったので、輸入元だった本庄株式会社へ直接買いに行った記憶がある。

印画紙_ ハンガリー・フォルテ社製「ポリ・ウォームトーン・プラス(グロッシー)」の11 X 14 inch(大四切)。バライタ紙。エマルジョン・ナンバーは 610511。フォルテ社の印画紙は銀の量が多く黒の階調が豊かだったので、お気に入りの印画紙だった。ウォームトーンは印画紙ベースがアイボリーがかって上品な仕上がりになる。ただ、けっこうクセのある印画紙で、乳剤番号によってバラつきがあったり、感度が低い為ハイライト部の焼きこみにやや苦労した。

印画紙用現像液_ KODAK社「デクトール」800ml に水 1,750mlを加え、総量 2,550mlで使用。通常の1:2の比率よりやや希釈している。多分、現像のスピードをほんの少し落とすためにそうしたのだと思う。現像時間は2分30秒。
印画紙用停止液_ 90%酢酸50mlに、水を2,750ml加え、総量 2,800ml で使用。
印画紙用定着液_ B.J.P 2浴式。第一浴・第二浴、各2700ml。定着液は自分で処方したものを使っていた。この定着液は「酸性非硬膜」タイプ。市販のコダックやフジのものは、酸性硬膜タイプだったので使わなかった。イルフォードの定着液が硬膜剤を添加するタイプだったので、このB.J.P.と近い感じだが、それやとなにせ高くつくので自家処方になった。硬膜なしの定着液にはいくつか利点がある。それは、定着後印画紙に残る残留ハイポの水洗がすみやかに出来ること(印画紙劣化の原因になる=時間がたつとセピア色に変色するモノクロ写真は、このハイポがきちんと水洗できてないために起こる)、そして、印画紙表面のゼラチン層とその下のバライタ層が硬膜されず、固くならないので画像を形成している銀がヴィヴィッドな状態であること。気をつけなければならない点は、硬膜処理されていないため、ゼラチン層が柔らかく水洗中に傷がつきやすくなる。と言われていたが、実際はさほど水洗に気を使う必要もなかった。処理時間は第一浴が4〜4分30秒、第二浴が4分30秒〜5分。
* バライタ紙で印画紙の面積が大きくなると定着ムラや定着不足が起こりやすくなるので、2浴式というやり方でしっかりと定着を行っていた。
水洗促進剤_ FUJIのQW。1500ml。
水洗_ 水道水

* 水道水以外の液温は20-21度。

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2016年04月03日

背中で語る

http://tagong-boy.tumblr.com/post/142072967221/donald-j-trump-at-a-campaign-event-in-appleton

The Week in Pictures: April 1 2016
http://www.nytimes.com/slideshow/2016/03/31/blogs/the-week-in-pictures-april-1/s/20160331WIP-slide-8KD8.html

NYタイムスを何気なく見ていたら(リードくらいなら分かる程度で読めないけどね)「The Week in Pictures」というコーナーがあって、スライドショー形式で、その週を総括するギャラリーがあった。どれもいい写真ばかりで、同じ一週間にこんなことをしていた人達がいたんだなと、しみじみ世界の広さというか、地球上ではいろんなことが起こっているんだと改めて思う。
その中で特に目にとまった写真が一枚、ドナルド・トランプの後姿。数多くのニュースなどでは、吠えまくる強固な顔つきでしか、彼の姿を目にすることはないが、上の写真は、この先、何か得体しれない暗い闇(次週に控える予備選? そしてその先に待ち受ける疲弊した国家の舵取りと運営)に向かうようでもあり、一人の生身の人間としての弱さのようなものが写っているようでもあり、とても「今(のアメリカの選挙戦)」を写した一枚だと思った。おそらく十年後にこの写真を見たら、きっと何も感じないだろう(ただのおっさんの後姿としか見えない)。世界の覇権国家から内省的な国へと変化する、その変わり目になる瞬間の象徴的なアイコンをうまく撮り、またその時代の中でしか意味をもたない「写真の記号性」というものが、このトランプの後ろ姿の中に、ちゃんと込められているように思える(篠山紀信の写真集「晴れた日」の中にある長嶋茂雄、最後の試合のシーンと通じるものがあって、男の哀愁というかその人の生き方を背中を通して、観る側に想像させる)。

「晴れた日 / A Fine Day」篠山紀信(MADE IN WONDER)
https://made-in-wonder.com/item_detail.php?item_id=667




トランプに関して、よくわかる記事がウーさんのサイトにあったので、長いけれども以下一部引用。アメリカが衰退し、世界が多極化するというのはもう十年以上前からウーさんは指摘していたので、とても真をついたものだと思う。もしトランプが大統領になったのなら、相当なドル安政策になるんじゃないかと。あるいは以前から言われているように廃止にするか。


 トランプは、米国の金融がひどいバブル状態になっていると知っており、いずれ巨大なバブルが崩壊し、米国の覇権が弱体化していくと言っている。マスコミのトランプ中傷報道にしか接していない人々は、これをトランプの誇張話と受け取るかもしれないが、私の記事をずっと読んできた人は、トランプのバブル崩壊予測が正しいことがわかるはずだ。

 クリントンやクルズといった他の大統領候補たちは、軍産や(その一部である)イスラエル系からの献金で選挙戦を回しているため、軍産が好む政策しか打ち出さない。トランプは自分で貯めた巨額資金を使い、ほかから借りずに選挙をやれるので、軍産などに媚びる必要がない。軍産に絡め取られているのは政治家だけでなく、外交官やマスコミ、国際政治学界などの「外交専門家」の多くも同様だ。

 オバマとトランプは、個人的に親しいわけでない。政党も違う。それなのにオバマとトランプの政策が一致し、連続できるのは「背後にいる勢力」が同じだからだろう。そうした背後の勢力を象徴するのは、米国の外交政策立案の奥の院で、戦時中から多極化を(往々にして軍産に隠れて)推進してきたロックフェラー系のCFR(外交問題評議会)だ。

 オバマやキッシンジャーとトランプの政策の類似性から考えて、トランプの政策もCFR仕込みだろう。CFRの会長であるリチャード・ハースはトランプの顧問団の一人だ。トランプは、報じられているような米政界内の一匹狼でなく、CFRという強力な後ろ盾があることになる。


「世界と日本を変えるトランプ」 田中宇さんより
http://tanakanews.com/160402trump.htm


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2016年02月03日

ポラロイドにまつわるあれこれ -into The Screaming Colours-


ストーリーにするには地味になってしまうんだろうか? 写真やカメラ、あるいはフォトグラファーが物語の中心になった小説ってあんまりないぁと、少し記憶を探ってみたものの、何かタイトルのひとつでも挙げようとすればするほどに、頭の中がただぐるぐると回り続けるだけ。規格の合わないディスクを放り込まれたプレイヤーみたいに、読み込み不能の状態になってしまった。写真に関するものが大きな題材になった小説が全くないというわけではないけれど、探偵やスパイ、刑事、科学者や医者といったように、ミステリー・冒険もの、SF・医療ものと呼んでもいい、そういった明確なジャンルとして成立するまでの絶対数がないというか、全体量からするとやっぱりその数は少ないように思える。考えてみれば、たしかに発注を受けてパシャパシャとモデルや商品を撮るだけの仕事ではドラマティックな「何か事件のようなもの」は起こりにくい。日々の葛藤みたいなものは描けるのかもしれないが、それは誰にでもあるものだから特別興味をひくようなものでもない。ひとりの主人公として描くには少し役不足なところがあるようにも思えたりもする。けれども自分の意思で戦場や紛争地へ行って写真を撮るタイプ、そういった類の人の場合ならば訪れた非日常的な場所で起こるエピソードを描けるだろうし、きっと人の想像力に訴えかける何かがありそうな気はする。ジャーナリスティックなものを追い求めるフォトグラファーならキャパや沢田教一他、物語の主人公にも十分になれる人物は数多い。ただ、こういった人たちが主役だったり、映像になったりする場合はどうしても現実寄りのドキュメンタリーものになってしまうのは仕方がないか。

小説の中で僕の印象に残っているもの、思いついたものといえば、
 ・コルタサルの短篇「悪魔の涎("Las babas del diablo / The Devil's Drool", 1959)」(翻訳家ミシェルが主人公。彼が公園のベンチでいちゃつくカップルをこっそりと撮るもばれてしまい、ひと悶着あったあと、その写真を引き伸ばしてみると、、というあたりからシュールレアリズム色の強いエピソードに変わってゆく。南米作家特有の幻想的な描写とラビリンスなストーリー展開が不思議。この短篇を下敷きに、当時英国で売れっ子だったファッション・フォトグラファー、デヴィッド・ベイリーを重ね合わせ、ミケランジェロ・アントニオーニ監督が 〜すっかりと有名になった〜 映画「Blow Up(邦題:欲望)」を撮影している。渡仏前、ティーン時代のジェーン・バーキンもちょこっと出ていることでも知られる)
 ・デュ・モーリアの短篇でその名も「写真家("The Little Photographer", 1952)」(これはリゾート先でのアヴァンチュールの後に訪れるリベンジ・ポルノ的な悲劇の話)
 ・あと匿名作家デイヴィッド・ハントという人の「魔術師の物語("The Magician's Tale", 1997)」(サンフランシスコのダウンタウンを舞台にした女性フォトグラファーが主人公のミステリー。社会からあぶれた人たちを撮影する主人公の姿はダイアン・アーバスを連想させる)
この三つくらいしかタイトルが出てこなかった(もひとつ、カルヴィーノの短篇集「むずかしい愛」の中に「ある写真家の冒険」というのがあったが内容は忘れてしまった。アマチュア写真家が旅先で写真を撮ってどうのこうというような話だったような)。もちろん僕自身、これまでに読んだ本の数が圧倒的に少ないということはわかってはいるが、それでも(世にある小説の数に対する)比率としては少ないよなぁと感じてしまう。また、この三作品に共通しているのは、カメラを介して人が潜在的にもつ暗い面や偏執的な一面が表れていること。「悪魔」や「魔術」というタイトルが付けられていることからも、写真にはどこか妖しげな要素が付いてくるものなんじゃないだろうか。もちろん物語として面白みを出すために誇張した仕立てになっているのだろうけれども、カメラという機械・あるいは写真を撮るという行為の中に潜む人の欲望みたいなものが出やすいのだろうなと、自身でも感じるところがあり興味深い。

一方、歌の中では写真やカメラはよく登場し、小道具として、あるいは歌詞の中で重要な意味を占めるものとして多くある。写真が絡んだ歌の中で一番知られ、多くの人の耳に馴染んでいるのはきっと「リパブリック賛歌」だろう( "Aura Lee" もほぼ同年に誕生)。これはアメリカの南北戦争時代に生まれた、歴史ある有名なフォーク・ソング。なんせ「ヨドバシカメラ」のテーマ曲の元歌だから、もうこれ以上の「ザ・カメラ・ソング」はないはずだ。というのは冗談で、ポップ・ソングのジャンルからいくつか挙げると、ニコ「Camera Obscura」、ジャパン(D.Sylvianのいたバンド。ネットが普及する前に名前が付けられたものだから、検索時代の今、この名前はけっこう不利だなとつくづく思う)の「Gentlemen take Polaroids(邦題:孤独の影)」やデュラン・デュラン「Girls on Film(邦題:グラビアの美少女)」、ザ・キュアーの「Pictures of You」などが、80年代、ニューウェーヴで育った僕の場合真っ先に思い浮かぶ。邦楽・J-POPではフリッパーズ「CAMERA! CAMERA! CAMERA!」なんてわかりやすいのがあるし、他、挙げていくのが困るほど、けっこう次から次へと出てくる。たいていは恋愛ソングなので、やっぱり写真というのはそういう題材に向いているのかな。中でも、椎名林檎「ギブス」の冒頭部分の歌詞が特に印象深く、写真の持つ本質的な要素を突いていているように思う。この曲の歌詞については最後の方で少し。


テイラー・スウィフト「Out of The Woods」の歌詞の中に、写真(ポラロイド)についてのフレーズがあって、三行ほどの短いものだけれども広がる意味があるように感じた。で、この歌の中に出てくる「ポラロイド」というキーワードについて少し考えてみた。
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アルバム「1989」に入っているポラロイドのうち2枚。余白部分に手書きの歌詞がサインされている。
(画像は最下記リンクのサイトより)



You took a Polaroid of us
Then discovered
The rest of the world was black and white
But we were in screaming color


from "Out of The Woods" Taylor Swift

一緒にポラロイド撮ったでしょ。でね、気づいたの。まわりはモノクロームで色褪せていて、まるで時間が止まったみたいだったけど、私たちだけとっても鮮やかで、すごいカラフルだった。
(歌詞から、少し膨らませてこんな感じで受け取った)




写真について考えたとき、まず大きな二つの要素がまずあって、その二つを念頭に僕たちが写真の中に見るべきこと、あるいは見いだせるものを次にたどっていけば、おおよそどんな写真の持つメッセージもよく理解できるようになるのだと思う。二つの要素、その一つは色彩という要素、もう一つは時間という要素。写真の聡明期、まだ白黒写真しかなかった時代には当然写真画像に「色」はなく、ただ白と黒の濃淡による画像にすぎなかった。しかし、ここに時間の経過が加わると、画像を形成する銀粒子とその支持体となる紙に酸化・退色という変化が起こり、白と黒の画像は褐色のいわゆるセピア色に変わる。これは単純にみるとただの品質劣化なのだけれども、しかし意味合いとしてはノスタルジックであったりよき日々の象徴としてとらえるようになっていった。そしてこのセピア色に変化した写真というものは、不思議なのだが、悪いものというよりも、むしろポジティヴなもの(好まれる)として多くの人に受け入れられるようになる。朽ちるのではなく熟成というニュアンスに変わるところが面白い。つまり写真に写っているものがモノ(単純な光の反応・ただ化学的反応で形成された画像)なんかではなく、何か息をしているものとして認識されているようなところがある。

Polaroid to Paranoids
ポラロイドというのは、通常の(フィルムカメラで撮る)写真とは少し違ったところがあり、やや特別な意味合いを持つ言葉だと思う。たとえばこんな具合に。ポラロイド・カメラのシャッターを押すと、カートリッジからフィルムが吐き出されてくる。はじめはただのグレーの画像だが、まもなく輪郭をもった絵が現れる。フィルムカメラのように、所定の枚数全部を撮り終えるまで待つ必要もないし、現像に出す手間も不要だ。シャッターを押し、一枚の写真が見れるようになるまでの行程、その間に、(写真屋さんなど)他の人の手を介することはない。ポラロイド写真は撮影者以外、誰かの手に渡す必要性もなく、閉じた空間・間柄の中で画像が仕上がり、それを楽しめる。パブリックな場所を経ることがないために少し秘密めいた写真として、親しい関係を持つ人との間で交わす小さなツールになりうるもの。そこに写っている(あるいは写した)人たちの距離をうんと縮める、そういう役割を果たしているように思う。親密さを臭わせる言葉としての意味がひとつある。

ポラロイドはすぐに写真が見れるという便利な面はあるが、一方しばらく経つと色あせ変色したり、乳剤にヒビが入ったりして非常に劣化しやすい面もある。もし、そのことをふまえるなら「Out of The Woods」の歌詞にある「ポラロイド」の意味することは、そう長続きしない、今は盛り上がっているけれどもすぐに冷めてしまう、という比喩を含んでいるようにも思え「Photograph」ではなく「Polaroid」としたところに、何か意図でもあったのかなぁと、少し深読みしたくもなった。まぁ単にメロディとの音・韻で言葉を選んだ可能性が高いのだろうけど。また「ポラロイド」というキーワードは「Out of The Woods」を収録したアルバム「1989」のヴィジュアル・イメージとリンクしていて、ジャケット・カバーはポラロイドで撮った写真が使われている。さらに、初回限定盤? にはテイラー・スウィフトが被写体になったプライベート・ショット風のポラロイド写真(の印刷)が13枚ついていて、ファンの間では話題になっていた。ポラ写真は全部で65種類ある。ここにも一つ仕掛けというか意味合いを持たせているのだろうと思わせるところがある。先に書いたようにポラロイドは撮った人・撮られた人、それを手にする人との間の距離を縮め、親近感を持たせる要素があるように思える。そうだとして、つまり、このアルバム「1989」は世界中で何百万枚と売れているCDなのだけれども、テイラーのポラロイド写真がランダムに封入されていることによって、テイラー・スウィフトとこのCDを手にしたファンは一対一の関係に陥ることになっているんじゃないだろうか(早い話、CDを手にしたファンたちが私だけのテイラー! という錯覚に)。そんな風にみるとこの「1989は」、歌詞からヴィジュアルのあり方など、細やかなところにまで演出が行き届いたパッケージングをしているんだな、と思ってしまった。

最後にポラロイド含むフィルムカメラの持つ情緒性についてを少し。アルバム「1989」がリリースされた2014年には、もうカメラはフィルムの時代でもなく、またデジタル・カメラを首から下げる時代でもなく、薄くて軽いモバイルフォンに付いた小さなレンズで写真を撮るのがごく一般的な時代になっている。それで撮った写真はすぐに見ることができるし、また色や解像度も鮮明で加工も自由、感光材の時代にあったような諸処の劣化に悩まされることもとっくにない。データをアプリの中に放り込んでおけば、瞬時に地球の裏側にいる友達にだって見せることも可能だ。きっとこういったデジタルフォトで育ったハイティーンから二十代前半くらいの世代がテイラーの主なファン層なのだと思う。こういったフィルムカメラや大きな一眼レフカメラとさほど縁のない多くのファンやリスナーが写真というものをリアルに共感できるとしたら、きっとこっちの方だろう、とは思う。実体験ではおそらく知らないだろうセピア色の銀塩写真や少し色バランスの崩れたポラロイドのフィルムというものに対するイメージは、フィルム世代の人たちとはまた異なった想いで受け取っているだろうと思う。それはノスタルジックなイメージとしてより強くあるように感じる。これは i-podにダウンロードした音楽を聴くのが当たり前の世代が、アナログ・レコードやカセットテープになにか郷愁感を抱くのともどこか通じているように思える。テイラー・スウィフトが「Out of The Woods」の歌詞の中で「ポラロイド」と言ったことには、単純に「写真」を意味するだけでなくその後ろにいくつかのメッセージがあるんじゃないかと、どうも気になってしまった。




あなたはすぐに写真を撮りたがる あたしは何時も其れを厭がるの
だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない


「ギブス」椎名林檎、より
http://j-lyric.net/artist/a00450a/l000ad3.html


この歌詞は写真に対する考え方が「Out of The Woods」とちょうど反対にあって面白いなと思い引用した。「Out of The Woods」では、二人で写真を撮ったことなどを思い返し、その写真は自分たち以外に色がついていなかった、と歌っている。これは二人だけの世界にどっぷりとハマっていたことを表しているし、「写真」という過去の出来事のなかに「Screaming Color」という現在が色褪せず残っていたようにもとれる。一方「ギブス」の歌詞は、今の瞬間を大事にしたいという気持ちがあって、写真に撮るとそれが全部過去のものになってしまう、思い出なんかよりも今の二人を楽しもうよ、という意味があるのかなという風にとれる。ここで使われる "写真" は「過去」の代名詞になっている。そして、おそらくその写真は二人で一緒に撮るのではなく撮られるのは「あたし」だけで、「Out of The Woods」での二人「us」と違う点にも、互いの関係性が表れているなと思えた。



See All 65 of Taylor Swift’s 1989 Polaroids (Oct. 27. 2014)
http://www.shineon-media.com/2014/10/27/see-all-65-of-taylor-swifts-1989-polaroids/

Cortazar's Blowup: Analysis
http://hartzog.org/j/blowupcortazaranalysis.html
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2016年01月19日

チャーチズ・インタビュー、より



まず僕たちは曲の核から作り始めるんだ。その後にドラムマシーンやその他の要素が付け加えられていく感じなんだよね。でもその後の要素っていうのは曲に服を着せている感覚だから、核にある部分が良くないと、いい服は着せられないからね。


■ チャーチズの最新インタビュー / Figaro.jp - Music Sketch by Natsumi Itoh
http://column.madamefigaro.jp/culture/music-sketch/post-1626.html


音楽に限らず、絵でも物語でもそうだよな。描きたいテーマがあり、それに沿って肉付けをしていく。写真の場合はカメラのシャッターを押しさえすれば、何かしら写ってしまう。最近のカメラは性能もいいし、アプリで簡単に加工できるので、誰が撮ってもたいていいいものが撮れてたりする。光学機器メーカーの開発者たちの研究の粋、ソフトメーカーのプログラムの技術、こういったものの恩恵をお金で変換し、僕たちはカメラという機材をそう意識することなく使っている。監視カメラやドライブレコーダーの映像ですら(人が意図して撮っているわけでもないが)十分に魅せるところはあるし面白い。楽器を演奏するための訓練や、線や色を描く練習、言葉を選び考える思考性といった、習得するのに時間のかかるものを必要ともせずカメラさえ持っていれば「写真」というものは一応形にはなる。だからこそ、余計に撮る前にテーマ・骨子を決め、編集・構成することに労力を費やさないといけない。でも、世の中に溢れている写真は、フォトショップできれいに加工された〜表面的には綺麗な〜ものばかりで、技術的にはすごいんだけど、骨・核のようなものがなく、いまひとつ響いてこない。目の前に現れた面白く・綺麗なものに反応し、シャッターを押したところで、いったい何だっていうんだろう? そこにちょっとした驚きのようなものはあるけれども、まなざしというものはないように思える。カメラを一日二日設置していれば写りこむようなものなのだから。
藤原新也が、逆説的だけど本の中で面白いことを書いている。そこでふと思う。安易にカメラという道具に頼らず、自分の考えをしっかりと伝えれるようになったとき、はじめてカメラを手に取り、自分のいいたいことを表すべきなんじゃないだろうか、と。


 インドはね、撮りすぎるとダメなんだ。インドってのは撮れちゃうから。まわり三六0度ぐるりと一回転して三十六枚押したら、一本フォトストーリーができてしまう。だからインドへ行った人の写真ってのはみんな同じになる。写りすぎるってことは、全部撮ってもダメということなんだね。インドは「何を撮らないか」というマイナスの作業でしか自分の視点が出てこないのね。加算社会というかプラス信仰の社会から行った人からは、撮らないということも表現であるという発想がなかなか生まれない。

「印度放浪」藤原新也、より
"語録"(朝日文芸文庫 / p73)




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2015年11月03日

私写真というゴミ


アラーキーが音頭をとってはじめたもんだから「私写真」なんてのが日本では広く知れ渡っているけど、いい加減、ああいうのは表現でも芸術でもなく、ただのゴミだと理解しないといつまでたっても成長しない。身の周りの被写体を撮ることは、まだカメラという道具を使い慣れないでいる間や撮影に関する技術を学ぶ分には手近でいいが、そうやって撮ったものは習作の範囲内でとどめておくのが妥当なものだと思う。ある程度の技術が身についたら、自分の撮りたいテーマを定め、それに向かって自身で得たこうした技術を使うべきなのだろう。フィルム時代は高い機材と扱いづらさもあり、カメラで日常を撮るという行為は珍しく、アラーキーのようにコンパクトカメラで撮った写真を作品だとするあり方は、時流に逆行する部分もあったし、まだ幾分新鮮味があった。しかし誰もがスマホやデジカメで写真を撮るようになった今、何の意図もないようなものを見せられても困ってしまう。100人いれば100人の生き方があり、みなそれぞれが自分の中で大事だし、等しく価値を見出しているのだろう。かつてアラーキーが世に蔓延する偽りだらけの商業写真にうんざりして、「私(わたくし)」の写真ということを最初の写真集の中で唱えた。今度は、その「私(わたくし)」の写真がどこかしこに氾濫し、うんざりとさせる。そういった流れに異を唱える人が少しくらいいたっていいんじゃないだろうか。写真表現の世界で、もう「私」というものががパブリックな中で機能する感じではなくなってきているように思える。日常生活の延長にあるものがウリだったアラーキーの写真も今、新作だよとみせられてもいいとは思えないし、かえってテーマのなさを浮き彫りにしているだけだ。思いつきで撮ったものをただ並べるだけで、いったい何を伝えたいのだろう? いつまでも同じスタイルを踏襲していても、なんだよな。日常が写真表現として成立していたこれまでが、けっこう特異なことで、ちょっと角度を変えてみてやれば、その裏には何もなく薄っぺらい張り紙だけだった、ということがはっきりとする。僕は人の生活や日常の断片をのぞいて面白がれる気持ちはまったくないし、そういったものを良いとは思わない。それよりも、もっと素敵な表現のあり方に喜びを見出したいし、自分でもそういった写真を撮れるように努めたい。Bye Bye 私写真。

ゴミは出さないことが一番いいのだけれど、出た場合は各自治体のきまりに沿って、適切に処分しましょう。

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2015年09月23日

いいこと言うなぁ



http://tagong-boy.tumblr.com/post/100319256676/ポートレートというのは-わたしが撮ったあなたが写っているのではなく

(2014年10月のPOST)

今や写真は誰でも撮れるものだから、フォトグラファーはよっぽどしっかりとした、自分の理論(&頭の中の構造)を持たないといけないのだとつくづく思う。いい写真を見れば、いい言葉がたくさん生まれてくる。それはその写真が内包しているものと、観る人の感性が交じり合ったときに生まれるもの。言葉の現れない写真は色の集合体にすぎない。

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2015年05月22日

空飛ぶカメラとSelfie


Introducing the Lily Camera

Lily Cameraという名前の空飛ぶ小さな機械。「ドローン + カメラ」、じゃなくて「カメラ + FLY」ということらしい。なんかルンバみたい。それにしても、光学のデジタル化の進化の仕方はすごい。デジカメはピント合わせ、露出等のほぼ全てをカメラがやってくれるとはいえ、フレーミングやシャッターを押す瞬間までは人の意図がわずかながら入る余地はあったが、この「Lily Camera」は(動画だけれども)人が映像に関して何か介在するところはといえば、手の平から空へと飛ばすところだけ。ただそれだけでも、上動画にあるようなカッコイイ映像が撮れるのだから、もう「カメラを持って撮影する」という行為に何かしらの意味があるのかすら、ほんと疑わしく(むなしく)もなる。もし(撮った)写真一枚一枚が著作物としての権利を持つのなら、はたしてこの空飛ぶ自動撮影機器で撮った映像・画像はどこに帰属するのだろう。やはり所有者? もう写真はかつての"撮る・撮られる"ということよりも、"画角に写りこむ"というのが正解なのかもしれない。

僕が、写真を撮ることの無意味さ(というよりも、カメラあるいは撮影することに対する敬意の喪失といった方が近い)を強く感じたのは、ずいぶんと前に出版された辺見えみりのセルフポートレート写真集「EMIRIGRAPH」だった。今思えば、これって自撮り写真の先駆けみたいなもので(もっと以前にも、リー・フリードランダーやシンディ・シャーマン、森村泰昌などがセルフポートレートの写真集や作品の発表はあったが、それはカメラという装置と自身の姿を使って作品作りをしていて、決して「私を見て(Look at Me)」という自己承認欲求があらわになったものではなかった。フリードランダーの写真は風景の中に溶け込む自身の反射自画像だったり、何か記号的・暗喩的な要素を含んだものだったし、シャーマン、森村泰昌の写真はコスプレ的にもみえる"演じる"要素が入っていた)、ライティングのセッティングさえ出来てしまえば、あとは誰がシャッターを切っても同じものが写る、というものだった。この写真集は被写体と撮影者の関係を完全に取っ払って、ただカメラの機能(操作)だけを、見る側に与えたものだと僕は思った。「Santa Fe」における宮沢りえと篠山紀信のような被写体と撮り手の関係が、この写真集には必要なかった。まぁ一般的に、この本の一番の売りは当時の旬(?)なタレントがぎりぎりまで脱いだというところだったんだけど、僕の興味はまったくそっちにはなかったのを良く覚えている。そういう意味でけっこうインパクトがあった。

カメラ、それを取り巻く媒体が進化するにつれ、カメラの前に立つということが、まったく意識されなくなってきたことで、写す側と写る側の関係性っていったい何なんだろう? とふと考える。何というか、確かにそこに(レンズを通して写っている)モノはあって、ああソレなんだと認識できたりもするけれど、でも一体多量にあふれたこれら画像の中に何が写されているのだろう、そして何を見ているんだろうと。


一枚の写真を写真たらしめるものは、それを撮る写真家、あるいはカメラを操作する者の意識を超えて、そこに何が写されているか、当の事物の意味がそれを撮る者とそれを見る者との間に了解可能な限りにおいてのみである。この時、人は、写真は記録であるということにおそらく何の疑義もさしはさみはしないであろう。

「見続ける涯に火が… 〜批評集成 1965 - 1977〜」中平卓馬、より
"記録という幻影 - ドキュメントからモニュメントへ"(OSIRIS/ p222)




■ 空撮ドローンではない飛ぶカメラLily 予約開始 ^o^
自動追尾や回り込み対応、浮く防水仕様
http://japanese.engadget.com/2015/05/14/lily-o/

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2015年02月18日

光ト影ノ遠近法 #04「Contact Print」

ContactPrint-Feb-2015.jpg
Contact Print (Ilford FP4 Plus)
Ink on paper / Feb. 2015, 210 x 297mm

もうすっかりと、モノクローム・フィルムを使って写真を撮ることはなくなってしまった。この先も、きっとないだろうなと思う。デジカメが普及しはじめた頃は、そのちゃちい色の出方や、物理的に何かの形跡が残らない記録方式に不安と不満がたくさんあったが、デジカメの性能アップとそれに伴う周辺の出力機器、プリント・システムの整備が進んでいくうちに、デジタルで写真データを記録していくことにすっかりと慣れてしまった。何より、暗室作業という重労働からの解放は、撮影に集中できる時間が十分に持てるようになり、精神的な負荷が相当になくなる。フィルムを沢山使うほどに、暗室作業も比例して増えてくるため、調子に乗ってシャッターを押しすぎたりすると、その数だけの憂鬱さも押し寄せることになる。撮るのは楽しいが、暗室作業がおっくうで、最終的なプリントの仕上がりを喜ぶまでには、大きな苦行をどうしても乗り越えなければならない。フィルムでの撮影は、このジレンマがとてもイヤだった。
デジカメにはない、フィルムカメラでの利点はといえば、コンタクト・プリントの有無くらいだろうか。35ミリフィルムならば、6コマずつカットして印画紙の上に順に並べ、光を当てる。ロール上に連なる一方向上の時間が、分割され、再構成される。不思議なことに、そこには時間の流れだけでなく、空間的なことやもっと想像を刺激する何かが、同時に潜んでいる。
コンタクト・プリントを見るのはほんと面白い。同じコマでも今日見るのと、明日見るのとでは、まったく印象が違っていたりするし、一年後、五年後に見直すと、これまで見落としていた写真が急に輝きはじめたりする。こんなの撮ったっけ? なんてのもあったりして、仕舞っている間に、コマが勝手に変化したんじゃないかと疑ってみたり。隣り合う写真と写真を交互に眺めながら、その間に流れる時間をもう一度思い返し、写ってないはずの景色や場所をもう一度記憶のなかに引き込む。そうだ、この花を撮ったあとにヤギが擦り寄ってきたんだとか、余白というか余黒になるのか、そういったものが浮かんでくる。

僕は、KODAKのTRI-XとイルフォードのFP4 PLUSというフィルムを良く使っていた。感度100-125あたりのフィルムでは、KODAKのPLUS-XやFUJIのネオパンよりも、イルフォードのFP4 PLUSの方が好みだった。やや青味がかった透明度の高いネガベースは、透かしてみると瑠璃色の輝きを見せ、手の中にあると肌色に良く合う。そして、シャープネスの高さとシャドウ部がストンと落ちるあたりが、被写体に思慮深さを与えているような感じだった。このフィルムは、ハイライト部から中間トーンにかけてのグラデーションが美しく、シャドウ部の描写がやや不得意だった。ちょっとミーハーだけど、イギリス製という点も、ヨーロピアンな雰囲気と格調の高さが写真となって現れるような気がした。フィルムの画像形成は化学変化によるものだから、人の思い込みや願望のようなものによって、何かすばらしい反応が現れるなんてことは、全くないのはわかっているが、そこは使う人間の小さな楽しみとして、持っていてもいい感覚ではあると思う。フィルムの特性・個性が分かってくると、被写体に合わせて、それに合うフィルムを選ぶようになる。FP4 PLUSで、髪のさらさらな女の子なんて撮ると、頭から絹の糸が生えてるんじゃないかと思うほどに、ほんと芸術的な仕上がりになってしまう。雨上がりの濡れた路面、水に対する描写にも優れていた。ウエットなんだけど、湿度を感じさせないドライなところもあり、この相反する描写力がとてもいい具合だった。


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2014年11月06日

光ト影ノ遠近法 #03「一枚」

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at Aoyama


とにかく四六時中カメラを手に、肌身離さず持ち歩いていた時期があった。本当寝るとき以外はというくらいに。Photographolic、写真依存症ですナ、と診断されてもおかしくはなかった。新宿や池袋で中国系マフィアの抗争がニュースになり始めた頃、街を灯すネオンにまだ生気が漂っていたときだった。自分がひとつの「眼」になって、なんでも撮ってやろうという気概でいたように思う。その時は、カメラを持っていないとどこか落ち着かず、不安だった。でもカメラを手にしていれば不思議と安らいだ。冬は指先が割れそうなほどキンと冷たく、夏になると火傷しそうなほどに熱くなる鉄の箱。カメラから伝わる温度で、季節の変化を感じたりもした。手の中で、カメラはお守りのような役割をも果たしていた。心強い小さな箱。街を撮り、その中を行き交う人を撮り、路上の記号や寂れたビルの哀愁などにレンズを向ける。ひとつ裏手の路地に入ると、自分だけしか知らない場所に立っているような感覚にもなったりした。ファインダーを覗いて被写体を写しとる。フォーカス、フレーミング。光の計算。そういったものを取捨選択し、組み立てながら一枚一枚を撮っていた。都市という立体的な空間を、一枚の写真の中に閉じ込める。平面(フラット)化する、と言えば写真的な語調として聞こえはいいのかもしれない。しかし、そのときに撮っていたものは「街の記録」として、多少の意味があったかなという程度にすぎなかった。それぞれ「写真」として悪いものでもなかったとは思うけれど、やはりどう転んでも「何かを表現」したものではなかった。どれほどひねって、それらに言葉をつけようとしても「イメージの集積」というので精一杯だ。当時は、自分の行動に盲目的で、街の写真を撮ることに何の意味があるのかを、自分自身でも全く説明できなかった。ただ「眼」に従うように撮っていただけだった。街の喧噪に、ただ引き寄せられていただけかもしれない。「街の中で起こる何か(偶然性)」に期待して足を向け、それに頼っていた。こうして日課であるかのように、毎日街へ繰り出していた。闊歩・日課。いくつものフィルムを装填しては取り出し、そして現像する。やがてプリントした写真が山のように積み上がり、部屋を占拠しはじめてくる。「衝動から生まれた記録の山」が横たわっていた。そして、それを見たとき、なぜ、常にカメラを持っていたのかがわかったような気がした。ヴィジョンがなかった。ただそれだけだった。テーマといえばもっと分かりやすい。街で起こるハプニングや面白いもの、キレイなもの。そうったものをカメラに収めていただけ。これといった筋書きがあって、そうしていたわけでもない。ひとつひとつをつなぐ線、それらには何か裏付けが必要だった。理論といえば大げさだろうけど、体系的にまとめ上げるロジックが決定的に欠けていたように思った。こういったヴィジョンのない写真が何百枚、何千枚とあったところでそれらはゼロにしかならない。小学校で掛け算を習っただろう、もう忘れてしまったのかい? ゼロに何を掛けてもゼロなのだ。
闇の中で落とし物を探し回っているようなものだった。何も見えていないから、手当たり次第に地面を這わなければならない。もし、光があり、眼が見えていたのなら、目的のものをすぐに見つけられる。英語で写真を撮ることを「Shooting」という。眼で狩りをする、ということだ。本物の狩人なら一撃で獲物をしとめれるはず。初心者は闇雲に打ちまくるか、マシンガンを手にしなければ狩りなどできないだろう。それでも獲物がしとめられるかは運次第だったりする。それにマシンガンで打たれた獲物は穴だらけで、美しい剥製にはならない。銃猟(Shooting)にだって美学はあるはずだ。
カメラは眼。きっと人でもそうだろう。自信のある人は、眼を閉じることなくまっすぐに相手を見つめることができる。瞬きの数が多いほど自信がなかったり、何かの不安、あるいは本心を隠している。

写真は撮る前に「撮るモノが決まってなくてはならない」
もう少し言うと、「撮る前には、もうすでにイメージがしっかりと写っている」のだと思う。自分が本当に撮りたいものならば、シャッターを切るのは一回だけでいい。二回は必要ない。シャッターの数は、撮れない不安と比例しているのだから。そしてテーマが決まっていれば、常にカメラを持ち歩く必要もなくなる。必要なときにだけカメラを持てばいい。デジタルになってから、カメラの使い方はぐんと容易になった。シャッターを押しさえすれば、本人に何ら創意・意図がなくても何かしら画像が写っている。たとえ偶然撮れたものだったとしも、「自分で撮った」という行為が、何か創作させたように錯覚させる。絵の具と筆があっても絵を描けるとは限らないし、万年筆を持っているだけで小説が書けるわけでもない。しかし、カメラは持ってさえいれば、誰にだって写真が撮れる。


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2014年10月06日

光ト影ノ遠近法 #02「ポートレート」

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ウズベキスタンにて


「わたしを見つめる"あなた"が写っている」


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たしか、ダイアン・アーバスの言った言葉だった、と記憶しているが、随分前に何かで読んだか聞いたかで、やや不確かなところがある。仮にアーバスではなく別の写真家の言葉だったとしても、ポートレート写真の最も核心を伝える素敵な言葉に違いはなく、写真をみるとき、また撮るときはこの一言をいつも思い出すようにしている。

そう。ただポートレートといっても、単に人が写っているだけの写真にすぎないかもしれない。しかし、この言葉をよく噛みしめて、改めてそれらの写真を見てみると、撮り手と被写体との関係性が、くっきりと見えてくる。ポートレートというのは、被写体の容姿・外観が写っているだけの、単純なものでは決してない。もし、表面的なものしか写っていないのであれば、それはとても退屈でつまらないポートレート写真だろう。

「あなた(被写体)」のまなざしが「わたし(撮り手)」を捕らえている。そして、その写真を見ることになる第三者は、「あなた」のまなざしを通して、気づかぬうちに「わたし」という存在になっている。つまり、写真の中に写る「あなた(被写体)」を見つめることで、「わたし(撮り手)」という人間が、一体どういった人物なのかを無意識のうちに感じとっているのだ。
「あなた」の目は何を見つめているのだろう。おっちょこちょいな「わたし」なのかもしれない、あるいは少し気むずかしい「わたし」なのかもしれない、もしくは心安らぐ「わたし」なのかもしれない。「被写体(あなた)」のまなざしは「撮影者(わたし)」の人物像をありありと写しとる。ポートレートというのは、いわば「撮り手の内面を写した他人像」といってもいいのだろう。僕はこういった「関係性」の写っているポートレートに心惹かれてしまう。

暗室の中で、引き伸ばしプリントをしているときに、こういったことをより強く感じる。現像液に浸した印画紙をバットの中で揺らしながら、ぼんやりと、そしてゆっくりと浮かび上がるポートレート画像をじっと眺めていると「僕を見ているあなた」のまなざしと目があってしまう。それは、笑顔であるかもしれない、怪訝な表情かもしれない、今にも泣きそうな顔かもしれない。その写真にはあなたの姿ともうひとつ、あなたの見つめる「わたし」が、確かに写っているのだ。

ポートレート。一見するとあなたの写真であることには間違いないのだが、実のところ、あなたの姿は「わたし(を見つめる)」のネガ画像であって、そのネガ画像を第三者が「見る」ことによって、二人の間にある関係性を感じとり「わたし」というポジ画像を、第三者の中に形成することになる。そういう隠陽転な要素が多分にあるので、良いポートレートというのは、見ていて楽しいし、長々と見入ってしまう。

ポートレート、というのは
わたしが撮った「あなた」が写っているのではなく、
「わたし」を見つめるあなた、が写っているのだ。

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