2016年03月10日

「暗い鏡の中に」ヘレン・マクロイ、より (& モリッシーの小説)




腕を動かそうとするとき、心は肉体にどう作用するのか。この問題は心理学でも生理学でも解き明かせません。それで人は心と肉体の二元性を否定するのです。



「暗い鏡の中に」ヘレン・マクロイ(駒月雅子・訳)、より
第七章(創元推理文庫 / p111)
"Through a Glass, Darkly" by Helen McCloy, 1950



ヘレン・マクロイ(1904 - 1994)の「暗い鏡の中に」、珍しく三日ほどで読み終えてしまった。ミステリー系は物語の目的が謎解きというか、話の方向性がひとつに集約され展開してゆくので、文章の波長さえ合えば一気に読み進む。この小説は各章まとまりがあってテンポもよく、だれない場面展開も上手。原題は "Through a Glass, Darkly" で1950年の出版。タイトルからは、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス(Through the Looking-Glass, ...)」を連想させるものがあるが、ポーの小説、ゴスホラーの支流にある感じの物語だった(ルース・レンデルと近い感触に思えた)。僕はさほどミステリー・ジャンルには興味がないから、他のをあまり知らないのだけれど、この「暗い鏡の中に」はクラシカルな文芸小説によくみられる、著者の求めるテーマや哲学性がときおり表出したりして、単なるエンタメ系ミステリー(リーダブルな)で終わらない深みが感じられた。その分、謎解き・トリックを楽しむという要素は弱いのかもしれない。訳のよさもあってか、半世紀以上も前に書かれたものとは思えないほど、今の時代と馴染みある。1950年というと第二次大戦が終わって間もない頃、ちょうど朝鮮戦争が始まった年。と、ざっくり歴史と並べてみても相当に過去の気配があるのに、この時代に古びない感はなかなかすごいな。当時のアメリカで関心が高かったのだろう心理学や精神医学などがストーリーに盛り込まれている。やっぱり時代の空気って作品に残っているものだなと改めて思う。読み始めたときも、読んでる途中も、そして読み終わったときも、なぜかヨーロッパ、イギリスが舞台のものだという印象が強くあった。実際はアメリカのコネチカット州にあるブレアトン女子学院という女子高が舞台で(いわゆる学園モノ)、話中には周辺のニューヨークやニュージャージーの名前もちょくちょく出ていたのに、何でだろう? 物語に漂う不安感と、頭の中に浮かぶ幻想的な情景がどこかヨーロッパのデカダンを感じさせるのかも。
上引用の一文を読んだときに、ザ・スミスの「STILL ILL」の歌詞を思い出し、もしかしたらモリッシーもこの小説を読んでいたのかも? と妙に気になった。彼らのデビュー・シングル「Hand in Glove」はナイオ・マーシュ( Ngaio Marsh / 1895 - 1982 )という、ヘレン・マクロイとほぼ同時代に生きた女性ミステリー作家の小説のタイトルからとられているくらいだから、可能性はありそう。まぁただの偶然だろうけれども、ヘレン・マクロイは「Panic(1944 / 未邦訳)」という小説を書いていて、ザ・スミスにも「Panic (1986)」というヒット・シングルがあったりし、因縁つけるには面白い。

*話ついでにひとつ。The Smithsの「Panic」にはチェルノブイリ原発事故に絡んだエピソードがあって、英国でちょっとした物議をかもした。ある日、BBCラジオを聴いていたモリッシーとマーは、チェルノブイリ原発事故を伝えるアナウンスを耳にする。その直後にラジオのDJが能天気なワムの歌「I'm Your Man」をかけ(意図的なのか、あらかじめ決まっていた選曲だったのかは不明。当時読んだ雑誌には「追悼の意をこめてかけた」と書いていた記憶がある)、その瞬間に、マーは「(この歌が)人の命とどう関係があるんだ」と憤慨、それがモリッシーの歌詞(サビの部分 "Hang The DJ" というフレーズ)につながったのだと。


Does the body rule the mind or does the mind rule the body?
I dunno...


"Still Ill" by The Smiths
http://songmeanings.com/songs/view/13093/



Book-HelenMcCloy-ThroughAGlassDarkly-1950.jpg
http://tagong-boy.tumblr.com/post/140566396381/httpwwwamazoncomthrough-glass-darkly-helen-mc



モリッシーがヘレン・マクロイを読んでいた、という情報がどこかにないだろうかと調べてみると、全然関係ないが興味あるツイートと記事があったので以下リンク。モリッシー、2015年秋に小説出してたのか、ビックリ!
Hatchards-Morrissey-Display-Oct.2015.jpg


'There's more to life than books you know, but not much more...'

Hatchards (2015年10月2日)、より
https://twitter.com/Hatchards/status/649986109397671936
上画像は、ロンドン、ピカデリーサーカスにある「ハッチャーズ」という書店で展開されていた、モリッシーの処女小説「List of The Lost」の販促ディスプレーの様子('Hatchards'ツイートより)。ここはイギリス最古の書店として知られているのだそう、日本でいう丸善、紀伊國屋書店みたいな感じになるのかな。モリッシーのお気に入り本か、関連したものが並べられているんだろうけどナイオ・マーシュの「Hand in Glove」があるのが分かるくらいで、その他の本はどういうつながりなのかは不明。上ツイートの一文は、ザ・スミス「Handsome Devil」の歌詞からの引用。こういう販促展示なんかをしたとき、日本でのツイッターやSNSは「絶賛発売中です!」といったような、ただテンション高いだけの説明になってしまうんだけど、イギリスの老舗書店はさすが、ひねりがあるというかツイートもスマートで洒落ている。にしても街の一画に、こういう文化が普通にあるのって素敵だな。

そういえば、イギリスの議会ではザ・スミス・フリークのキャメロン首相が、彼らの歌詞を引用しながら質疑応答するという面白いハプニングが過去にあった。野党議員も曲名を質問に織り込みながら尋ねていてユーモアたっぷり、変なところで盛り上がりを見せている。質問の文面はあらかじめ用意されていたもののようだが、それに対するキャメロン首相の回答はアドリブのようにも見え、けっこう機転がきく人なのだと変なところで感心したり、いやもう、議会で何やってんだろうね。キャメロンは保守党(モリッシーの大嫌いなサッチャーがいた)なので、この話題はザ・スミスのメンバーにとって非常に不愉快になるものだった。

David Cameron asked about liking The Smiths (Prime Minister's Questions, 8.12.10)

キャメロン英首相「ザ・スミス好き」について英議会で野党から質問される
http://ro69.jp/news/detail/44526



 ロック・バンド、スミスの元フロントマンであるモリッシーの小説『リスト・オブ・ザ・ロスト』が、9月24日にイギリスで発売される。版元は小説、ノンフィクション、思想書など幅広く手がける、イギリスの老舗出版社ペンギン・ブックス。今作は執筆に2年を要したという。

ele-king、より
http://www.ele-king.net/news/004727/


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2016年02月28日

「V.」トマス・ピンチョン、より



「ノー」彼女は叫んだ。
「ノーの言い方もいろいろ練習したんだな。イエスを意味するノーも言えるだろ? 今のノーは好きじゃないから、別な言い方をしてごらん」




「V.」トマス・ピンチョン(小山太一+佐藤良明・訳)、より
第四章 "エスター嬢が鉤鼻を付け替えるの巻"(新潮社・上巻 / p162)
Thomas Pynchon " V. " (1963) - Chapter Four: In Which Esther Gets a Nose Job



Ken Lopez Bookseller - Thomas Pynchon "V." (1963, Lippincott)
http://lopezbooks.com/item/16390/
アメリカ(マサチューセッツ州)のオンライン古書店のサイトを見ると、ピンチョンの「V.」初版本に2,500ドル(2016年2月現在のドル円レートで換算すると30万円弱)の値がついている。フィラデルフィアの出版社「リッピンコット」から出版されたもの。この初版本の表紙カバー、パッと見は何か科学系の本に見える。
ThomasPynchon-V-firstEdition-Lippincott-1963.jpg

Past Logs / Quotes - 海外文学・アメリカ /



見るということは、瞳孔のはたらきによる物理的行為だ。しかし視るというのは、脳細胞をつかっての知能的行為だよ。


「幻の女」ウイリアム・アイリッシュ(稲葉明雄訳)、より
(ハヤカワ文庫 / p159)






芸術の真の目的は美しい事物を作り出すことではない、そう彼は悟った。芸術とは理解するための手立てなのだ。世界に入り込み、そのなかに自分の場を見いだす道なのだ。一枚のカンバスにいかなる芸術的特質があろうと、それは、物事の核心に迫るという目的に向かって努力していく上での、ほんの副産物のようなものでしかない。


「ムーン・パレス」ポール・オースター(柴田元幸・訳)、より
5章(新潮文庫 / p298)






「アメリカでは黙っていることがなかなかできないんだよ。人の中身じゃなくて、何が口から出てくるかで判断されるんだ」
「そうでしょうとも」母親はあっさり認める。「でも父さんなら、口を開く前によく聞くことをおぼえなきゃいけないって言っただろうね。しゃべればしゃべるほど得るものは少ないって、父さんなら」



「千年の祈り」イーユン・リー(篠森ゆりこ訳)、より
"息子(Son)" (新潮社クレストブックス / p136)






あんたたちは神がアダムを創って、アダムがセムを創って、セムがヨシャパテ(前九世紀のユダの王)を創ったと信じている。あのアホらしいイヴだの、エデンの園だの、リンゴだのというおとぎ話も信じている。な、いいか、同志。あんたたちがそういうアホらしい話を信じるというなら、俺だって俺なりのアホらしい信仰を持っていいはずだ −


「フランク・オコナー短編集」フランク・オコナー(阿部公彦・訳)、より
"国賓"(岩波文庫 p43-44)
Guests of the Nation / Frank O'Connor






 とてもとても美しいので見るたびにもうすっかり嬉しくなってしまうような娘の隣に座って、借りもののジープでニュー・メキシコ州を走る、人生はそういうふうに単純なのだ。


「芝生の復讐」リチャード・ブローティガン(藤本和子・訳)、 より
"ソローのゴム輪"(新潮文庫 p116)
Revenge of The Lawn / Richard Brautigan






蛾の古い定義はね、”自分以外のものを何でもゆっくりと静かに食べて、呼吸するか損耗させてしまうすべてのもの”というものなんだ。蛾(moth)という言葉は、破壊を意味する動詞でもあったしね。


「羊たちの沈黙 - 新訳版 -」 トマス・ハリス(高見浩・訳)、より
(新潮文庫・上巻 / p194-195)
"The Silence of The Lambs" by Thomas Harris



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2016年02月24日

「世界は村上春樹をどう読むか」より



 日本語とフランス語の違いでおもしろいと思うのは、日本は個人よりも集団を大事にする社会で、フランスは個性の強い国だといわれるのに、日本語には「僕」「俺」「私」と、いろいろな言い方があって、フランス語には「je」しかない。 − コリーヌ・アトラン(フランス)



「世界は村上春樹をどう読むか」より
柴田元幸・沼野充義・藤井省三・四方田犬彦 (編)、国際交流基金(企画)
II. パネル・ディスカッション / 翻訳者が語る、村上春樹の魅力とそれぞれの読まれ方
(文春文庫・p112)




ふだん、ぼくたちは何気なく「自分」をさす人称を使っていて、いくつかの種類をうまく使い分けている。そう意識することもないが、英語など他言語と比較したときに、けっこう最初にあれ? っとなってしまう。言葉って使う人たちのコミュニティの慣習や地域性、生活の様式なんかが現れたりするから、上文にあることは少し考えていくと面白い発見がありそうだなぁと思った。

もうずっと前の話だけど、ファッション・デザイナーの山本耀司が特別講義でやってきたことがあった。全盛期の頃ではなかったけれど、"Yohji Yamamoto" は、コム・デ・ギャルソンとともに日本(アジア)の最先端としてまだ世界中で支持されていた時期だった。「フランスのモード界でゲイじゃないのは僕とアルマーニだけだよ」なんてびっくりするような話でみんなを沸かせてくれたり、楽しい講義だった。普段、大講義室が埋まることなんてそうあるわけではなかったが、このときは通路にまで学生たちで溢れ、山本耀司の人気ぶりが伺えた。そのときの話の中ですごく印象に残っていることがあって、いまだに思い出すことがある。講義の後半、学生が質問で、「いま一番興味あるファッションは何ですか?」とたずねると、山本耀司は少し考えてゆっくりと答えた「そうだな、中国の人民服かな。制服だとかそういったものに興味がある」と。僕たち学生は、何か過激で刺激的なファッションのことを期待していた雰囲気があったんだけど、その答えを聞いて妙に拍子抜けした(当時、中国はといえばほんとド田舎なイメージがあった)。山本耀司は続けて言う「きみたち中国人の顔つきを見たことがあるかい? 不思議とね、みんな個性的なんだよ。顔のしわひとつひとつにも、その人の生きてきた背景が見えてくる。日本は自由な国だし、見かけはみな個性的なファッションをしているんだけど、顔に個性がない。それが不思議でね。何でだろう? って、ずっと考えていたんだ。で、ぼくは思ったんだ。彼らは人民服という服を強制的に着さされて "己(おのれ)" というものを出す場所がない。そういった行き場を失った個性というものがね、きっと服という器から押し出されて顔(の表情・人格として)に表れてるんじゃないかって。だから、いま、制服だとかそういった統一されたものに興味があるんだ」と。僕の古い記憶だから、言い回しなんかは実際とは全然違っているだろうが、おおよそはこんな感じのことだった。流行に敏感でいつも新しいファッションや音楽なんかの話ばかりをしていた僕たちは一同面食らった上に、俺たち中国人に負けたのか、みたいな雰囲気にもなったりして、しばらくの間、場は静かになった。「自由の意味を勘違いするなよ」というメッセージも暗に言っていたのかもしれないし、ほんと純粋にそのときに興味あるものをただ喋っただけかもしれないが、なにか僕にはひっかかるものがあった。その意味がわかるようになったのは、ずっとあとになってからだった。本当に何かを突きつめ表現している人って、流行や話題性のあるもののあとを追いかけ、便乗するんじゃなく、自身の追求・探求をただひたすらに続けているのだなとも感じたり。山本耀司というファッション・デザイナーは当時メディアでももてはやされていたせいもあって、僕はこの講義を聞くまではミーハーな印象を持っていた。でも、ただカッコイイ、お洒落な服をつくってるわけじゃない、「人が服を着る」ということがどんな意味を持つのだろう、とても真摯に考えている人なのだと思った。たしかに、そういった哲学や思想を持って表現をしていないと世界では通用しないのだろう。そんな厳しさをきっと山本耀司は、身にしみてわかっていたからこそ、まだ広い世界というものを知らない若い世代に少しでもそのことを伝えたのかなと振り返ってみたりもする。ファッションの世界で生き残るのは並大抵のことじゃできないのは、時代ごとの栄枯盛衰やトレンドのめまぐるしさを見ていれば、その業界を知らない僕たちでも十分にわかる。
豊富な一人称の呼び方を持つ僕たち日本人は、どこまで個性的なんだろうなと、ちょっと昔の記憶と混ぜながら考えてみたりした。

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2016年02月13日

「日はまた昇る」E.ヘミングウェイ、より(小説の中のお酒 Vol.2)



「さあ、何を飲む?」
"Well, what will you drink?" I asked.
「ペルノー」
"Pernod."
「若い子には毒だよ」
"That's not good for little girls."

(中略)
 ペルノーというのは、緑がかった、アプサンまがいの酒だ。水で割ると、白く濁る。甘草(かんぞう)みたいな味で、ご機嫌になれる代わり、反動もひどい。いっしょにペルノーを飲んだが、女はおし黙っている。
Pernod is greenish imitation absinthe. When you add water it turns milky. It tastes like licorice and it has a good uplift, but it drops you just as far. We sat and drank it, and the girl looked sullen.


「日はまた昇る」E. ヘミングウェイ(佐伯彰一・訳)、より (3章・集英社文庫 / p16 - 18)
"The Sun Also Rises" by Ernest Hemingway / CHAPTER III
https://www.modernistweb.com/page/prose/45/Chapter+3



春の夜、場所はパリ。友人のロバート・コーンと連れ立ちカフェ・ナポリタンへ出向いた主人公ジェイク・バーンズは、コーンと別れたあともカフェに残り一人過ごす。そこへ一人の娼婦(ジョルジェット)が通りがかり声をかけ、ナンパする。上のセリフはそのシーンの会話。まぁとにかく、この小説、毎ページほとんどの場面でいろんな種類の酒が登場し(有名なものはたいてい出てくる)、また酒が出てこないときには大体何かを食べている。食事のシーンと登場人物たちの会話が常にセットになっていて、物語の流れを作っている。互いが互いに花を添えているような感じ。そこにみえるのは、ラテン・ヨーロッパの「セラヴィ」な世界なんだなぁと。ほんとこれでもか! というくらいに酒と食べ物の描写があって、さらにウィットに富んだ会話と一緒くたになり、読んでいるだけで、もう何かお腹が満たされた上、軽い酔いでも入ったような錯覚に陥ったりもする。

話中に出てくる酒をおおよそ挙げていくと、ワイン、コニャック、フィーヌ・ア・ロー(水割りのブランデー)、シャンパン(ヴーヴ・クリコ)、ウィスキー・ソーダ、ブランデー・ソーダ、ラムポンチ、ブランデー、シェリー、ビール、アニス・デル・モノ(猿のアニス酒)、アニス・デル・トロ(牡牛のアニス酒)、火酒(アグワルデイエンテ)、フンダドール(スペイン産ブランデー)、焼酎、ジャック・ローズ(1920-30年代に流行ったカクテル。海外ではこの小説に登場することで特に有名。スタインベックが好きだった模様。本などでよく見るスタインベックの顔写真はとても硬派でタフなイメージがあるので、カクテルが好きだったというのは意外というか、なんかかわいらしい)、マールなどなど。これほど多種なお酒が出てくる小説も珍しい。

小説のなかでも触れられているがアブサンについてを少し。この酒は魔術的な妖しさがあるためなのか、エピソードに事欠かず知るほどに興味が増す。アブサンはアルコール度数が高く(70%ほど)、また幻覚を引き起こす等の作用があったせいで、さまざまなアーティストにも愛飲されていたお酒だったが、二十世紀の初頭に各国で禁止されだした。主成分の「ツジョン(ニガヨモギの香味成分)」に毒性・耽溺性があり多量に摂取すると死に至る、ということが問題視され、実際にアブサンを飲んで死者が出たことに端を発し世界的な禁止の動きになった(ツジョンの毒性よりも、粗悪品の横行と蒸留不良による不純物混入などが原因だったのではないかという見方もある)。フランスでは1915年に禁止になっている。なのでこの小説の書かれた年代(1925-26)に、アブサンは流通しておらず、代替の薬草酒ペルノーが飲まれていたことが分かる。どっちにしろアブサン、ペルノーとも危険な酒として巷では広く知られていたのは確かなよう。尚、アブサンは1981年に成分の基準値(ツジョンの含有量)を見直すことで全世界的に解禁となった。現在は法改正され、オリジナル・レシピでの製造もあったりして入手可能。

ヘミングウェイはカナダの新聞社「Toronto Star(当時は'Toronto Daily Star')」の外国人特派員として1921年にパリへ移り住み、ヨーロッパでの生活を送っていた。この小説を書いていた時期(1925年、自分の誕生日の7月21日、スペインのバレンシアで執筆を開始、1926年10月に出版)はアメリカで禁酒法が施行されていた時代と重なる(一般的には1920年1月16日の深夜、日付が変わった翌17日の午前零時をもってその始まりとされる。ただ、飲用目的での酒類の製造・輸送・販売が禁止になったもので飲酒・所有に関しては問題なかった)。もしヘミングウェイがアメリカに住んでいたのなら、郊外にある邸宅でのプライヴェート・パーティや街中のスピークイージー(もぐり酒場)で肩身を狭くして、酒を飲まなければいけなかっただろう。偶然だったのか、運命的にヨーロッパに呼び寄せられたのかはわからない。けれども結果的には、この "お酒満載" の小説を、大西洋を隔てたヨーロッパの地で書きあげ、それがまたたく間に売れ有名になってしまった。アメリカの社会に漂っていた禁酒の窮屈な雰囲気を、大陸から遠く離れた対岸で感じ取り、そういったものが醸成され小説の中でうまく発酵していたからこそ、大衆の支持を得たのかもしれない。この小説の中にあるパリをはじめヨーロッパの街はとても華やいだ雰囲気を漂わせている。もしも、アメリカで禁酒法がなかったのなら、ヘミングウェイはこの小説の中でこれほどに酒のシーンを描いただろうか? また多くのアメリカの読者は、酒の香り漂うこの小説を求めたのだろうか? ふとそんな想像がよぎった。この当時のアメリカの人々が持っていた酒に対する意識は、今とはずいぶんと違っていたように思える。規制されることによって、アルコールを飲むということが、より一層強い気持ちとなって現れ、何かしらのはけ口を求めていたような、人の心理とはそういうところがある。面白いことに、禁酒法以前の酒の消費量と禁酒法が施行されてからの消費量を比較すると、禁酒法が行われていた時代の方が約10%ほど多くなっている、という結果もあったりする。そして「日はまた昇る」出版から数年後、1929年10月にウォール街の株価が大暴落しアメリカの経済はどん底に、そして世界恐慌へと突入していく。禁酒法は1933年に早々と廃止になったが、その背景には大恐慌による失業者の増加と不満、社会不安、酒類産業からの税収減による財政難、などの要因が重なり世論的に撤廃を求める流れになっていた。


少しおもしろいなと思ったのが、お酒(モノ)に対する価値観の現れ。
この小説の、ある一場合はこんな風だ。

「この店の、いちばん古いブランデーは何かね?」

"What is the oldest brandy you have?"
「一八一一年でございます」
"Eighteen eleven, sir."
「持ってきたまえ」
"Bring us a bottle."
「ねぇ。あんまり派手なことはよしてよ。取り消しなさいな、ジェーク」
"I say. Don't be ostentatious. Call him off, Jake."
「ね、あなた。古いブランデーなら、どんな骨董品よりもお金の使い甲斐がありますよ」
"Listen, my dear. I get more value for my money in old brandy than in any other antiquities."
(7章・p86)


このやりとりの中には、歴史を持ったものに対して価値を見いだし、それになら大枚をはたいても構わないといったところがある。何気ない会話の中にも、欧州の美意識・価値観みたいなものが表れているのだなと。これがもし、日本(の店やドラマなど)だったら、ただ単に「一番高いものを」という風になっているだろうと思う。自身の眼で真贋の見極めができないと、値段の高さだけでしか価値を測れない。

"The Sun Also Rises" - First Edition

ErnestHemingway-SunAlsoRises-1stEd-1926.jpg
http://tagong-boy.tumblr.com/post/136379338991/the-sun-also-rises-ernest-hemingway-first
上画像左:アメリカの出版社「チャールズ・スクリブナーズ・サンズ( Charles Scribner's Sons )」から出された「日はまた昇る」の初版本。1926年10月に出版。初版は 5,090 部だったそう(端数の90部って何だろう?)。表紙カバーのイラストとデザインはクレオ・ダミアネイクス( Cleo Damianakes /or Cleonike Damianakes )という女性の画家によるもの。同年2月に同じ出版社から出たフィッツジェラルドの短篇集「All the Sad Young Men(邦題:若者はみな悲しい / 光文社古典新訳文庫)」もこの人が表紙画を担当している。「日はまた昇る」の出版の際、フィッツジェラルドが出版社にヘミングウェイを紹介したので、おそらくそのつながりで同じ画家の絵によるカバー・デザインを踏襲した感じだ。右の画像は印刷用の版下原稿だと思う。


Collecting Ernest Hemingway: The Sun Also Rises by The Lit Witch
http://www.thelitwitch.com/book-collecting-notes-ernest-hemingway-the-sun-also-rises/
上記リンク先は、スクリブナーズ社「The Sun Also Rises」の初版本について詳しい記事。見分け方などが載っている。コピーライトページにある出版社シールの有無、ダストカバー(日本でいう表紙カバー)に印刷された自著「In Our Time」のタイトルにスペルミスがある。そして本文P181の26行目の「stoppped」のスペルミス、この三項目があるそう。オンライン古本屋を見ると、おおよそ平均で4,500 - 6,000ドルあたりの値が付いている(もちろんもっと高いものもある。カバーのついてないものは安い)。日本のオンライン・ショップの場合、中古本の値段は実勢取引の価格帯よりやや高め(2割前後で)に付いていることが多いので、おそらくアメリカでも同じようなものだと思う。まぁそれでも数十万円くらいはするのだろうけれど。いわゆるプレミアム、希少価値がつくというのは、数の少なさ(供給数)だけではなくて、それを欲しいと思う人の数(需要)が多くないと成立しない。ほぼ一世紀経ち「The Sun Also Rises」の初版本が(約5,000部もあり)今なお高値をつけているのは、求める人が少なくないという表れにもなっている。初版本で読もうが、インクの文字が潰れかけたペーパーバックで読もうと、書かれている中身は変わらないのだから、どっちでもいいんだけれど、こういうマニアのこだわりや仕様の変遷などを見ていくのは、その本の持つ歴史、'人生'ならぬ'本生'とでもいうのか、そういったものが垣間見えたりもしちょっとした楽しさはある。
(*価格は古書店の仲介サイト「abebooks.com」を参照して)




キリマンジャロの雪 「1920年〜1926年 親からの独立」
http://kilimanjaronoyuki.jp/sub/1920.html

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2016年02月09日

「中世賤民の宇宙」阿部謹也、より



 Verr(人間)と öld(時)とからつくられた Veröld (Weoruld = World) から明らかなように世界とは人間の時を意味する。時と人間の生とは結びついているものなのである。


「中世賤民の宇宙」阿部謹也、より
ヨーロッパ・原点への旅(四 初期中世ヨーロッパにおける時間意識 / ちくま学芸文庫・p85)


me :
(ラテン語)西洋圏でいう「世界(world)」は、上にあるように時の中に生きる人間という根底的な意味合いで認識されているんだろうか。日本語で同じ意味になる「世界」は「領域」を示す意味合いが強い。この点、時間を内包する言葉である world とは異なっている。世界とworld、この二つの言葉、おおよその意味合いは重なってはいるだろうけれども、きっと根本的なところでのとらえ方は違ってはいるんだろうな。

Past Logs / Quotes - 中世西洋 /

 

 鐘の鋳造は中世から近代にいたるまで地下で行われる。鋳造師の精魂こめた作品は地中で固まり、冷やされてから青空高くそびえる塔の上に吊され、生者と死者に呼びかけるのである。


「中世の星の下で」阿部謹也、より
鐘の音に結ばれた世界(ちくま文庫 / p246)




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2016年01月11日

「街場の読書論」内田樹、より



もし著作物がひとりでも多くの読者に読まれることよりも、著作物が確実に著作権料収入をもたらすことが優先するというのがほんとうなら(←原文ママ*)、物書きは「あなたの書いた本をすべて買い取りたい」という申し出を断ることはできないはずである。買った人がそれを風呂の焚きつけにしようが、便所の落とし紙にしようが、著作権者は満額の著作権料を得たことを喜ぶべきである。

 と言われて「はい」と納得できる書き手がいるであろうか。
 ネット上で無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。私は「私の読者」に用があるのであって、「私の本の購入者」に用があるわけではない。
 著作権についての議論ではどうもそこのところが混乱しているような気がする。
 もの書く人間は「購入者」に用があるのか、「読者」に用があるのか。
 私は「読者」に用がある。



「街場の読書論」内田樹、より
第五章・著作権棚(読書と書籍購入者 / 太田出版・p312)


内田さんの「街場の〜」シリーズ。著作権についての章は特に大きくうなずけた。
自分の書いたものや作ったものが、誰か自分以外の面識ない人に気にいられそれが売れてゆく、という事は確かにうれしい。作るモチベーションのひとつ、あるいは大きな理由になるだろうと思う。求める人の数が増えていくほどにきっと手ごたえも感じてくる。売り上げた数字が作品へのひとつの評価となり、作者の前にわかりやすい指標として示される。数字というものは確かに、極めて冷静なのだ。ただし数ある一面でしかない。
こうして(商品としての)作品の売り買いが常態化し、半ばルーティン・ワークとなって、作者とファンとの間に存在する -作品を媒介にした一種のレスポンス- に摩擦がなくなりはじめると、おそらく作者側に作る動機の変化が訪れるのだろう。はじめたころはただ好きで無心になって作っていたりしたはずが、いつのまにかお金を得るための手段として変わり、その人の意識も「これがプロなのだ」というふうに変わってくる。「金銭的収入のあるものが善で、ないものは悪。」そういった思いこみが強くなり気持ちを支配しはじめたときに、その人の生み出すものにはたして魅力が存在するんだろうか? ユトリロやベルナール・ビュフェの描いた絵の遍歴をみてみると、もうだいたいの答えが出ているようにも思えるし、処女作に作家のすべてが詰まっているというのも、おおよそこのあたりのことを突いているのだろうな(はじめの一作目は自分の書きたいものを言葉にしていたが、職業として成り立つとただ「言葉の羅列を生産する」ようになり、段々とつまらなくなっていく)。何のために自分がそれをやっているのか、忘れないようにしなければ、ひたすら金を無心する物乞いと同じになってしまうんじゃないかと。

売れさえすればいいや、という風になってしまったら、中国人の爆買いや、年明けにも問題になった転売ヤーたちのそれとなんら変わらないだろう。著作物が商品のひとつとして扱われているのであれば、これらのことは、ひとつ気に留めておく必要があるように思う。


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2015年12月31日

「魔の山」トーマス・マン、より(小説の中のお酒 Vol.1)



二人は彼女にグリュオー・ラローズを一瓶注文したが、ハンス・カストルプはその温度をもっとあたためてくるようにと、彼女をもう一度走らせた。食事はすばらしかった。アスパラガスのスープ、つめものをしたトマト、さまざまな添えものをつけた焼き肉、とくに入念につくられたあまいもの、チーズ一切れ、そして、果物であった。


「魔の山(上)」トーマス・マン(関泰祐、望月市恵・訳)、より
第一章 レストランで(岩波文庫 / p33)
"Der Zauberberg (The Magic Mountain)" by Thomas Mann (1924)



小説の中にお酒はいろいろと登場するけれども、赤ワインだったりウィスキーだったり、たいていは総称としての(ざっくりとした)呼び方で出てくることが多い。細かな銘柄にまで触れるのはけっこう珍しく(さすがにヴィンテージにまで触れるものは滅多にない)、上文にあるようにディティールを限定的に表す場合は、ミステリー小説などでなにか事件の鍵となるとき等に限られるものだ。「魔の山」にミステリー小説の要素は全くないが、舞台となるサナトリウムの中では食べ物を描くシーンがけっこう多く、そしてまたその描写の仕方がやたら美味しそうで凝っている。読む方としては、それらの情報が仔細なほどに、より物語へのリアリティを感じてしまう。「グリュオー・ラローズ」は、ワイン好きなら知った銘柄だけれども、この名が登場するというのはけっこう渋いセレクトで、マンはこのワインが好きだったのか、それとも思い出があるのか、あるいは単に観察眼が鋭いだけなのかもしれないが、読んでいるうちにこうやってシャトーの名前が出てくると思わずオオーと反応してしまう。グリュオー・ラローズはボルドーのサン・ジュリアン地区の有名シャトーのひとつで、レオヴィル=ラス・カーズやデュクリュ・ボーカイユと肩を並べるワイン。僕はラス・カーズとボーカイユ(それもなんと1988!)、あとブラネール・デュクリュしか飲んだことがないがサン・ジュリアンのワインは特徴として、葉巻っぽい、くゆるスモーキーさがあり、エレガントなんだけれどもけっこうハードボイルドな味わいがある。ボルドーなら左岸ではポヤックかサン・ジュリアン、右岸だとサンテミリオン、ポムロールのものが個人的には好みだったり、他の小説で出てこないかな。

まぁ、この小説でひとつ気がかりなのは、物語の舞台になっているサナトリウムがダボス(スイス)であること。NWO(新世界秩序)のあのダボス会議で知られる街。世界金融の意志決定の場、つまり総本山、それがえっ! 魔の山、とかは考えすぎ?

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2015年12月07日

「アサイラム・ピース」アンナ・カヴァン、より



冬の最も厳しい時期よりもはるかに気を滅入らせる、太陽のない夏の一日は、どこもかしこも重く淀んだ空気に包まれ、全世界が、つぶれた空き缶と魚のウロコと腐ったキャベツの芯でいっぱいのゴミバケツになってしまったとしか思えなかった。



「アサイラム・ピース」アンナ・カヴァン(山田和子・訳)より
"不愉快な警告"(国書刊行会 /p101)
'An Unpleasant Reminder' in "Asylum Piece and Other Stories" by Anna Kavan, 1940


Books-AnnaKavan-AsylumPiece.jpg
http://tagong-boy.tumblr.com/post/133394121241/anna-kavan-asylum-piece
画像) 日本版・国書刊行会 / アメリカの初版本ハードカバー / イギリス版(?)ペーパーバック

今年2015年春ごろ、ちくま文庫から出た「氷」をきっかけに、ここしばらくはアンナ・カヴァンにハマっていた。短篇集「アサイラム・ピース」は、幻想的で生理感情に訴える描写が印象的で、村上龍「海の向こうで戦争が始まる」とどこか通じるところがあり面白かった。本名はヘレン・エミリー・ウッズ(Helen Emily Woods)、1901年、裕福なイギリス人家族のもと南仏のカンヌで生まれる。19歳で結婚、そして夫とともにビルマへと移り住む。1929年から1937年までの間に、夫ドナルド・ファーガソンの名前を合わせ使った「ヘレン・ファーガソン」というペンネームで6作品を発表したが、1940年に発表したこの「アサイラム・ピース」からアンナ・カヴァンというペンネームを使うようになった。と、同じ人だけども(意識が変わり)思考の中身が入れ替わって再デビュー作を書くあたりに興味がゆく。オーウェルにしろサキ、J.G.バラードなど、イギリスの作家は、帝国主義下の植民地へ赴任-あるいは育ち-したことが小説家としてひとつの転機になる例がわりとある。それも空想的な傾向のある作家として。安部公房も満州引き上げ組だったし、自分が社会集団のどこに帰属するのかと言ったことは、幼少期、若年期にとってアイデンティティーを形成する上で相当大事なことなのだろうな。カヴァンの作品には、自分という存在を探しさ迷うといった背景がどうも滲んでいる。

上画像は「アサイラム・ピース」の表紙いくつか。本の場合、通常はタイトルが大きく扱われ、一番目立つようにデザイン・レイアウトされるものだけど、上画像右側のカバー(HarperCollins publishers)は作家名の方がタイトルよりも大きく、珍しい。多分出版社の企画もの(たとえば20世紀の女性作家シリーズの代表作をカテゴライズしたもの等)のフォーマットなのかな? と思わせる。あるいは1974年に出版されたものだったので、時代的にロックのレコード・ジャケットを意識した風にも見える(レコジャケはほとんどの場合、題名よりもミュージシャン名が大きく扱われる。「ZZZ」という物語を書いた誰々、誰々の作曲した「ZZZ」、といったような属性で、"タイトル"で売る出版界と、"ミュージシャン"の名前で売る音楽業界の違いなんだろうか)。読者層をイメージしながら、その時代にあった表紙を思い描く編集者のセンスが、やっぱり出てくるものだろうから10年単位くらいで見る(本やレコードの)ヴィジュアルの変遷などは少し興味あるところ。カヴァンは自身が変化したことをペンネームで表したが、巷に出回っている沢山の本やレコードのパッケージにもそういう要素が多少出てくるのかな、とか。フォントや組版、紙質等、細かな仕様の違いはあれど、中のコンテンツはどれも同じはずなんだ。


Past Logs / Quotes - 海外文学・イギリス /



 昔、ある人に言われたことがある。魂の成長のためには、毎日、いやなことを二つ実行しなさい……。誰に言われたかは忘れたが、きっと尊敬できる人だったのだと思う。だから、私はその教えを几帳面に守りつづけ、朝には必ず起床し、夜には必ず就寝してきた。


「月と六ペンス」モーム(土屋政雄・訳)、より
(光文社古典新訳文庫 / p18)






戦後の社会保障体制下、国家からミルクとジュースをたっぷり支給され、それから両親たちがおっかなびっくり踏みこんだ無邪気な繁栄によって育てられ、青年に達したのは、完全雇用、大学新設、明るい色のペーパーバック、ロック・アンド・ロールの全盛、そして理想実現の時代だった。のぼってきた梯子がくずおれたとき、国家が援助の乳房をしまいこんでうるさいママになったときには、彼らはすでに安全を確保し、群れをなして、さて落ち着いていろいろなものを形成しはじめた ー 趣味や意見や財産を。


「アムステルダム」イアン・マキューアン(小山太一訳)、より
(新潮文庫 / p19)
"Amsterdam" Ian McEwan


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2015年12月04日

A screaming comes across the sky



"A screaming comes across the sky"


"Gravity's Rainbow" by Thomas Pynchon

100 Best First Lines from Novels
http://americanbookreview.org/100bestlines.asp

やっぱ、この一行カッコイイな。すごく日本語に訳しずらいので、新訳、旧訳ともに色々といわれているが、確かに、この英文から受ける印象を日本語に置き換えるのは難しいだろうと思う。「A screaming comes across the sky」でユーチューブ検索するとビル・ラズウェルがこの名前で曲をつくっていたり、クラシックの作曲家の曲があったり関連の面白いものがいろいろ見つかった。J-POPでも小説の一文みたいな長いタイトルの曲もけっこうあるので、特に歌詞があるものは言葉の表現から影響受けてるんだろうな。上リンクは何かの拍子で見つけた「小説の書き出し名文、ベスト100」のページ。人のつくった「なんとかベスト〜」ってけっこう見るの楽しくつい見入ってしまう。

1.「白鯨」メルヴィル
2.「高慢と偏見」ジェーン・オースティン
3.「重力の虹」トマス・ピンチョン
4.「百年の孤独」ガルシア・マルケス
5.「ロリータ」ナボコフ

ざっとみるといわゆる名著のタイトルが並んでいる(なぜか5冊とも持っていた)個人的には小説の最初の一文は、さほど重要ではないと思うけれど、いいものはやっぱり読むきっかけになることが増えるだろうから、気にするべきなのかな。100タイトルだと収まらないし、選者の傾向なんかもあるだろうから、漏れているものも多く、あれないこれない、というのもやっぱりあったりする。ピンチョン「重力の虹」やジョイス「フィネガンズ・ウェイク」が上位に入っているあたりに、なんとなくこのセレクトの方向性があるのかな。

下の二つは入っててほしかった(エリオットは詩だからジャンル違いだろうけど、コレは名文カッコイイ)、というより入っているべきだろうけど。

"Last night I dreamt I went to Manderley again"

「レベッカ」デュ・モーリア(Rebecca - Daphne du Maurier, 1938)


"April is the cruellest month"

「荒地」T・S・エリオット(The Waste Land - T.S. Eliot, 1922)
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2015年11月14日

「アメリカのデモクラシー」トクヴィル、より




 ヨーロッパでは、精神の焦燥、行き過ぎた物欲、極端な独立心は社会にとって大きな危険であると考えつけている。



「アメリカのデモクラシー」トクヴィル(松本礼二・訳)、より
第一巻(下)・第九章 合衆国で民主的共和政の維持に役立っている主な原因について
(岩波文庫 / p205)
"De la démocratie en Amérique" by Alexis de Tocqueville (1835, 1840)



仏パリで同時攻撃発生、銃撃や爆発で60人超が死亡
http://jp.reuters.com/article/2015/11/14/france-shooting-idJPKCN0T22NW20151114
転移するように中東から欧州へテロが浸食していっているのか、世界各地で起こっている負の連鎖がなにかひとつのことに集約されつつあるような。

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