2014年06月26日

クアラルンプールからジョホールバル、そしてシンガポールへ


「Sketches of "Kuala Lumpur" -Malaysia, 2011-」からのつづき
http://tavola-world.seesaa.net/article/389869584.html

■ バスターミナルからチャイナタウンへ
バターワスでバスに乗りクアラルンプールへと向かった。シンガポールから成田へのフライトが二日後に迫り、帰国に向けた移動の日々だった。約4時間を走り、クアラルンプールに到着する。終点は「TBS」と呼ばれる、クアラルンプール郊外に新しくできた長距離用のバスターミナルだった(この時期-2011はじめ-のクアラルンプールでは、古いバスターミナルの改修や、新しい場所への移転など、わりと大規模な交通インフラ整備をあちこちで行っていた)。バスを降りたあと、敷地隣にある鉄道駅「Bandar Tasik Seltan」へ移動した。そこで、高架鉄道LRTに乗り「プラザ・ラキャ」を目指す。チャイナタウンの最寄り駅となる場所だ。運賃は1.7MYR(日本円換算で50円ほど)。僕は、旅の勲章とでも言うべきか、泥まみれになったバックパックを担いでプラットホームに立ち、列車がやってくるのを待った。まもなくして銀色に光る列車がすべり込んできた。ステンレス地の車体にカラーリングが部分的に施され、モダンなデザインの車両だった。無機的にドアが開き、乗客たちは機械的に乗り込んだ。それは半永久的に繰り返すひとつの運動のように見えた。四角い箱から人が吐き出され、また吸い込まれてゆく。僕はその流れを見届けたあと、一番最後に乗り込んだ。そしてドアが閉まり、列車は動き出した。扉付近に立ち、もたれながら窓の外を見る。動く景色。その瞬間、まるで自分が異分子になったかのような違和感を覚えた。車両の中から窓越しに見る外の世界は、さっき自分が立っていた場所とは全く違うように見えている。インドやバングラデシュにいたときにも何度となく鉄道に乗ってはいたが、車窓景をこんなふうに感じることはなかった。旅の行程で、これほどまでに見えてくる景色が違ってくるのは初めてだった。旅のはじまりは、その土地に溶け込もうとする気持ちが強くある。いち早く体を馴らしていこうと、全ての感覚をその場所に同化させようとする。しかし旅も終わりに近づくと、自分自身が異物としてその土地から排出されていくような居心地の悪さが、知らないうちに心の中に沸いてくる。自分がもうまもなく日常生活に戻ろうとしている、そんなサインが体中を巡っているようだった。近代的なシステムによって運行され、規則正しく"現実"のレールを走る鉄の箱は、大きなマレーシア経済を構成する"一器官"であり、僕は非日常の世界から流れてきた選別不能の一細胞として認識され、摘出されていくようだった。ガタゴトと揺れる車内は静か。"耳"のやり場に困り、"目"を澄ませる。もたれたステンレス製扉の傷やへこみに目がいってしまう。吊り広告やそのたぐいのものがないせいで、車内が広々と感じる。約15分ほどで「プラザ・ラキャ」に着いた。時刻は15時少し前。

駅を出ると出口前の広場で、ひとりの青年が黄緑色のチラシを片手に宿の呼び込みをしていた。アズーリ色のTシャツを着た学生風の風貌。せっかくなので一枚もらう。青年曰く、シングル・ルーム、トイレ&シャワーは共用で一泊20MYRとのこと。僕は、50MYRほどの予算でこれから宿を探そうとしていたところだったので、彼の言った宿代は文句のない値段だった。また、日本人も何人か泊まっているよ、とつけ加え、さらに、チェックアウト・タイムが14時だから、もしかすると今は空きが出ているかもしれないと言う。その一言で、まずはここから当たってみることにした。チャイナタウンにある安宿は競争率が高く、いいなと思ったところほど早々と埋まってしまう。また、そういうところに限って長期宿泊者が滞在していて、なかなか空きがない。そのおかげで、以前ここに来たときは宿探しのはしごをする羽目になって、一部屋確保するのにえらく時間がかかった。もし、たった今知ったばかりのこの宿が空いていればめっけものだ。ここクアラルンプールに到着する前から、宿探しで数軒まわることを十分覚悟していたし、宿泊予算も多少高くなっても仕方のないことだと思っていたので、もうすでにこの宿に対する期待が高くなっていた。なによりも、荷物で膨れたたバックパックを持つ背中が汗を流しながらも、一番荷解きを望んでいた。

クアラルンプールの滞在はわずか一日にすぎないのだが、金銭的なやりくりの問題が少しあった。宿代と食費、翌日の移動費を差し引くと、財布にはマレーシア・リンギットがちょうど使いきるくらいか、少し足りないぐらいしか残ってない。所持金はそんな状態だった。旅の残り予算をすべて集めたとしても、ドルとバーツがあといくらかあるだけで、決して心強いものでもない。もう財布の底がくっきりと見えていた。USドルは、東南アジアでも一番物価の高いシンガポールできっと必要になるだろうからとっておきたい。チャイナタウンでの宿代が安くなるほど、僕の自由に使えるお金が増える。頭の中では、すでに算段が終わっていて、もうすっかりここへ泊まる気になっていた。

青年はチラシにある地図を指さし「場所はここなんだけどわかるかな?」と言い、そのあと身体を反転し方角を指し示した。「あと、そうだ、レセプションが二階にあって、建物の中に入るには暗証番号がいるから、番号を言っておくよ」と四桁の数字を言った。僕はその数字をメモしながら、あれ? なんかこれまでと調子が違うなと内心思った。てっきり、この呼び込みの青年とインドによくいる宿ガイドを同種だろうとばかり思っていたので、彼のあっさりとした対応は予想外だった。このあと彼が自分の紹介する宿に一緒に付いてきて、最後に紹介料をわずかばかり要求する、そんな魂胆があるのだろうと、会話をしながらもやや警戒を忘れずにいた。何をするにも人との摩擦が生じたインドと比べると、タイやマレーシアではわりとスムーズにことが運ぶ。少し拍子抜けしつつも、快適に旅ができる嬉しさも同時に感じる。

■ ゲストハウスにて
チラシにある地図を頼りにゲストハウスへ向かった。場所はチャイナタウンのややはずれにある。サルタン通り(Jalan Saltan)を歩いていくとペタリン通り(Petaling Street)にぶつかり、ペタリン通りを折れた少し先。誰に道をたずねるでもなく目的のゲストハウスにたどり着いた。余裕のよっちゃん。入り口はうっすらとスモークのかかったガラス扉で、その横の壁に小さなテンキーが埋め込まれていた。暗証番号を入力すると、カチリと小さな音を立ててロックの外れる音がした。L字の取っ手を回し引きドアを開け二階のレセプションへのぼる。カウンター奥にはやや小太りな女の子が座っていた。シングル部屋があるかを尋ねると、その女の子は宿帳をぱらぱらとめくり部屋の埋まり具合を確認した。先の青年が言っていたように、ちょうどチェックアウト済になった部屋がひとつだけ空いていた。部屋を軽く見せてもらったあとチェックイン。ベッドと小さな扇風機があるだけの狭い部屋だったが、一晩眠るだけだからそれで十分だった。床板が薄いのか、それともカーペットの接着が弱いのかはわからないが、歩きづらい廊下で、今にも足が抜け落ちそうだった。一度フロントに戻り、入り口で脱ぎ捨てていたスニーカーを宿泊者用シューズロッカーにしまう。そして、サンダルにはきかえた。この宿は各フロアーを移動する場合はサンダルを履く決まりがあった。林間学校や合宿を思い出させる懐かしさ。

部屋で荷を解いたあと、フロント・ロビーに行きソファーに座り一息いれた。カウンター隣にあるパソコンでインターネットをしていた男の子とさっそく話込む。バングラデシュとインドでは、ほとんど日本語を話す機会がなかったせいで、母国語で会話できるという単純な嬉しさが真っ先にあった。これまで、これからの旅話、そして地震のことや日本のこと等。この数日、移動中に得られなかった、東北地方の地震情報を少し補った。そうこうしているうちに、ここに宿泊している日本人が五、六人ほど集まってきて、話の輪が広がった。東北の地震のことが気になって、自分だけのんきに旅を続けていいものかと悩む男の子。地震の直後に日本を出国し、これから(ずっと計画していた)半年間の長旅に出る男の子。来年からのマレーシア・ロングスティに向け下見に来ているおじさん。ボルネオ島でNGO活動をしている大学生、そして卒業旅行中の大学生などがいた。最年長のロングスティ・おじさんが、この宿に長く泊まっていて皆の話をとりまとめる役割になっていた。食いつくところ、流すところ、余韻を持たせるところと、皆がバラバラに話す内容を誰に片寄るでもなく切り分ける。その振る舞いは小さな楽団の指揮者のようだった。Oさんというこのおじさん、謙虚で人当たりがよくひょうひょうとしているのだが、ものごとの核心を見分ける能力がとても高い。自分の足でかせいだクアラルンプール情報をみなに伝授しながらも新しいネタを吸い上げ、常にUPDATEしているようだった。
夕食はOさんの案内で少し離れた繁華街へ繰り出し現地で解散。大学生らの夜遊び隊と宿戻り組に分かれる。僕はすでに食材買い物モードに入っていたため、中華街に戻り、各通りをくまなく見て回る。所持金がわずかしか残っていないので、即決はせず、おおよそ見終えてから欲しいもの順に買うようにした。こういうときに限って、最後の最後ですごく魅力的なものが現れたりするから、三、四周は回った。名残惜しい気持ちも少しは入っていた。最後は「UO Superstore」という大きなスーパーマーケットで、涼みながら時間をつぶす。
宿に戻ると何人かがフロント・ロビーで談笑していた。深夜になると、最上階の娯楽室に誰ともなく集まり、備え付けのテレビで映画をみたり今日一日の報告をおのおのが話しはじめる。Oさんも少し遅れてやってきて、開口一番「マレーシアに"トンカリ"っていう精力剤があるみたいなんやけど、誰か詳しいこと知ってる? あったら沢山買い込みたいんやけど、日本に持って帰れるのかな? 前に泊まっていたゲストハウスで耳にして、ちょっと気になっててな」なんて話をはじめたり、「ブルネイではイスラム教徒になると、外人でもひと月に2,000MYRほどのお金が支給されるみたいやけど、ほんまやろか? イスラム教徒ってどうやったらなれるんか知ってる?」といった、真偽不明の話を次々に話す。広がる話もあれば、茶々を入れられ笑いに変わったり、楽しい会話が途切れることもなく続いた。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
長い旅をしたことのある人ならよく覚えているだろう。あの旅の終わりの安堵と、出発のためのかすかな興奮の入り混ったざわめき、ぼくはそんなざわめきの中で目を醒した。
「印度放浪」藤原新也より / 朝日文芸文庫(p102)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

■ クアラルンプール最後の朝
朝の6時半、目覚まし時計の音で目が覚めた。ピピッと鳴る電子音は、機械的で常に決まった音階をしているはずだが、その日の体調によって明るく聞こえたり悲しく聞こえたりするから不思議だ。この日はやけに素っ気ない音で鳴っていた。もしこれが陽気で楽しげな音に聞こえていたなら、ベッドの中でもう少しその音色を楽しんでいたのかもしれない。しかし、この日の僕は、手早く腕を伸ばしアラーム音を止め、起きなければならなかった。早朝のGH、まだ多くの宿泊者は眠りについている時間帯。建物全体が熟睡しているかのようで、廊下からも物音はしない。僕の寝ている静かな部屋の中では、小さな扇風機が青いプラスティックの羽をがたがたと震わせ、その音だけが響いてくる。目を閉じた状態でいると、建て付けの悪い家の中で暴風雨に耐えているような錯覚になる。壁端に取り付けられたこの小型扇風機は、ずいぶんと使い込まれたせいか、今にも壊れそうな見てくれで、回転軸は中心からずれ、ぎこちない首振りをするばかり。それは不整脈のリズムと同じで、突然止まったかと思えば、また激しく動き出す、全く予想のつかない動作。空気をただ無駄にかき回しているだけだった。いつ止まってしまうんだろうか? と見ている方がハラハラしてしまう。そんなわけで、部屋の空気はうまく対流せず、かろうじて室温を現状に保つのが精一杯だった。それでも、故障せず、ひと晩中回り続けてくれたことは十分にありがたかった。クアラルンプールは、北緯3度8分にあり、赤道のすぐ上に位置する。そのため北半球が冬の季節だとしても、さほど暑さが変わるわけでもない。三月のはじめ、この時期の気温は一日を通し30度近くで推移している。夜になっても、太陽の直射光がないだけで、暑さは昼間とさほど変わりない。室内は、昼間の熱気をため込み蓄積しているかのようで、ベッドのシーツまでもが何やら熱を帯びていた。むしろ夜間の方が、暑く感じるほどだった。部屋は風通しもなく、またエアコン冷房もないのでじっとしているだけでじんわりと肌が焼かれるようで始末が悪い。ベッドに身を沈め身体を横にしたところで何が変わるわけでもなかった。浅瀬に迷い込んだイルカのように、悪あがきにも似たな寝返りを一晩中繰り返すだけだった。おかげで、昨夜の僕はうまく寝つけなかった。うとうとと浅い眠りのまま朝を迎えた。疲労の抜けないかったるさを感じながらも、ベッドから起きあがる。粘りのある汗が体中にまとわりついているようで、身体が重く感じられる。この日は約320km離れたシンガポールへ移動しなければならず、そうのんびりとはしていられなかった。きっと半日がかりの行程でこの日を終えることになるだろう。なるべく朝の早い時間に、クアラルンプールを発ち、明るいうちにシンガポール入りするのが一番の選択だった。

■ マレーシアでの最後の朝食
汗の抜けきった体を起こし、洗顔と着替え、軽い身支度をして宿を出る。フロントでは早起きのOさんが、宿の女の子にマレー語を教わっていた。外はまだ暗い。J字のカーブをしたサルタン通りでは、のみの市を細々とやっていた。まだ、街は静か。ほとんどの店はシャッターを下ろしていたけれど、チャイナタウンの外周にあたるトゥン・タン・チェン・ロック通り(Jalan Tun Tan Cheng Lock)まで出ると、数軒の食堂が開いていた。早朝のわりに客がいる。これから会社に向かうサラリーマン風の男たち、そして通学前の学生たちがテーブルに座っている。彼らは一定の間隔を守りながらテーブルにつき、食事を口に運んでいた。食事の合間に、片手にした新聞やモバイルフォンをのぞき見る。都市特有の時間を刻む姿は、日本の街でも見慣れた風景。これは、どこの国でも同じなのかもしれない。ライスにカレー、そして魚のフライをよそい、空いている席についた。この店はセルフサービスのスタイルで、会計は自己申告制。6MYR。
静かに食事をしていると、店のひとが「あんた日本人かい? (ツナミで)家族や友達は大丈夫なのか?」と心配そうにたずねてきた。「たぶん、ね」と軽くほほえむ。

僕がバンコクを発ちマレー半島を下っている途中で、日本の東北地方を大地震と津波が襲った。タイのプラチュアプ・キリカーンにいたときに起きた出来事だった。タイのニュース番組はトップ・ニュースとして、この大災害を大きく伝えていた。陸地を次々とのみこんでいくかのような暴力的で恐ろしい津波の映像を繰り返し流していた。アナウンサーはタイ語でしゃべっているので、どんなことを言っているのか全くわからないが、「Tsu-Na-Mi」という単語だけはかろうじて聞き取れた。れっきとした日本語なのに、外国の報道番組の中からこの言葉が飛び出してくると、まるで違った言葉のような響きがある。「Devil」や「Saturn」と同質の、恐怖を伴ったいやな響きを含んでいる風に聞こえた。そして、何度も何度も流される巨大な津波の映像を見るうちに、まるで日本全土が海にのまれて沈んでいくかのように思えてきた。かつて世界で一、二を競う経済大国だった日本という国が、新興国の成長によって過去の栄華を失い、今度は世界経済の海に沈みつつある、その象徴としても見える映像だった。振り返ってみると、アメリカの没落は911のワールド・トレード・センターの崩壊で、全世界に告知されたようなものだった。あれは意図的だったんだろうか?

プラチュアプからチュンポン、ハジャイ、バタワース、ぺナン島、そしてクアラルンプール。マレー半島を移動する間は、常にこのニュースのことが頭の中にあり、また行く先々の人々にとっても最大の関心ごとだった。テレビニュースや新聞で次々と報道される日本の被災地の映像や写真を見ると、2004年に起きたスマトラ沖大地震のことが真っ先に思い浮かぶのだろう。マレー半島のすぐ西隣にスマトラ島が浮かんでいるのだから、あのときの地震はとても身近に起こった恐ろしい出来事だったはず。ここの人たちは、まるで自分たちの同胞が被害にあったような顔つきで、日本人である僕をみて気遣うのだった。
そんな場所へ明後日に戻ることになっている。いつもなら、旅の疲労から解放される安堵感のようなものが静かに湧き出てくるのだけれども、今回ばかりは大震災の直後だけあって、どうも帰路は気乗りがしない。そのための腹ごしらえ、といってもどうも冴えないものがあり、ただ皿の上にあるものを口に運んでいるだけだった。味わいがどうだかと感じるような気分ではなかった。

■ 思い出の荷造り
宿にもどり荷物をまとめる。荷造りをするのは、あともう一回で終わりだ。移動のたびに荷をまとめ、宿に着くとそれを解く、そして着古した衣類をすぐに洗い窓に吊し乾かす。一ヶ月半ちかく、こんなことの繰り返しだったが、日本に戻ればもうその必要はなくなる。ほこりにまみれ、すっかりくすんでしまったバックパックをじっと見つめていると、これまでの旅が次々と思いかえってきた。クアラルンプールからバングラデシュのダッカへと飛び立った日が、まるで昨日のことのように思える。今、旅の終わり、ふりだしの場所へ戻ってきているのだ。大きなぬいぐるみを抱えるようにして、バックパックをそのまま壁にたてかけた。こぼれ出た旅の思い出に少し耽ったあと、そうもしてられないのだと気づき、荷物を背負い部屋を出た。旅先でこまごまと買いこんだものがぎっしり詰まっているので、ずしりと重くなっている。それ以上のものも詰まっているように思えた。8時すぎにチェックアウト。

■ チャイナタウンからバスターミナルへ
クアラルンプールは大都市なので、各方面ごとにバス・ターミナルの場所が異なっている。おまけにこのときは、古いバスターミナルの拡張工事や何やらで、臨時の仮設バスターミナルが新たな場所に出来ていたりして、多少ややこしいものがあった。僕は宿を出る前に、そのことを思い出し、フロントの人にジョホールバル行きのバスが出ているバス・ターミナルがどこかを尋ねた。新しくできた「Terminal Bersepadu Selatan」に行けばいいよと教えてくれた。最寄りは「Bandar Tasik Seltan」駅にあるとのことだった。聞き覚えがある名前だと思ったら、偶然にも、一昨日バタワースからクアラルンプールにやってきたときに降りたバスターミナルだった。ならばもう行き方はわかっている。そして、最寄りのLRT「プラザ・ラキャ」駅へと向かった。

■ バスターミナル、そしてジョホールバルへ
LRTに乗り、一度乗り換えたあと「Bandar Tasik Seltan」駅に到着した。時刻は9時前。バスターミナルへ足を向ける。出来たばかりのバスターミナル(略称・TBS)は、まるで空港に来たかと思うようようなモダンな空間だった。前回はここを素通りしただけなので、改めてじっくりと見渡してみる。やはりどう見ても、地方都市の空港より空港らしい空間だ。チケットカウンターに行き、ジョホールバル(ラーキン・バスターミナル)行きのチケットを購入する。タッチパネル式の販売機が数台あり、行き先やバス会社を選べる仕組みになっている。操作の方法がわからないので、近くにいた係員に手順を教えてもらいつつ、目的のバスチケットを発券した。31MYR。驚いたのは、購入の際にパスポートの提示を求められたこと。そこまで空港仕様にしなくてもいいんじゃないの? と内心思う。バスの移動で身分証(ID)が必要だなんて、何か監視されているようであまりいい気分はしない。取り出し口から出てきたチケットは厚手の紙に機械印字されていて、一見きれいには見えるが味気ないものだった。

R2N-KL-TBS-R0130397.jpg
クアラルンプールに出来た新しい大型バスターミナル「Terminal Bersepadu Selatan(略称・TBS)」のバス搭乗口。係員の立ち振る舞いが、キマっている。

R2N-KL-TBS-R0130395.jpg
「Terminal Bersepadu Selatan」に発着する便名を表示した電光掲示板。ほとんど空港のような仕様。

R2N-KL-TBS-R0130394a.jpg

バスの乗り場は、階下の「LEBEL 2」フロアにある。下階へと降りるためエスカレーターのある場所に足を向けた。するとそこには女性の係員がいて、チケットと本人確認のパスポートを提示を求められる。一階下に移動するだけなのに、なぜこれほどにも厳重なチェックが必要なんだろう? と半分腹立たしさも混じりあきれてしまった。エスカレーターを降りると総合病院の待合室のような空間があった。ピカピカ光る床に、まだ真新しいシートの椅子が並んでいる。午前の時間帯だからだろか、乗客らしい乗客はほとんどなく、どこに座ろうかと少し場所選びにためらうも、ひとまず適当なところに腰を下ろした。僕の乗るジョホールバル行きバスの搭乗口は「ゲート2」。各ゲート付近にはカウンターがあり、係員が数名が立っている。バスの予定発車時刻まではあと45分はある。冷房が効いていて、ただ座っているだけだと少し肌寒いくらいだ。このがらんとした待合室で時間をつぶすにはあまりにも退屈だが、かといってどこか他にヒマをつぶせる場所があるのかはわからない。きっと、フロアをまたいで移動しようとすると、またいちいちパスポートのチェックを求められるのだろうから、動き回らないことにした。バックパックからこれまでにつけていた旅のノートを取りだし、昨夜からの分をつける。バスが来るまでの時間をこれで持たせよう。ノートは、あと四ページの余白ページを残し、ちょうど使い切るところだった。バスの半券やらホテルの名刺などを懐かしく眺めながら一ページ、一ページを遡ってめくり返した。そうこうしているうちに、時間はあっと言う間に経ちバスの予定時刻に近づいた。カウンター近くにいた誘導員たちのレシーバーが騒がしく鳴りはじめ、間もなくして一台のバスがやってきた。ガラス越しに車体の影が止まるのが見えた。館内の冷房と外気の温度差でガラス全面に霜が浮いている。発車予定時刻の五分前。搭乗口のドアが開き、バスが現れる。緑の車体には黄色の会社ロゴが入り、赤いハイビスカスの絵がワンポイントで描かれていた。荷物を積み込んで車内に乗り込んだ。運転手は明るく陽気で、ハンドルにもたれかかりあくびをしながら歌っている。十分ほどして静かに扉が閉まりバスが動き始めた。ジョホールバルに向けて。

このときはまだ、チャンギ空港から成田空港へ飛ぶ便が次々と欠航していたことを全く知らずにいた。日本の東北地方で起きた大きな地震によって福島の原発がメルトダウン、爆発し、その放射能が関東圏にまで達しているといった影響が懸念されていた。各航空会社は乗客・乗員の安全を優先し、迅速かつ的確な判断を下していた。

R2N-KLtoJB-R0130400.jpg
クアラルンプールからジョーホールバル行きバスの車窓景。

R2N-JB-Border-R0122802.jpg
ジョホールバルのイミグレからシンガポール方面を眺める。


马来西亚(馬来西亜) | 吉隆坡 - 新山
マレーシア、クアラルンプールからジョホールバル
Kuala Lumpur to Johor Bahru, Malaysia
posted by J at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Malaysia - 2011 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月11日

Sketches of "Kuala Lumpur" -Malaysia, 2011-

R2N-ButterworthToKL-R0130368.jpg
Butterworth to Kuala Lumpur by Bus
緑いっぱいの車窓。

R2N-ButterworthToKL-R0130375.jpg
ひたすら、アブラヤシのプランテーションの風景が続く。

バスの車窓景はプランテーションの畑が果てしなく続き、その規模が大きさがよくわかる。走っている間の風景はほんと変化がなく、整然と植えられたアブラヤシの畑が次から次へと続くため、多少うんざりはしてくるが、緑溢れた景色はどこか優しい。マレーシアはアブラヤシ(パーム油の原料)の一大産地で、生産量はインドネシアに次ぎ世界第2位、シェアは全体の約4割を占めている。また、2012年度の輸出統計を見ると、パーム油関連製品はマレーシアの輸出品総額の約1割を稼いでいて、国の重要な産業になっている。アブラヤシで得る輸出金額計は約730億リンギット、日本円に換算すると2兆円ほどになる。桁が大きすぎて、これがどれくらいの金額なのかピンとこないけれど、目安として日本の飲料メーカー「サントリーHD」の売り上げ(2013年度)とおおよそ同じ位になる(日本の一飲料企業が一国の基幹産業の規模に匹敵しているという風にも見れる)。

そして、マレーシアにおけるアブラヤシの植栽面積は、2009年度調べで約4.7万平方キロメートルあり、伸び率から想像すると現在は5万平方キロメートルを軽く越えているだろう。日本の九州と四国とを合わせた面積が約5.5万平方キロメートル弱になるので、これよりもやや小さいと思えばイメージがつく。またマレーシアの国土面積が約33万平方キロメートルだから、マレーシア全土のだいたい15%ほどがこのアブラヤシの畑だという計算になる。単純化すると、国土の15%を使い、輸出総額の10%に相当する外貨収入を得ているのが、この国のアブラヤシ・プランテーション・ビジネスになるのだろうか。ちなみに日本の田んぼの耕地面積は、2011年度調べで2.5万平方キロメートル弱で、国土の約6%ほどを占めている。

さらに、これらプランテーションの話題になるときは、たいてい熱帯雨林の伐採とセットになっている。プランテーションの拡大は、熱帯雨林の減少・自然体系の変化と繋がるため、特に西側先進諸国からの批判が強く、当事国との摩擦を生んでいる。「人権」「環境」などを盾に話題を上手くすり替えるのは西側諸国の得意技で、ついつい誘導にかかってそっちへと目がいってしまうが、鵜呑みにできないことも多々ある。こういった抽象的な問題を大きく取り上げる場合は、たいていその背景にアジア諸国(や途上国など)の経済成長に対するけん制が目的だったりするので、できるだけ両方の視点から見るようにしたい。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
・各種統計は下記リンク先を参照
■ グローバルノート・アブラヤシの生産量 国別ランキング統計・推移
http://www.globalnote.jp/post-5718.html


■ JETRO・輸出統計(品目別)・マレーシア
http://www.jetro.go.jp/world/asia/my/stat_03/

■ 熱帯雨林の消失とアブラヤシ・プランテーション・松良俊明
http://kankyou.kyokyo-u.ac.jp/about/nen/19%2005%20matura.pdf


■ 総務省統計局: 統計データ・第7章 農林水産業
http://www.stat.go.jp/data/nihon/07.htm

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

R2N-ButterworthToKL-R0130372.jpg

■ バターワースからクアラルンプールへ
フェリーでペナン島からバターワースへと渡り、船着場のすぐそばにあるバスターミナルで、クアラルンプール行きのバスを探した。バスの呼び込みの男たちは人を見るなり「KL! KL!」と、声の大きさを競うかのように叫び、客の取りあいをしている。何だか懐かしい光景に遭遇した感があり、記憶をめぐらせると、学生時代によく行っていたコンサート、その会場前にいたダフ屋の姿と重なった。なるべく捕まらないように男たちの間をすり抜け、運賃の相場と待機中バスの車内の様子を見て回る。各社見比べるもさほど差はなかった。なので、一番早く発車するバス会社を選び、乗車券を買い求めた。運賃は32リンギット。係の男に50リンギット札を渡すと、15リンギットしか釣りをよこさない。「足りない!」と言って手の平を広げると、2リンギットが返ってきた。一瞬、自分の計算を間違えたかな? と手の平の硬貨を見つめるも、やっぱり一枚不足していることに気づく。「釣りは18リンギットだろ」と目を強め再度男をにらむと、しぶしぶ残りの1リンギットが返ってきた。まったく油断できない。旅のはじまりだと、こういったやり取りも楽しむこともできるが、あと数日で旅も終わる。しかも寒い季節の日本に戻るとなれば、自然と気持ちも暗く、自分自身にさほど余裕もなくっていて、勘弁してくれと思う。

乗客は定員の三分の一ほどでまばら。発車予定時間より30分遅れ、9時50分にバスは発車した。マレーシアの長距離バスは、座席が豪華ですごく快適だ。飛行機のビジネスクラス並みのリクライニングシートがわりと標準的に備わっている。身体をほぼ真横にまで倒せるので、とてもリラックスできる。往路、ジョホールバル、マラッカで乗ったバスも同じような仕様だった。車両以外でも、ターミナルなどの関連インフラを含めたバスの設備が、ここマレーシアでは他の東南アジアの国よりも発達しているように感じた(のちに、クアラルンプールに着いてよくわかった)。僕の乗ったバスは、右側が二列、左側が一列の三列シート、一人半ほどの横幅があり、背もたれも大きく広々深々としていた。バングラデシュやインドの恐ろしいバスに乗り慣れていただけに、マレーシアのバスはまるで天国のように思えた。

バターワースからクアラルンプールまでは約350km、南へ下る。車窓から見るマレーシアの景色は、プランテーションが果てしなく続き、緑が豊かだった。空の青さと雲のコントラストが共に映える。しかし、流れる車窓風景にはさほど心踊ることはなかった。二日後には、もう日本へと戻ってしまうせいだ。テレビのスポーツ中継で消化試合を見ているような空しさが、走るにつれ増してゆく。ただ試合をやっていればいいのと同じように、窓外の風景も何か見るものが存在してれば、それでいいのだ。13時20分に15分ほどの短い休憩をとり、少し走ると高層マンション群が見えはじめ、クアラルンプールの近郊を走っているのがわかる。そして、14時ごろ終点クアラルンプールへと到着した。

■ クアラルンプール着・TERMINAL BERSEPADU SELATAN
着いたのは、まだ完成したばかりの真新しいバスターミナルだった。建物や床は、まぶしいくらいにピカピカと輝いていた。新築特有の樹脂っぽい人工的な匂いがかすかに残っている。高い天井と吹き抜けロビー、そして最新のデジタル掲示板が無表情に点灯している。バスターミナルというよりも空港のロビーを思わせるモダンな空間だった。あとで、ここが出来たばかりの「TERMINAL BERSEPADU SELATAN(頭文字を取り"TBS"という名称で呼ばれている)」というバスターミナルだったことが分かったが、最初はいったいどこに到着したんだろう? と、えらく戸惑った。また、鉄道三路線が乗り入れするハブ・ステーション「バンダル・タシッ・スラタン駅(Bandar Tasik Selatan)」に隣接した便利な場所だということもあとあと知った。

乗客の大半だったマレーシア人は勝手がわかるためか、あっという間にどこかへ消えていなくなっていた。僕の前には二人の外国人が取り残されたようにぽつんと立っていた。ひとりは白人のバックパッカー、もうひとりは学生らしきネパール人。三者で視線のトライアングルを形成したあと、さてどうしよう? と一、二歩前に進み額を寄せた。三人とも市内の中心部に出たいのだが、アクセス方法がわからなかった。僕はバスターミナルに入る前に、鉄道駅と線路のようなものを走りながら見た記憶がしたので、ひとまずそこへ向かってみようということになった。一度建物の外へ出てみるとやはり線路が走っていた。郊外都市の駅そのままな広々とした敷地。少し先にプラットホームが見え、皆語るでもなくまっすぐそこへ向かった。「バンダル・タシッ・スラタン駅(Bandar Tasik Selatan)」という駅だった。これでもう市内への道がわかり、気持ちが軽くなる。切符売り場にある路線図を見て、チャイナタウン近くの駅を探す。「プラザ・ラキャ(Plaza Rakyat)」、7つ先の駅で降りればいい。運賃は1.7リンギット。白人のバックパッカーは方向が違うため、ここで分かれる。良い旅を。ネパール人学生は偶然にも行き先が同じだったので、もう少しだけ行動を共にすることになった。彼はとてもおとなしく、話しかけてもぽつりとしか返事が返ってこない、という典型的なネパール人だった。僕の後ろを少し離れて付いてくる。

R2N-Masjid-Jamek-R0122916a.jpg
マスジッド・ジャメ(Masjid Jamek)。このモスクを挟み込むようにして、二つの川が合流する。ゴンバック川がクラン川に合流し、西の方角に蛇行を続け最終的にはマラッカ海峡へと流れ込む。"クアラルンプール"は、マレー語で「泥が交わる場所」という意味があり、この合流地点はその語源にもなった象徴的な場所。モスクの周囲は「はじまり」というキーワードで、どこか「日本橋」と通じる匂いがある。

「クアラルンプール」という響きが昔からすごく好きだった。エチゾチックさと気高さが名前から漂っているようで、ちょっとした憧れがあり、一度訪れてみたい都市のひとつだった。なかなかその機会がなかったが、ようやくこの街に足を踏むことができた。クアラルンプールと聞くたびに、いつも、ガンダムに出てくるジオン軍の要塞「ア・バオア・クー」を連想してしまうので、近未来的な想像力も膨らんでくる。日本人の語感からすると、「クアラルン・プール」という言い方になってしまうが、「クアラ」と「ルンプール」はそれぞれ独立した単語。「クアラ(Kuala)」はマレー語で「河口、合流する」という意味があり、「ルンプール(Lumpur)」は「泥」、つなげるとクアラルンプールは「泥が合流する場所」という意味になるのだそう。僕はてっきり石囲みや城塞を意味する「Pur」からきているのだと思っていたので意外だった。金子光晴「マレー蘭印紀行」では、コーランプルと書かれていて、当時(1928-32年ごろ)と今とでは呼び方がずいぶん違うのだなと思った。この本は、満洲事変の前後にあたる時期のマレー半島の様子や、この地の天然資源を巡りイギリスと日本の資本がしのぎを削っている姿などが綿密に描かれていて、読むほどに奥深い。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
ヒンヅーは、イギリス政庁が奨励して旅費まで出して大量な出稼人を輸出しているが、労働法による賃銀最低額の規定や、衛生設備の註文など、条件がやかましいので、日本人ゴム園では敬遠しているところが多い。

「マレー蘭印紀行」金子光晴 "ペンゲラン"(中公文庫・p91)より
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

R2N-KL-Malaysia-R0122920.jpg
マスジッド・ジャメからチャイナ・タウンに向かう途中にある「Medan Pasar通り」。プラナカン様式の建物と近代的な高層ビルが混在していて、奇妙な景観だった。エキゾチックな雰囲気が街の中で顔を出す。タイとマレーシアの地方都市を巡ったあとにクアラルンプールへ訪れただけあって、大都会に来た! という印象。

R2N-KL-Malaysia-R0122921.jpg

R2N-KL-Malaysia-R0122939.jpg
チャイナタウンのはじにある花屋近くにて。盆栽発見。一瞬、近所の路地裏に戻ったような錯覚が。

R2N-KL-Malaysia-R0122956.jpg
at Jalan Hang Jebat in China Town
チャイナタウン、ハン・ジェバット通りに面した建物。古びた感がたまらなくいい。

クアラルンプールのチャイナ・タウンは、バンコクの中華街・ヤワラートやホーチミンのチョロンとはまた違った雰囲気があった。同じチャイナ・タウンでも国によって随分と地域差が現れるものなんだなと思った。クアラルンプールのものは、バンコクのカオサンに近いものがある。さすがにあそこのようなギラギラとしたところはないけれど、世界中からバックパッカーの集まる場所として共通する「何か」があった。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 支那人たちは、水亭の部落で米粉(ミーフン)を油炒りし、日用雑貨をあきない、珈琲(カツピー)店をひらき、白いぶかぶかしたももひきのなかへ、馬来の小銭を悉く皆おとし込む。彼らは、はるばる広州から、または福州から、瀛州(*1)から、この密林のおくまで金銭を搾出しにきた。彼らは、裸で稼ぎ、彼らはすべての慾望をおさえ、貯える。

「マレー蘭印紀行」金子光晴 "センブロン河"(中公文庫・p9)より

*1) えいしゅう
http://moji.tekkai.com/zoom/%E7%80%9B/page.html
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

马来西亚(馬来西亜) | 吉隆坡
マレーシア、クアラルンプール
Kuala Lumpur, Malaysia
posted by J at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Malaysia - 2011 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月25日

Sketches of "Pulau Pinang" -Malaysia, 2011-

R2N-Malaysia-R0130259a.jpg
■ Hat Yai to Butterworth (Thailand - Malaysia)
タイ南部の街ハジャイから国境(サダオ / ブキ・カユ・ヒタム)を越えマレーシアへ入国、バターワースへと向かった。距離にして約200km。宿泊していた「CATHAY GH.」の手配する車に乗っての移動。運賃300バーツ。10人乗りの白いワゴン。出発時には、欧州からのツーリスト数名とタイ人の学生、合わせて6名ほどだったが、途中数箇所で乗客をピックアップしてゆき、ハジャイの街を抜ける頃には満席になっていた。ハジャイからマレーシア国境の「ブキ・カユ・ヒタム」までは約1時間45分。国境での出国・入国手続きに30分ほどかかった。ここはわりと大きな国境なので往来が激しい。輸送トラックや自家用車が列をなしている。係員は次から次へとやってくる書類に目を通し、流れ作業のように仕事を進める。手際よく的確に、そして人の顔など見飽きたというような無表情な顔をして。
タイとマレーシアの時差は一時間あるので、時計の針を一時間分早める。たった、それだけのことで急に老け込んだ気分になってしまう。同乗者も皆、少しだけ、平等に齢をとり再び車に乗り込んだ。僕の時計は"日本時間"に近づきつつあり、旅の終わりが迫っていることを自分自身ひしひしと感じていた。ブキ・カユ・ヒタムからバターワースまでは約3時間の道のり。高速道路か大きな幹線道路かはわからないが、道路事情はすごくいい。その分、車窓景は単調であまり楽しめない。バターワースは鉄道駅と船着場(&バスターミナルも)が直結していて、面白い構造になっている。バターワースの対岸にペナン島が浮かんで見える。

R2N-PulauPinang-Malaysia-3195.jpg
■ Butterworth to Penag by Ferry
バターワースからペナン島へ。フェリーで約15分。運賃、1.20MYR。翌日の復路はなぜか無料だった。不思議な仕組みだ。島へ行くのには金がいるが、出て行くのはご自由にということかな? 船は15〜20分間隔で運航しているので、乗り遅れてもそれほど待つ必要もない。島へはフェリーのほかに、ペナン大橋(全長13.5km・世界で16番目に長い橋)を渡って行く方法もある。さらりと乾いた風が船上に吹く。鉄錆と潮風の入り混じった短いクルーズ。

●橋の一覧 (長さ順) -wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7_%28%E9%95%B7%E3%81%95%E9%A0%86%29

R2N-PulauPinang-Malaysia-3197.jpg
ペナン島行きフェリーの中で。ヘッドフォンで音楽を聴いていた少年を撮らしてもらう。音楽鑑賞の邪魔をされたんで、少し機嫌が悪かった。挑戦的な、生意気そうな、若さに満ちた目。マレー人というよりもインドネシアっぽい顔立ちだなと思った。

R2N-GeorgeTown-R0130294.jpg
■ 壁の横の植物群
無機的な壁や建物と野放図に伸びる植物たち。こういった対比のある光景がけっこう好きで、ついつい立ち止まってしまう。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130295.jpg

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130329a.jpg
■ スコール前の空
ペナン島のランドマークになっている「Komtar(コムタ)」というタワーがそびえ立っている。トウモロコシみたいな建物だ。港区における六本木ヒルズみたいな感じで、ジョージタウンにいて空を見上げると、たいていこのタワーが目に入ってくる。太陽が少し傾きはじめる頃、青空を隠すようにして灰色の雲が立ち込め、みるみるうちにあたりは暗くなった。大粒の雨が一気に降り落ちる。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130336.jpg
金子光晴の小説に出てきそうな建物。今旅の後半はマレー半島縦断が目的でもあったので、旅のともに「マレー蘭印紀行」の文庫を忍ばせていたのだけれども、結局読むことなく終った。チュンポンからシンガポールまでは、ほぼ一日おきに移動していたせいであわただしく、夜更けにゆっくりと読書をする気分にはなれなかった。
ジョージタウンには英の小説家、サマセット・モームなどの著名人が宿泊していた「イースタン&オリエンタル・ホテル」という有名なホテルがある、というのをあとから知った。しかも泊まっていた宿のすぐ近くだったとは。もう少し足をのばして見ておけばよかった。金子光晴とモームは19世紀末から20世紀にかけて、ほぼ同時代に生きた作家。この時代のマレー半島は、錫やゴムの生産・供給地として活況を呈していて、近隣諸国から多くの労働者が集まり、一大交通インフラになるマレー鉄道の敷設も行われていた。現在みる新興国の発展のような何か巨大なエネルギーが渦巻いていて、物書きをひきつける場所だったんだろうかと。壁を覆う古びたシミを見ていると、当時の人の気配や街の喧騒がここにしっかりと残っているようにも思える。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 波止場の屋外では太陽がぎらぎら照りつけていた。大通りの雑踏の中をトラックだのバスだの、自家用車だのハイヤーだの、あらゆる車がひっきりなしに行き交い、どの運転手も警笛をならし通しだった。人力車は人ごみの間をひょいひょいと縫うように軽い足取りで通過し、日雇い人夫(クーリー)たちは息を切らしながらもお互いに何かを叫びあい、重い荷をかつぐ人夫は、どいた、どいた、と叫びながら通行人の間をかき分けて行った。行商人たちは売物の名前を叫んでいた。
「モーム短篇選(上)」サマセット・モーム、行方昭夫編訳
"手紙"(岩波文庫・p72)より
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130318.jpg
スコールのあとは太陽が再び戻ってくる。夕方の甘い光。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130315.jpg

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130297.jpg
■ 美真香(Bee Chin Heong)/ 59 Lebuh Kimberly, 1010
汕頭街にあった仏具店? ピンク塗りの外装からはアメリカの50sの店を想像してしまう。店内はアミューズメントパークのような派手な装飾で埋め尽くされていて、けっこう楽しい。死後の世界観が日本とは大きく違っているなぁと思いながら店の中を見てまわる。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130302.jpg

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130300.jpg
「美真香」の中。うーん、このセンス。。ラッパーたちのギラギラ・ファッションとどこか通じるところがるような。

CheeCheongFun&Kopi-Penang-2011.jpg
■ 猪腸粉とコピ
宿の部屋が空く八時までは、街中をぶらり歩いて時間をつぶした。夕食までのお腹の足しに「猪腸粉(Chee Cheong Fun・チーチョンファン)」という料理を食べた。名前から想像すると臓モツ料理のようだけれども、麺料理の一種。「麺の文化史」によると河粉系列の中に分類されている。発祥は中国広東とのこと。つるん("テュるん"という感じが近い)とした食感に、もっちりとした噛みごたえが加わり口の中で踊る。あっさりした麺に、濃い甘辛味のソースがからまり美味。はじめて食べる麺料理だった。

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
 ウルチ米を水に漬けておいて、吸水させてから回転式の石臼で湿式製粉する。バットのようなたいらな容器に油をしいて、ドロドロのペースト状のシトギをうすく流しこむ。コメ粉を流し込んだ容器を蒸し器にいれて蒸しあげるか、熱湯の湧きたった鍋にた浮かして湯煎する。コメ粉が加熱されアルファ化すると半透明の膜状になる。これをとりあげて長方形に切り、こまかに切って料理した肉や野菜の具を巻きこんで円筒形にしたのが腸粉である。ブルブルとした弾力的な白っぽい筒のなかに内容物がつまっているありさまを、ブタの腸になぞらえた食べ物だ。
「麺の文化史」石毛直道(講談社学術文庫・p96-97)より
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -

■ 新月宮茶室(Sin Guat Keong Coffee Shop)にて
この食堂は「猪腸粉」が名物らしく新聞の記事にもなっていた。主人はそのことが自慢の様子だった。
猪腸粉 / 三條・2.00 MYR、二條・1.40 MYR
Kopi(コーヒー) / 1.1 MYR(ここはコーヒーも美味かった。タイと同じ煮出し式のコーヒーでやたらと甘い。香りは飛んでいるが、コーヒーのコクは濃縮されている)

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130347.jpg
雨上がりの"Lebuh Chulia(チュリア通り)"
この日は、夕方と夜の二回、短い雨が降った。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130351.jpg
Jalan Masjid Kapitan Keling(マスジッド・カピタン・クリン通り)

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130354.jpg
早朝の「豪華旅社」の二階フロア。クアラルンプールに向かうため早起きし、荷をまとめたあと部屋を出る。朝日が窓から覗いていた。まだ陽が強くないので、半袖だと少し肌寒いくらいだった。一日にも満たないペナン島の滞在、このあとの数日も同じように移動と宿泊のくり返し、せわしない日が続く。

■ 豪華旅社(HOTEL NOBLE)/ 36, Lorong Pasar, 10200 Penang
ペナン島では「豪華旅社」という宿に泊まった。一泊25MYR。ジョージタウンに着き、右も左もわからない状態で、宿を探しうろついているときに偶然見つけた。名前がすごく気に入って、ああ、ここに泊まりたいと思いフロントをたずねる。中華圏でも「豪華」の意味は日本語のそれと同じなんだろうか。英語表記では"NOBLE"となっているので、「高貴な」という意味合いになりおおよその意味は近い。宿は二階建ての建物で、日本の70年代ぐらいにあった「なんとか荘」を思わせるたたずまいをしている。懐かしい感じがした。空き部屋があるかを聞いてみたところ、「あいにく満室なんだよ」という返事だった。しかし、夜の8時にひと部屋空くので、それ以降でよければひと部屋用意できるとのこと。もちろん問題はなかった。それまで荷物を預かってもらうことにした。ただ、翌日には、また予約が入っているため、今日いち日だけしか泊まれないから、とだけ付け加えられた。人気のある宿のようだ。どのみち、明日はここペナン島を朝早くに出て、クアラルンプールへ行かなければいけないから、一晩だけ泊まれればいい。宿は、通りから一本路地を入ったやや奥にあり、比較的静かだった。ただ、この路地の周囲は夜になるとけっこう暗くなるので、歩くにはちょっと怖いかもしれない。宿の人は親切だった。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130360.jpg
■ Wisma Kastam (Malayan Railway Building)
http://www.penang-traveltips.com/wisma-kastam-malayan-railway.htm
美しいシルエットと色使いをした建物。1907年にマレー鉄道ビルとして建造されたもの。神戸の旧居留地を思い出させる港町特有の雰囲気が、船着場の周囲には点々と残っている。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130277.jpg
海外のパーキング・メーターってなんかカッコイイ。Wisma Kastam前の通り。ここを歩いていると、カナダか北米にいるような錯覚になる。

・【イラン】街に募金箱が多すぎて「パーキングメーター」と間違えそうになったでござる
http://rocketnews24.com/2012/10/03/252992/
イランにはパーキングメーターのような募金箱がいたるところにあるとか。

R2N-GeorgeTown-Malaysia-R0130363.jpg
■ Penag to Butterworth by Ferry
ペナン島からバターワースへ。このあと、クアラルンプールに向かい、そしてシンガポール、成田と帰国の途につく。これまでの旅の回想をしながら船上からぼんやりと海を見つめる。急に進路を変え、スマトラ島に行かないかなぁとか、帰りたくない症候群が湧いてくる。僕のとなりでは、立派な口ひげをたくわえたムスリムのじいさんが、同じように水平線の彼方を物憂げに見つめていた。栗色の目と落ち着いたグレーの服装の組み合わせがキマっていた。船が接岸のため旋回しはじめると、影が日時計のようにゆっくりと床の上を動く。


马来西亚(馬来西亜) | 槟城・乔治市
マレーシア、ペナン島(檳島)、ジョージタウン
George Town, Pulau Pinang (Penang), Malaysia
posted by J at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | Malaysia - 2011 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


バンコク ホテル格安プラン