2016年03月27日

アンナ・カヴァン「氷」


去年秋ごろに書いていたもの。出だしが少し長くなってしまったので、どうしたものかとしばらく下書き状態のまま置いていた。けっこう気に入ったところもあり、当時感じていた季節感なんかが今の時期とは少しずれているかもしれないが、後半部分を少し直してアップ。以下どうぞ。



きっともう半年近くが経ってしまった。ある晴れた初夏の日、だったような、そうでないような、はっきりとは覚えてないが太陽の光がさわやかにアスファルトを照らし、肌にやさしく届いていた時期だったように思う。今年もまた、むあんとする、いつもの蒸し暑い夏がやってくるんだろう。そんな予感を空に浮かぶ白い雲が示していた。ハングリーに吹くビル風は紆余曲折に飛び交い、街の新緑とそのにおいを手当たり次第にかすめとっては、半袖シャツの中をうまくくぐり抜ける。僕はいそいそとエスカレーターを下りながら、短く終わるだろうこの快適な季節を目や腕に感じとっていた。

時間の合間に青山通りにある「青山ブックセンター」に行ったときのこと。アートやファッション系の本や雑誌が充実したこの本屋さんへ来るのはけっこう久しぶりだった。写真集や画集、新しいファッション・ヴィジュアル誌を求め、こことパルコ・ブックセンターは毎週のように通っていた時期もあったが、今はその習慣もすっかりとなくなり、もっと自分の生活ペースを優先し何かを急ぐでもなく本を探すようになった。扱う量こそ少ないが個性的なアート本を揃えるセレクトショップがあちこちにできたことも多少影響しているとは思う(こういった店は、駅と駅の間だったり多少立地の悪い場所にあったりするが、中心街にまで足を伸ばさずにすむ)。来なくなった分だけ行ったときに感じる変化やギャップは大きく、青山通りから延びた骨董通り界隈なんかもずいぶんと様変わりしていたけれど、ここ青山ブックセンターは十数年前ともそう変わらず、静かに長く営業を続けている。デザイン・アパレル・建築事務所などの多く集まる場所の理というものはやっぱりあるのだろう。こういった本屋の客層は、おおよそそういった職種の人たちか、美術系学科に通う学生らが多い。

そういえば、この青山ブックセンターでテリー・ワイッフェンバッハ(Terri Weifenbach)の写真集 "In Your Dream" の初版本を買ったんだよな、とかを思い出す。ハードカバーで、5, 60ページにも満たない薄い写真集だった。掲載図版の点数もページ数に比例して少なく余白を生かした上品なレイアウトだったため、よけいに少なく思えた。しかし印刷はとてもきれいで、一点一点それぞれが、選びに選び抜かれた末のものだとわかる魅力的な写真ばかりだった。彼女の撮る写真は、ナイーヴな風景写真の範疇に入るのだろう。ほんのわずかな部分にしか焦点が合っていないものがほとんどで、抽象的かつ具象的な二つの要素がやわらかな色彩の中で溶け、混じりあう。そしてこの写真集に収められた写真は、それまでにあったどんなものとも違っていた(*思い返してみると、数年前に流行ったミニチュア風写真の先駆けになっていたりする。彼女の使っていたカメラは古ライカ・レンズ〜確かエルマーf4/90mmとズマリットf1.5/50mmだったような記憶〜を付けていた。レンズの開放値で被写体にフォーカスしていたため、レンズ収差がもろに出て、35ミリフォーマットでもアオリ機能を使って撮ったような効果があった。まだ一般的にはレンズの数値スペックに性能の優を求める傾向が根強くあり、古レンズのボケ味やレンズの個性ともいうべき収差といったモノは良くないとされていたが、彼女はこの効果をうまく利用し自身の写真作品に生かしていた)。初版千部、通常仕様とオリジナル・プリントの付いた限定仕様の二種類があり、僕はどちらにするか迷いに迷って、結局、両者の値段の開きに自分の財布が追いつかず通常仕様のものにした。その後、オリジナルプリント付きのものにえらいプレミア価格が付いてたのを知って、ちょっとくやしかったりもした。当時の価格は、通常版が一万円前後、限定版が三万円弱位だったと記憶している。今中古本屋のサイトやe-bayなんかをみると、通常版が3〜5万、限定版が十万円以上の値がついている。まぁ、お店側の付ける希望価格と、買い手がつく実勢の価格には多少開きがあるだろうから、店頭価格はあくまでも参考程度だろうが、熱心なファンもまだ多くいて、そこそこいい値段になっているのは間違いないだろう。
当時写真集はよく見ていたし、気に入ったものがあるといろいろと買ってはいたが、次第に一枚でも多く自分の写真を撮りたいという気持ちが強くなっていたので、結局所有していたほとんどを売り払ってしまった。売ったお金は、買っても買っても追いつかない印画紙やフィルム代にすぐに化けてしまった。テリー・ワイッフェンバッハの写真集も最後の最後までは手元に置いてあったけれども、ある日突然「いらないや」と思い、残っていた写真集と合わせて売ってしまった。希少で気に入っていた大事な写真集ばかりだったが、べつに自分で所有してなくても、世の中の誰か持っていればいいやと思えるようになったこと、それが自身の中で一番の大きな変化だった。もっと早くにデジカメが普及していたらどうだったんだろう? フィルムや印画紙にかかるお金の事を考える必要はなかったのに、なんて思い返してはみるが、でもきっと、あのときは「愛蔵の写真集を売り、処分する」という行動が必要だったんだ、そう冷静になって今は思える。もしタイムマシンがあって、しばらくしたらプレミアがつくから手放すな、なんて言われたとしてもきっと持っているべきではないと思っていたはずだ。人の撮った写真から学び、吸収するときではもうなかったのだなと。

話がおもいっきり逸れてしまった。久しぶりに来た「青山ブックセンター」の続き。
足は海外文学のコーナーへと向く。特に何かを買い求め、立ち寄ったわけでもないため、本のディスプレイや店員さんのPOP、そういったものに目がいく感じだ。普段立ち寄る一般的な書店とはやはり違った品ぞろえ。知らない本、凝ったデザインの本がたくさんあって、目がそわそわしているのが自分でもわかる。「こういうときに何かを買うと、たいてい失敗してしまう。そう、目を慣らすためだけにしておいた方がいい」日常的に学んだ教訓みたいなものが頭のなかの小さな引き出しからそっと声を出す。今はネットもあり、世界中の店(あるいは個人)に躊躇なく品物を注文できる時代。昔のように流通がゆきとどかず、ある特定の地域だけでしか物が回転してないといった不便はもうないのだから、店頭在庫のみ、再入荷不明だなんてことはそうそうない。買う側にしてみればそういう余裕は、欲しい本をじっくり選べとてもいい。

ふと平積みのディスプレーに目がいった。白縁に黒いベタ面のシンプルなブック・カバーが並べられている。夏に向けたさわやかな季節には、似合わないやや重いトーン。ちくま文庫、アンナ・カヴァン「氷」というタイトルだった。フランス人風の洒落たエッセイストみたいな名前。第一印象は悪くない。少し気になり手に取った。表紙のデザインからは一見、ゴス小説を連想させ、作家の名前とは妙に対照的で何か印象に残るものがあった。そのときは、ぱらっとページをめくり軽く目を通したくらいで終わったのだけど、以外とそういうものって潜在的な記憶に残るんだろう、ついこの間、新宿の紀ノ国屋書店に行ったときに、この文庫が置いてあったのを見て、いつの日ぶりかのデジャヴ的な感覚が戻ってきた。そしてそっと手を伸ばしページをめくっる。今度は意識して本のなかの文字を追った。




- 日本語訳 -
 私は道に迷ってしまった。すでに夕闇がせまり、何時間も車を走らせてきたためにガソリンは実質的に底をついていた。こんな人里離れた山の中で夜になって立往生したらどうなるのか。そう思って愕然とした時、給油所の看板が見え、私は心底ほっとして、ゆっくりと車を寄せていった。

「氷」アンナ・カヴァン(山田和子・訳)、より ・1章(ちくま文庫 / p17)


- 原文 -
"I was lost, it was already dusk, I had been driving for hours and was practically out of petrol. The idea of being stranded on these lonely hills in the dark appalled me, so I was glad to see a signpost, and coast down to a garage."

Anna Kavan "Ice" 1967 (Peter Owen Modern Classic / p5)


冒頭から引き込む書き出しで、謎めいた世界へと誘ってくれる。文章の合間にある質感というか空気感がとてもいい。カフカがブレアウッチ・プロジェクトの脚本を書いたのならきっとこんな風になるだろうな、という感じの文章と物語の進み方。暗たんでシュールなイメージの映像がすっと頭に浮かぶ。読みやすいが適度な質量・重みがあって、テンポよし。こりゃ、じっくり読まなければと一旦本をとじる。立ち読みでお楽しみが減るのはもったいない、そういう類の手応えあるいい文章だ。このときは読みたい候補の本が他にいくつかあったので、それらと比べながら最終的に残った二冊、ヘレン・マクロイ「あなたは誰?」とカヴァンの「氷」を交互に見つつ悩んだ末に、秤の振れた方を選んだ。傾いたのはやっぱりカヴァンの「氷」だった。



”この世界の冷酷さは、少女の冷酷さと脆弱さが誘発しているように思われた。少女はこのうえなく繊細な神経の持ち主で、極度の緊張の中で生き、人間と人生をおそれていた。”
「氷」アンナ・カヴァン(ちくま文庫 / p22)


この小説、ストーリーの進み具合や流れは一応あるのだけれど、何かがどこかおかしい。場面は次から次へとめまぐるしく展開していくものの、いつの間にかまた同じ場所(似たような状況)に戻り、主人公はさまよい続ける。こうした反復がある種の奇妙な錯覚を伴わせる。そしてまた、作者が夢や幻覚のなかで見た(あるいはそれらから着想を得た)物語を集め、正常な意識のときに繋ぎあわせたちぐはぐな断片集。カヴァンの頭の中で沸き上がる幻想シーンのパッチワークと言えばいいのか。かといって、そのようなズレが気になるかといえばそんなこともなく、謎めいた物語をより謎めかせ、より深くその世界へと誘う要素として、読者を引き込む格好だ(面食らい、受け付けない人もまた多そうだ)。殺風景な取調室の中で、空想好きの容疑者を問いつめ、つじつまの合わない供述を次々とまくし立てたものをノートに書き留めたひとつのレポート。と見れば、きっとすんなりするかもしれない。現場のディティールや場面場面の言い表しはものすごく細かく語っているのに、肝心の動機や時系列を問いただすとどうにも焦点が定まらない。読んでいると、何か狐につままされているような感覚と確かな現実感の交錯があり、この二つのバランスが奇妙にも釣り合っている。彼女独特の文章表現が、けっこう視覚・他の感覚を刺激するものがあって、ありえない(物語の)世界に非常なリアリティを与えているのだろうなと。
そしてもうひとつ、カヴァンが重度のヘロイン中毒だったというエピソードを聞くと、これらは納得できるものがある。小説に登場する人物や散発的に展開するストーリーなどは、薬による幻覚症状のまさにそれで、登場人物像なども分裂した彼女の人格の部分・断片がそれぞれ振り分けられているのだろうなと思えてくる。テンポよく読み進めることができるのも、カヴァンの文体が引力を持っているからで、これらバラバラとしたものをうまくつなぎ止め、物語としての形をつくっている。


あらすじ
小説の主人公である「私」は、熱帯地方での調査を終え帰国すると、ある日急にこのか弱い「少女」に会わなければという衝動にかられ、彼女の住む国へと旅立つ。しかしその先の世界は得体のしれない「氷」の浸食で異常な事態となりつつあった。少女は画家である「男」と結婚をしていたが、二人の関係は冷えきっており生活は実質破綻していた。二人の元を訪れた「私」は「少女」と無事会うことができたが、その直後に少女は突然失踪する。そしてまた少女を求める旅に出ることとなる。今度は「長官」が支配権を掌握する「高い館」のある国へ。「少女」は「男」とともに館に閉じこめられていた。

滞在数日目、「私」は「長官」に呼び出されある申し出を受ける。

”この国は小さく貧しい後進国で資源もない。大国はわが国をまったく取るに足らない存在としか見なしておらず、いかなる関心も払おうとしない。そこで貴国の政府に、我々の有用性を、たとえ地理的な位置という理由だけであっても我々が有用な存在たりうるということを、納得させてもらいたいのだ。”
「氷」アンナ・カヴァン(ちくま文庫 / p76)

「長官」から有無をいわさず政府あての協定を押しつけられた「私」は、見返りに高い館のどこかにいる「少女」との面会を長官に要望する。願いはすぐ叶うも、今度は町に侵略者たちが現れ、破壊されてゆくそして「少女」はその犠牲となる。
と、こんな具合に次から次へと場面が入れ替わり話が進む。前後のつなぎ目があるようなないような曖昧なところもあり、物語として起こっていることなのか、主人公である「私」の妄想なのかがどうにもよくわからないが、その不可思議な世界に浸れることは確かで、ああこのまま「私」と「少女」の追いかけっこが果てしなく続いてくれればいいのに、なんて思ってしまう。

主人公「私」が追い求める、少女のプロフィール的なものはだいたいこんなふう:
21才。強く抱き締めたら折れてしまいそうなほど痩せている。鋭く突き出した手首の骨、アルビノの銀白色の髪は月光に照らされたヴェネチアンガラスのようにきらめく。長いまつ毛。インドリ(大型のキツネザルの名で熱帯の島に住み絶滅寸前の種)の歌が大嫌い。
「氷」アンナ・カヴァン(ちくま文庫 / p22, 36, 41)



カヴァンとデュ・モーリア、安部公房
デュモーリアの短篇に「モンテ・ヴェリタ」という作品がある(日本語訳は創元推理文庫"鳥"に収録。表題作はヒッチコックの映画「鳥」の原作として知られる。1952年発表)。おおよその話の筋は、二人の男に愛された女が忽然と姿を消し、彼女を追って男が捜索すると、女は人の寄りつかない山奥の特殊なコミュニティの巫女的な存在となっていた。というやや非現実的な話。とても冷ややかで克明な文章で描かれているせいで、より神秘感が増す。この物語の展開はカヴァンの「氷」とどこか通じるところがあって、「氷」を読んでいるときに、ふと以前に読んだ「モンテ・ヴェリタ」が思い浮かんだ。てっきり、デュ・モーリアの方が前の世代で、カヴァンの方がより現代に近い作家だという先入観をもっていたが、じつはカヴァン(1901-1968)とデュモーリア(1907-1989)はほぼ同世代、さらに同じイギリスの女性作家という共通点もある。小説に同時代性が出てしまうのか、それとも時代の雰囲気が作家という存在を媒体にして小説の中へ溶けこんでいるのか、興味のあるところ。
そしてもうひとつ、カヴァンのこの「氷(1967)」は安部公房「砂の女(1962)」と非常に共通する部分が多い。似通った点とさらにネガとポジ的な対極とも思える点があり、二つの作品には何かうっすらとした繋がりがあるように思えてくる。カヴァンと安部公房、二人ともにカフカの影響を受けているという要素は確かにある。ただそれ以上に両作品の書かれた時代・1960年初頭から後半にかけてを漂っていた世界情勢(キューバ危機を経たあとの東西冷戦下の時代。核戦争をにらむ緊張感)が、どうにも物語全体に潜む重石として居座っているように感じる。
特にカヴァンの「氷」は、文章(訳されたものだけれど)や謎めいた寓話性といった箇所にカフカの影響が相当に感じられ、最もそれがよく現れているのは、登場人物の呼称で、誰ひとりとして名前らしい名前がなく、"個人(キャラクター)"というものをいっさい排除し記号化されている。この点は安部公房「砂の女」も共通する。

カヴァンとカフカの共通項
カヴァンの「氷」では、主人公の「私」、そして「少女」「長官」「男(少女の夫で日曜画家)」が登場し、場所の名も「高い館」「政府」「この国」「町」といった呼び方になっている。一方、カフカの有名な短篇「流刑地にて」での登場人物を挙げると、「旅行者」「司令官」「士官」「囚人」等。中篇小説「訴訟」では「ジョセフ・K」「グルーバッハ夫人」「アンナ」「ビュルストナー嬢」等、この小説では主人公と関係の近い人物には名前があり、一方、主人公と相反する、あるいは直接に関係のない人物(「番人」「銀行員」「予審判事」「監督」等々)には名前が与えられてない。また、カフカでもっともよく知られた「変身」では、主人公「グレゴール・ザムザ」「妹(グレーテ)」「父親(ザムザ氏)」「母親(アンナ、ザムザ夫人)」そして「支配人」が主な登場人物になる。こうして書き出してみると、カフカの小説に登場する人物は確かに記号的ではあるが、それはパブリック・イメージなところも少し強くて、実際には、全くの記号化・匿名性があるわけではなく、個人を特定する名前はかろうじて残っている。二作家を比べると、カヴァンの「氷」に登場する人物たちの方がより無名性・匿名性が強い。
これら物語に登場する人物やモノが、ここまで記号的で漠然としていると、どしてだろう、何かとんでもなく不安な気持ちにもなったりもする。童話や民話でも同じようなスタイルで人物や動物などが登場するが、それらにある普遍性な意味合いとはまた違ってみえる。名前がないことの恐怖。これらはカヴァンの物語に漂う不気味さを支える要素としてよく効いていて、よりいっそうの非現実感を演出しているように感じてしまう。本来あって然るべき「名前」の不在、それが独特の緊張感を生む種になっているんじゃないだろうか。
しかし例外というほどでもないが、「氷」ではわずかに登場する動物たちには、かろうじて固有名詞がつけられている。セグロカモメ、イルカ、トビウオなど。他との統一感を持たせるために、鳥(Bird)や魚(Fish)としてもよかったのだろうけれども、あえてそうしなかったのには人間に対する不信というか、そういったものがカヴァンの中にあったんじゃないかと思えたり。

カヴァンはこういった手法を意識的にやっていたのか無意識のうちにそうしていたのかはわからないが、結果的に物語の不可思議な内容とリンクし、読者により強く非現実感を与えているように思う。映画でも、同じ様な例がある。007シリーズの「Q」や「Men in Black」の「J」や「K」なんかは、まさにそうだ。こうした記号的な名前は秘密めいたところがあり、何か特殊な任務につく素性のよくわからない人物や組織といったものを連想させるのに、やはり向いている。固有の名前を排除することは、人の'個'の存在を失わせよりミステリアスになる。

カヴァンと安部公房の共通項と対比する点
一方、安部公房「砂の女」に登場するものは、主人公の昆虫採集家である「男(途中、名前が明かされるが、話中では終始この呼び方・既婚)」、「女(死別した亭主がいる)」「老人」、「部落」「組合事務所」、とカヴァン「氷」と同じくほぼ "個" というものが排除されている。ただ、人物とは反し、物語の導入部で重要な要素となる昆虫にはほんとどうでもいいくらいの子細な名称(それも俗称なんかではなく、普段使うことのないだろう学術名)と記述がある。「鞘翅目ハンミョウ属・ニワハンミョウ」や「直翅目・コバネササキリモドキ、ヒゲジロハサミムシ」などなど。虫(生物)に対するこのディティールへのこだわり、差は一体何なんだろう(カヴァンの「氷」で動物にだけ名前が付けられているのと同じだ)。

物語のなかでは主人公(「氷」での"私"と「砂の女」での"男")とほぼ同じくらい重要な準主役である女性("少女"と"女")は、既婚ではあるが実質(夫・亭主との間に)夫婦の関係はない。追い求めるものがすでに誰かの所有(という言い方はあまりよくないかもしれないが)となっていて、中心人物の人間関係に障壁がひとつ存在しているという構図の共通項はなかなかおもしろい。カヴァンの場合、実生活では再婚と同時に名前を変えていたので、プライヴェート・ライフとの関連は多少影響しているのように思える(といっても「氷」の執筆は晩年になってからになるので過去体験が尾を引いているのだろう)。一方、安部公房は家庭を置いて、舞台女優・山口果林との関係にのめりこむのは、もう少しあとなので、この「砂の女」の執筆時点では、さほど私生活の延長に書く材料があったわけではないようにみえる。

また、カヴァンの「氷」と「砂の女」、対比する面として、
氷は液体の結晶化・固化したもの(カヴァン「氷」)であり、砂は大きな岩石が時を経て砕け散り、最後の形態(最もミニマルな状態のもの)となったものだ。「氷」は形の不確かな状態だった水が一つの形にまとまったもの、「砂」は反対に一つの固まりが崩壊した様。

「(小説の)氷」では「私」が「少女」を求め追いかけてゆき、途中「私」は「少女」についての審理にかけられ、その後ようやく二人は一緒になり、今度は二人で(得体しれない)氷の恐怖から逃れるところで話は終わる。ある一定の温度を保たなければ形態を維持できない'氷'は、登場人物の不確かな人間(恋愛)関係の含みとしてみることもできる。
「砂の女」では「男」が砂に埋もれた家に住む「女」から逃れようとし、何度か逃亡を試みるも村人たちに捕まり詰問を受け、そのうちに「男」は精魂つきはて、最後には観念したかのように、その砂の世界で女と共に安住することで落ち着くというもの。ここにいるべきではないという「男」の強い意志が、一面砂だらけの世界の中でゆっくりと砕け、最終的には自分もその砂の一つとなってとけ込んでいく。

現在の小説・物語では、こういった抽象的かつ無名性を帯びた人物が主人公として登場することはほとんどないように思う。むしろ詳細なディティールを持って描かれ、話の中で動いている。と、時代背景や当時の社会状況とのつながりに触れてみなければと気づいたけれども、今回はここで力尽きてしまったため、また気になったときに書いてみたい。


posted by J at 07:00| Comment(0) | TrackBack(0) | - 書籍 - | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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