2013年08月21日

「おとなの味」平松洋子

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アジアの食文化を中心にした本を数多く出されている、平松洋子さんのエッセイ集「おとなの味」。ここに収められているエッセイには、「もうしわけない味」や「獣の味」、「腑に落ちる味」や「消える味」といったように、各章全てのタイトルに「〜の味」という名が付いていて、本を読み終える頃にはすっかりと「おとなの味」というものがどういうものなのか、わかったような気になってしまう。

平松さんの文章には、まな板の上でとんとんと野菜を切ってるような楽しい響きがある。言い得て妙な擬音の数々、八百屋の掛け声にも似た男気を感じる簡潔な文体からは彼女の人柄が想像できる。しっかりしているようでかなりのおっちょこちょい、割烹着が似合うとまではいかないけれど、「昭和」がほのかに香るいいおっかさん、そんなイメージが思い浮かぶ。料理や食材を文章で表現するのはとても難しいはずなんだけれど、平松さんの場合それがすごく自然で、読んでいる方もスッとなじむ。言葉を使って何か料理を一品仕上げてしまうんじゃないかと思えるようなマジック。塩加減、火加減ではないけれど、文章の味付けが、まるで調理しているときの手つきと同じように、いい塩梅でぴたりと押さえられている。またその適度さが、このエッセイのボリュームとよく合っている。そんなわけで、とても読みやすい一冊だった。


"ぼんやりした味"の章では、茶碗蒸しについての話が中心になっている。
「冷えこむ冬の朝、熱々の卵蒸しをおおきなさじですくって取り分け、木のスプーンで口の中に運び入れる。やさしい、やさしい味わい。おかあさんの腕の中で抱っこされているみたいな安心に包まれる。そこに見つかるのは、遠い時間のなかへゆっくり回帰していくような安堵である。(P59より)」

なんて表現があって素敵だなと思った。茶碗蒸しもそうだけれど、オムレツ、卵焼き、スクランブルエッグ等々、卵料理はふんわりとしたものが多いなと改めて気づいた。卵は、そのものが温められ、大事に守られて生育していくものだから料理の素材になったときも、その宿命というか性質のようなものが食感として表れてしまうんだろうか? とも思ったり。

"ずれる味"の章では、ベッドのシーツを剥いで天日干しのシーンからはじまり二転三転したあと、てんぷらへと話が飛ぶ。そこでは、
「てんぷらは揚げものだが、私は蒸しものの一種だと言いたい。衣をまとわせ、熱い油のなかへ静かに放つ。たちまちふつふつ沸き立つ細かな気泡は、いわば素材が放つ蒸気。魚の、野菜の水分をどのあたりまで抜くか、生かすか。これがてんぷらの勝負どころだ。(P62より)」

と、平松さん独特の料理哲学のようなものが垣間見られ、たしかにそうだなぁ。と説得力がある。

"水の味"の章は、水の硬度と料理法について書かれていてなかなか興味深い。ミネラル・ウォーターを飲む場合に水の硬度を気にすることはあっても、毎日の炊事のときにそれを気にすることはほとんどないと思う。地域・国によって多種多様な大地の恵と、そこに流れている水との関係性については深くうなずけるものがあった。
「関東の水で炊いた米は粒が立って硬めやから、がちがち食べんといかん。ところが京都の水はにやにやっとした炊き上がり。やわらこうてもちっとしてる。関東の水は硬度が高く、京都の水は軟水だからやね」
「その土地でとれるものには、その土地の水が一番やと思う。宇治茶を関東の水で淹れれば、渋くなる。逆に静岡のお茶を京都の水で淹れると、味が薄い。(中略)また、関東のパラッとしたごはんだからこそ、空気をふんわり含ませて握る江戸前の鮨が生まれ、いっぽう大阪では押してこしらえる棒寿司ができた」
(P197 - 199より)

と、京料理「菊乃井」主人・村田さんとの会話からも、水に対する論が導きだされている。
にしても、はたして水質の違いによるごはんの炊き上がりの違いがわかるほど繊細な舌をもった人が、(一般の人の中に)どれほどいるんだろうか? なんて思ったりもし(世界一のソムリエの称号に輝いた田崎真也さん曰く、どんな優秀なソムリエでもブラインド・テイスティングでワインの銘柄やヴィンテージを言い当てることはほぼ不可能で、ワインの特徴をつかむことで精一杯なのだとか)。だからこそよけいに、日々感覚を研ぎ澄まし、料理の腕を磨いている職人たちの味覚が際立ってみえた。


posted by J at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | - 書籍 - | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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